14/Blood & Silver《3》

 腹を切り裂かれると同時、吹き飛んでいたはずのアルビスの意識は唐突に揺り戻されていた。全身の感覚はめちゃくちゃで、熱いのか冷たいのか、痛いのかそうでないのか、どこからどこまでが自分の身体の感覚なのかすらも曖昧だった。まるで、唐突に覚醒した意識はこれから死にゆくのだということを強引に突きつけるために戻ってきたようで、不愉快だった。

 頬を衝撃が穿ち、倒れたのだと気づく。死神がすぐそばにまで迫っている気配を感じる。

 既に身体のほとんどは動かない。傷を負い過ぎたからはなく、鉄灰色アイアングレーのアンプルの直接服用による暴走で膨張した筋肉や骨や皮膚が互いに癒着し、アルビスの肉体から自由を奪っているのだ。このままいれば、やがて呼吸さえもままならなくなって死に至るだろう。

 だがそれでも、こんなところで終わるわけにはいかない。少なくとも終わることを受け入れるわけにはいかない。まだ全ては過程だ。アルビスには遂げなければならない目的がある。母レシアの無念を晴らすまで、死ぬわけにはいかないのだ。

 アルビスは動かない身体でほとんど芋虫のように地面を這い、斬撃とともに背後に抜けていったフェンディを見上げた。その奥には凄絶な表情でフェンディを睨み続けている満身創痍の公龍がいる。ぼやけた視界の中央に立つフェンディは、昏い歓喜の笑みを溢していた。


「ジョニー、私、やった……貴方の、仇、取るわ。見て、てね」


 フェンディが虚空に語り掛けている。その優しげな声は喜びを表現する内容とは裏腹にひどく虚ろで、どこか物悲しさを湛えている。

 きっと復讐に突き進んだ先に、どんな幸せな結末も存在しない。復讐という篝火を追って闇を抜けた先にあるのは虚無なのだろう。燃え尽きた松明が洞窟の隅に打ち捨てられるように、人のかたちをしただけの焦げ付いた燃えカスが、虚無のなかに置き去りにされるだけだ。宿願の成就を目前にしたフェンディの笑みはそういう痛さを湛えている。

 無論、そんなことはアルビスも分かっているつもりだ。復讐は何も生まない。そもそも何かを生み出したくて復讐の炎に身を焦がしているわけでもない。

 レシアは優しい人だった。だからもし彼女が現在のアルビスを知れば、決して喜びはしないだろう。ちゃんと幸せになれと、アルビスのことを叱るかもしれない。

 きっとなんていうのは残された者のエゴイズムで、所詮は後からとってつけた方便なのだろう。

 本当はただ許せないだけなのだ。あの日――いやまだ《リンドウ》にいたときからずっと、母親を守ることのできなかった弱い自分を。

 本当は分からないだけなのだ。最果てのスラム街で守っていこうと決めたはずの母を喪ってから、自分が一体何を寄る辺として生きていけばいいのかが。

 きっと全ては自分のためだ。復讐は、過去を悔やみ、過去に囚われ、過去に目を向けて生きる他になくなってしまった弱い自分を生かすために選んだ選択肢なのだ。

 寂しくとも哀しくとも、どれほどの痛みを伴おうとも、そうする他になかったのだ。

 だが公龍はそんな自分と過ごした日々を、楽しいと言ってくれた。あれはたぶん、公龍とクロエの存在がアルビスの生きる理由にはならないかという問いかけだったのだろう。そしてアルビスは、公龍のその気持ちに応えることができなかった。脳裡に焼き付いている犯される母の姿が、あるいはただそれに唖然とする自分の姿が、もはや復讐と異なる道を選ぶことを許さないのだ。

 アルビスは、数多の喪失を抱えながらも憎しみや過去に囚われることなく、クロエとともに生きる未来へと顔を向けることのできる公龍を素直に尊敬していた。決して口には出さないが羨望にも近い感情さえ抱くことがあった。

 アルビスにはできない。そんな公龍に憧れを抱きそうになる自分を認めることすら、簡単にはできなかった。

 公龍には感謝をしている。解薬士として自分と過ごしてくれて、復讐という修羅の道に堕ちてなお、こうやって共に戦ってくれて。

 アルビスのこれまでの人生は、間違いなく復讐に費やしたものだ。だが最期にほんの一瞬だけ、こんな自分と向かい合おうと手を差し伸べ続けてくれたのために生きるのも悪くないのかもしれない。

 レシアはきっと許してくれるだろう。アルビスは自分自身を許せないかもしれないが、それでいい。この胸のうちで滾り続ける憎悪はアルビスが煉獄へと抱えて持っていけばいい。

 必ずクロエを救え――。

 それがアルビスに込められる公龍への願いだ。


   †


 公龍はおよそ死を覚悟して、だが最期の瞬間まで抗う意志を放棄せず、目の前で閃いた赤の斬撃を目で追っていた。だから刃がぴたりと静止した瞬間、まるで時間が止まったかのような錯覚に陥った。


「んんんんああああああああああああああああああああああああああああああっ!」


 耳を劈くのはフェンディの雄叫び。痛みや苦しみに対する叫びではなく、迸る苛立ちの発露としての咆哮だった。


「はああああ、なああああ、せえええええ、よおおおおっ!」


 見ればフェンディの背後には脇腹を切り裂かれて地に沈んだはずのアルビスが立っている。フェンディをまるで背後から抱擁するように羽交い絞めにし、ほとんど動かなくなった身体でフェンディを拘束していた。いや動かない身体だからこそ拘束できているのだろう。それはまさしく、執念が呼び込んだ決定的な好機だった。


「アルビス」


 公龍は思わずアルビスの名を呼ぶ。もちろん応える声はない。

 鉄灰色アイアングレーのアンプルの直接服用によって膨張し、皮膚を突き破った僧帽筋や斜角筋に覆われた顔――その奥に見える薄青の目に光はない。腕や脚の筋肉はところどころ脈打ってこそいるが、それが死後痙攣とどう違うのか、人の姿を逸脱してしまったアルビスの身体では判断のしようがなかった。

 もしかするとアルビスは既に事切れているのかもしれない。身を呈し、最期の力を振り絞り、公龍を紙一重のところで守ったのかもしれない。だが公龍の心は不思議なほどに平静だった。

 それは澪の死で飽和した感情が麻痺してしまったからではないだろう。一度は自らの元を離れていったアルビスに、過去の全てを差し置いて失望していたわけでもない。ただ光を失ったアルビスの眼差しが、それでもなお訴えかけているのだ。

 クロエを救え――。

 アルビスの存在は公龍にとって、何よりも力強く頼もしい支えだ。思えばいつだって、公龍が折れかけた瞬間にはアルビスがいて、アルビスの高慢な言葉といけ好かない眼差しがあった。

 水と油。絵に描いたような犬猿。顔を突き合わせれば罵り合い、時には掴み合うことさえあった。だがそれでもアルビスは決して代わりの利かない相棒で、全幅の信頼を置いて背中を預けられる仲間であり、絶対に負けたくないライバルだ。アルビスが折れないならば、公龍も折れるわけにはいかない。自分だけが膝をつき、頭を垂れていることなど許されはしないのだ。


「んんんんああああああああああああああああああっ!」


 アルビスの腕に抱かれながら、フェンディが藻掻いている。緩やかながらも再生と浸食を続けるアルビスの肉体はフェンディさえも呑み込もうと体組織を拡張し続けている。

 公龍は地面に投げ出していた血の刀を手に取る。もはやそのかたちを保ち続けることはできず、罅割れたそれはぼろぼろと崩れ落ちていく。

 もう一歩。あと少しだけ。

 公龍は歯を食いしばり、自らを鼓舞する。全身の血管に針を通したような激痛が走る。真っ白になって飛びそうになる意識を、唇を噛んだ痛みで繋ぎ止めた。

 握り締めた掌に残ったのは、刀と呼ぶにはあまりに不恰好な刃物。刀身は中ほどで折れ、残っている半分すらも罅割れてボロボロ。鍔を握って押さえていなければ刃と柄はばらばらに崩れてしまいそうだった。

 だがそれで十分――。

 公龍はよろめくように立ち上がり、前のめりに躓くように踏み込んだ。出来損ないの刃は抵抗を続けるフェンディの左胸は、背後のアルビスもろとも貫いた。

 掌へと伝わる確かな感触。刃を伝い、消えていく脈動が感じられた。


「どう、してっ、私っ、がっ。ジョニーッ、ああっ、ああっ!」


 見開かれたフェンディの白い目が赤く濁っていく。叫び続ける口元からは赤い筋が伝い、彼女の身体を覆っていた血赤の鎧は崩れ去っていく。しかし露わになるはずの純白のセットアップは胸を中心に赤く染め上げられていて、その染みはじわじわとフェンディを蝕むように広がっていった。


「ああ……ジョニー、愛し、てるの。だから、待って、て。もう少し、で、私も、そっちへ、逝くから」


 フェンディが赤い血を流す唇を震わせて愛の言葉を吐く。赤く染まったその双眸の先にはあらゆる禁忌に触れてなお生き返らせようと試みた最愛の人が見えているのだろうか。もしかすると〝氷血の魔女〟などと呼ばれ恐れられた彼女は、誰よりも愛情に深いひとだったのかもしれない。きっとただ少しだけ、その愛情が狂気に近いところに芽生えてしまっただけなのだ。

 公龍は突き刺していた刃の柄を捻り、フェンディの胸へと捻じ込む。こぼれていた命が根っこから引き抜かれるようにフェンディの身体ががくんと震え、それを最後に動かなくなる。

 しかしフェンディは死んで尚、地に膝をつくことも、横たわることも許されなかった。まるでかつての魔女裁判の悪しき光景のように、動かなくなったアルビスの身体に磔にされて両手を広げたまま項垂れている。

 代わりに公龍が膝をついた。もう――いや、とっくに、今度という今度こそ限界だった。指の一本でさえ動かせるような気がしない。公龍はゆっくりと、自らが深い微睡みのなかに落ちていくのを感じていた。

 空を覆っていた雲の切れ間から、公龍たちに向けて太陽の光が差している。それは夏の強い日照りに相応しくない、春の陽光のように穏やかで柔らかく、秋の陽射しのように寂しげな光だ。

 戦いは終わった。因縁は絶たれた。

 大義のない戦いの果てに残ったのは、動かなくなった三人の影と風に溶けていく色濃い悲しみだけ。

 磔になった魔女の前で一人の男が跪くその光景は幻想的で物悲しく、それなのにどこか慈愛にすら満ちていて、ある種の宗教画のようにも見えていた。

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