15/At dragons' heart《2》

『――容疑者は依然として逃亡を続けており、その行方は未だ掴めていません。現在、警視庁は……』


 最新鋭のホログラムビジョンのなかで髪を頭の後ろで一つに束ねたアナウンサーが原稿を読み上げている。彼女の凛々しい表情をいた顔の隣りには、視聴者を馬鹿にすると同時に威圧するような顔をした公龍の写真が浮かんでいる。アナウンサーは最後に、市民に注意を呼びかけるような文言を並べると、次のニュース――間近に迫っている《東都》設立一〇周年の記念式典に関するニュースへと話題を移していった。

 汐は一つ大きな欠伸をする。退屈に耐えかねて、散々駄々をこねた末に導入させたホログラムビジョンだったが、元から世の中に興味のない性分である汐は二日で飽きた。それでも静寂のなかで過ごし続けるよりはマシだったし、何より公龍がまだ捕まっていないということを確認することができている。

 公龍が逃げ続けている限り、まだ望みは繋がっている。彼が自らの手で自分自身の無実を証明することができれば、少なくともクロエを取り返すことはできるだろう。

 汐自身にかけられている〝赤帽子カーディナル〟や〝六華〟などの改造施術の容疑については今のところどうしようもないが、どうやら《リンドウ・アークス》側も本気で汐を疑っているわけではないらしいことが伺える。今のところ数日おきにクロエの医療記録カルテの在処を聞き出そうと神楽がやってくる他に目立った動きはない。《リンドウ》の目的は不明瞭で不気味だが、少なくとも情報というカードがこちらにあるうちは、積極的に汐を害するつもりはないらしいことは確かなようだった。とはいえ、《リンドウ》がいつまでも汐が話す気分になるのを待ってくれるはずもないのも確かだ。


「そろそろだろうね」


 汐は他人事のような気のない調子で呟き、手元のリモコンでホログラムビジョンを消した。しかしあっという間に室内に広がった静寂はすぐに、扉が開く音によって破られる。

 廊下を歩いてくる気配があって、間もなくリビングの扉が開く。もう見慣れた光景だ。懲りもせずに足を運んできた竜藤神楽りんどうかぐらが立っていた。


「ごきげんよう、ドクター天常」

「君も随分暇なんだな」


 汐が挨拶代わりに言う。いつもなら不愉快そうな顔になる神楽だったが、今日は高慢を極めたような顔貌は一切歪まなかった。

 汐は神楽に不快感を味あわせようと何か言葉を探したが、彼女の後ろに黒服が三人立っていることに気が付いて口を噤む。代わりに神楽がやはり高慢な調子で汐に告げる。


「久しぶりに外出させてあげるわ。立ちなさい」

「おやおや、君はいつからこの僕に命令する身分になったんだ?」

「この場で私に盾突くほどに耄碌したのね。残念だわ」


 神楽が背後の黒服たちに顎で命令するや、彼らは汐に詰め寄った。汐は態度とは裏腹に余計な抵抗はせず、両手を挙げる。


「丁重に扱ってくれ。人類の宝だぞ」


 汐は両脇から抱え上げられて立たされ、アイマスクと耳栓で視覚と聴覚を奪われる。引き摺られるように部屋から連れ出され、車の後部座席に詰め込まれる。


「どこに連れていくつもりだ?」


 汐は一応訊ねてみたが、神楽が答えても答えていなくても、どうせ耳栓をしているので聞こえない。

 やがて車が静かに走り出す。乗っていたのは数分で、その後また両脇を抱えられて歩かされる。移動時間や方角で場所に当たりをつけられるのを避けているのか、やたらと角を曲がらされる。おかげで歩みが止まったときには、自分が今どのあたりにいるのか、全く分からなくなっていた。


「ついたわ」


 耳栓を外された汐の耳に久しぶりに聞こえてきた音は神楽の高慢な声だった。

 続いてアイマスクが外される。しかし差し込む光に慣れていく汐の目に飛び込んできたのは神楽の顔でも、黒服たちの姿でもなかった。


「……何だ、これは」


 ニュルンベルク綱領他、ありとあらゆる倫理観や道徳から距離を置いたところで生きてきた汐であっても、そう声を絞り出すのがやっとだった。

 目の前には分厚いガラス。その向こう側には、床に対して垂直に屹立するベッドに手足を拘束された状態で磔にされた少女がいる。その顔は青白く、唇は罅割れている。まだ一〇代になったばかりだろうに、異様に痩せているせいで随分と老け込んで見える。少女の周囲は天井からはアームが伸びたアームが囲まれ、それらの尖端には糸のような細い針が取り付けられていた。


「何だ、なんて白々しいじゃないの。よく知ってるでしょう? 天常元第一部門ファーストラボ統括殿」


 ガラスに薄っすらと映っている背後の神楽が嘲るように頬を歪める。汐は気の利いた皮肉どころか何も言い返すことができず、小さく息を呑む。汐のその様子を見て神楽がさらに高慢な顔に深い笑みを刻む。


「貴女とドクター・ウルノフが第一部門ここにいた時代は実に刺激的だったわ。彼の死で〝F計画〟こそ早々に頓挫したけれど、その研究課程で貴女が確立した特殊調合薬カクテルの生成は、今やこの《東都》を支えるに欠かせないものになっている」


 神楽は言いながら、汐の肩に手を回した。汐は神楽の指先が触れるや身体を強張らせたが、彼女の細くて長い妖艶な指を拒むことはできなかった。


特殊調合薬カクテルが生まれてから、《リンドウ》の持つ製薬技術は……いいえ、世界の薬学は数十年単位で飛躍的な進歩を遂げた。当時を思い出すと今でも興奮するわ。私たちの手元から生み出されたものが、世界を、人類史を塗り替えていく。これほどの知的興奮はない。強いて言うのなら、万能臓器Universal Gutsの完成が成し遂げられなかったことだけが残念ね。貴女もそう感じていたはずでしょう? ドクター天常」

「今すぐやめさせろ」


 汐は声を硬くする。耳元に神楽の吐息が触れ、この世の全てを見下すような笑い声が微かに響く。


「この私に命令できる立場なのかしら?」


 神楽が右手を挙げる。すると少女を取り囲んでいたアームが動き出し、少女の痩せ細った身体に鋭利な針を射し込んだ。

 ガラス越しに僅かに聞こえる空気の抜ける音。アームから大量の薬液が少女の身体に流し込まれたことは言うまでもなかった。

 少女の身体が膨れ上がった。跳ねまわるように痙攣し、手足の拘束具がボルトごと弾け飛ぶ。少女は床に倒れ込み、苦しそうに喘いでいる。見開いた両目から血が流れ、歯がぼろぼろと抜け落ちる。髪は異様に伸び始め、爪が爆発したように指先から血が噴き出す。


「やめろ! 今すぐ解薬を――」

「騒いだって無駄なのは知ってるでしょう? そもそもあの実験体の体内には私が作成した万能臓器Universal Gutsが移植されてる。……どうやら失敗のようね」


 神楽がもはや興味を失ったと言わんばかりの調子で言うや、少女の胸が爆散。中からは血や肋骨、それとぬらぬらとピンク色に光る肺や心臓の欠片が散らばった。少女は仰向けに倒れ、きっと何をされたのかすら分からないままにその短すぎる一生を終えていた。

 汐は固く握った拳をガラスに叩きつける。しかし当然ながらガラスに傷一つつくことはなく、汐の拳が痛んだだけだった。


「……君はいつまでこんなことを続けるつもりだ」

「んー、理論は完璧なはずなのだけど。何がいけないのかしらね」


 まるで死んだマウスを眺めるように、神楽が少女の死体を眺めながら首をかしげている。それからガラスの前で膝をついている汐を見下ろし、悪辣に頬を吊り上げる。


「この調子だと、をばらしてみるしかなさそうだわ。医学と薬学の発展に貢献して死ねるなんて、あの子は本当に幸せね」

「ふざけるなっ」


 汐は立ち上がり、神楽の胸座を掴む。しかし手はすぐに振り解かれ、神楽に肩を押された汐はガラスに叩きつけられるように背中をぶつける。


「らしくないわね、ドクター天常。全知全能であるって寂しいことだと思わない? だって全能性は可能性の否定。神は人に全能性を与えない代わり、可能性を与えたの。だけど人はその可能性をもって、神すらも超えることができるのよ」


 神楽は恍惚とした表情を浮かべる。金色のネイルで飾られた人差し指で、口の端を伝った涎を拭う。


万能臓器Universal Gutsは人類が迎える一つの到達点。有史以来、フィジカル的にほとんど進化していない人間がようやく手に入れる、新たなステージなの。そしてあの少女はそこに至るための鍵。分かるでしょ?」

「分かりたくもないね。くだらない」


 汐はそう返すのが精いっぱいだった。


「そう、残念。でも貴女が何を喚こうと、時代の針は止まらない。核爆弾が作られたように、あるは黒死病ペストが蔓延したように、人一人の声は巨大な時代の波のなかに埋もれていくの。貴女もいずれ、昔の自分を取り戻せるはずよ」


   †


 公龍は目を覚ます。戦うたびに瀕死の傷を負い、こうして知らない場所で目を覚ますのもさすがに慣れたものだった。

 まだ痛む身体を起こし、自分が置かれた状況を確認する。白い壁に青白い照明。正面の壁には高そうな額縁に収められたレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』が飾られている。右手側には窓があったが、外側をコンクリートで埋められており、外に出たり景色を見ることはもちろん、窓を開けることすらできそうにない。内装を見る感じ病院というよりは高価なマンションの一室という雰囲気だ。だがほのかに潮臭さと下水の臭いが混ざったような不快な臭気が香っている。

 あろうことか公龍が眠っていたキングサイズのベッドの端には、ほんの数刻先に目を覚ましたらしいアルビスがこちらに背を向けて腰かけていた。


「起きたか」

「寝起きに見たくない顔ってだけじゃなく、まさかの同じベッドかよ」

「こっちの台詞だ」


 アルビスは言って立ち上がろうとするが、まだ傷が痛むのか、表情を僅かに歪め、数センチ浮かせた腰をそのままベッドへと戻す。公龍もほとんど全身が激痛を発しているせいでろくに動くことはできそうになかった。

 二人は沈黙した。無事に生きていることをどう受け止めたらいいのか分からないという沈黙だった。


「生き残ったか」


 やがてアルビスが言った。


「そう、みてえだな」


 公龍はそう返した。

 交わした言葉はそれだけ。あとは二人ともに黙り込み、お互いが生きていることを沈黙とともにただただ噛み締めていた。

 やがて生き残った余韻が過ぎ去っていき、次には当然の疑問が湧いてくる。

 あれだけの傷を負いながらも生き残った。こうして治療を施され、指名手配犯という身でありながらそう簡単には露見しない場所にて匿われているのだ。一体誰がこんなことを――その疑問に行き着くのは当然だった。


「なあ、アルビス――」


 公龍がその問いを言葉にしようと口を開くや、遮るようにして部屋の扉が開いた。

 公龍は口を噤んで振り返り、アルビスもまた出来得る限りの動作で臨戦態勢を整える。しかし回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターやグロック拳銃は手元にはなく、二人は揃って下着一枚をつけただけの丸腰だった。


「やあやあ、お二人さん。お目覚めかな」


 入り口には胡散臭い風体の男が立っていた。

 年は少し上。長い髪を後ろで束ね、頬や口の周りには無精髭が浮いている。室内だというのに雪駄を履き、だぶついたジーンズに縒れたシャツをはだけるように着ている。足が悪いのか立っている姿勢はややアンバランスに左側に傾いていた。


「九重くんは初めましてだね。いつも弟がお世話になってます」


 男は言って、公龍にウインクを飛ばす。視界の隅にチラついていたアルビスから猛烈な殺気が滲み出すのが分かった。


「泉水……」

「アルビス。久しぶりだね。逃亡している間に少し野性味が出て、また一段とかっこよくなったんじゃないか」


 アルビスの実兄にして竜藤の次男――竜藤泉水りんどういずみは朗らかな微笑みとともに言って、からかうように喉を鳴らした。

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