03/The demon in the cage

 旧東京湾に潜む人工浮遊島メガフロート――あまりいい趣味だとは思えないが通称で監獄島、あるいは《鉄籠ケージ》と呼ばれるそこはほとんど知られていないものの《リンドウ・アークス》が所有する施設のうちの一つだ。

 目的は過剰摂取者アディクトなどを収容し、今後の医薬発展に役立てる研究を行うこと。元は実験における倫理規制の緩和などを骨子とした医薬特区に対抗して建設が進められた施設だが、医薬特区が事実上《リンドウ》によって吸収されて以降、その役割はよりに近いものになっている

 竜藤連地りんどうれんじはヘリコプターの機内から窓の外を見下ろす。穏やかに波打つ黒い水面が慌ただしく騒めき、海を裂いてヘリポートが現れる。連地自身は初めて見る光景だが、静火から聞いていた通りSFじみた圧巻の光景だ。

 ヘリコプターはゆっくりと降下を始め、海水で濡れたヘリポートに降り立つ。連地はヘリコプターを降り、出迎えのために控えていた所長の鷲郷わしごうに挨拶をする。革靴が濡れるのは不愉快だがまた新しいものを買い直せばいいと思うことにした。


「ようこそお越しくださいました。連地さん」

「早速だけど案内してもらえるかな」

「もちろんです。こちらになります。あ、足元が滑りやすくなっておりますので――」

「うん。分かってるから早く案内して」

「し、失礼しました」


 鷲郷は禿げあがった頭をかきながらせかせかと歩き出す。連地は頭のなかで鷲郷に無能のタグづけをしながら後に続く。

 当然だが時間というやつはどうしようもなく有限だ。それは天才にも凡夫にも平等に与えられる。だが同じだけの時間を過ごしているはずなのに、成果や能力には雲泥の差が生まれる。それはなぜだろうか。もちろん遺伝的要素や環境的要因、その他さまざまな原因が複雑に絡み合い、そこに運何かの要素も加わっていくことで能力は醸成され、成果は示される。だがその本質は時間だ。さまざまな不平等のなかで唯一平等に与えられている時間を最も有限に使うことこそ、優れた人間であることの証明だ。竜藤の家に生まれるという、およそ《東都》において最も恵まれていると言っていい環境にも甘んじることなく、時間を最大限有効に使う。連地はそうやってこれまで生きてきたし、その信念は概ね貫かれていると言っていい。

 だからこうして無駄な挨拶やゴマすりに無駄な時間を使う鷲郷という男は生理的に受け付けない。連地は到着して五分と経たないうちに、一刻も早く用件を済ませて《鉄籠ケージ》を立ち去ろうと心に決めた。

 ヘリポート脇の階段を下り、二重扉の先にあるエレベーターに乗り込む。鷲郷は「遠いところご足労いただきまして……」とか「竜藤のお方にお会いできるなんて光栄の極みで……」とか延々と無駄口を叩いている。もちろん連地がそんなものにまともに取り合うはずもない。もはや黙れと命令することすら面倒だったので、この聞くに堪えない濁声を意識から締め出すことにする。

 間もなく目的の場所である第三〇層に到着する。最も危険性が高いと判断された過剰摂取者アディクトや薬事犯罪者が収容される、この監獄島の最深部だ。

 とはいえ腐っても《リンドウ》の施設である。第三〇層に不衛生でおどろどろしい監獄らしい雰囲気はなく、むしろ一流ホテルのスイートのように洗練された、白を基調とした内装の通路が出迎えた。

 鷲郷の先導で通路を歩く。少し進むと、左右互い違いになるようにして設置されているガラス張りの収容室が見えてくる。

 収容室は透明化したナノカーボン繊維を編み込んだ特殊な偏光ガラスで区切られているので、通路から室内を覗くことができる。通路は洗練さから一転、色味こそ白で統一されているものの、収容室自体はよくある病室のようなそれ。ベッドのほかには棚や机などの最低限の調度品が置かれているだけだ。

 とは言え、ほとんどの部屋は空室である。というのも過剰摂取者アディクトの危険度は遺伝子変異の程度とほぼ比例し、そういう過剰摂取者アディクトは解薬処置の段階で処分されたり、運よく《鉄籠ケージ》に送られることになってもごく短期間で死に至るためだ。

 現在使われている第三〇層の収容室は一室のみ。連地はそこにいる彼女に用がある。

 フェンディ・ステラビッチ。特殊調合薬カクテルに対して類まれな適性を持ち、優れた解薬士でありながらも自らのパートナーや対峙する過剰摂取者アディクトに対し狂気的な人体実験を施した特級の薬事犯罪者。

 余談だが彼女には異名がある。連地の感性から言えばあまりセンスのいいものとは思えないが、かつて同じ解薬士たちを震え上がらせた二つ名だ。

 そう、確か――〝氷血の魔女〟。


「……こ、こちらです」


 前を行く鷲郷が立ち止まって言った。部屋の少し手前で立ち止まり、右手で該当する収容室を指し示している。卑しい笑みとともにゴマをすっていた顔は青ざめて引き攣っている。

 件の偏光ガラスによって通路から室内を見ることはできるが、その逆は不可能だ。だからどこに立とうと向こう側から見られることはない。しかしその偏執的な警戒ぶりが、これから会う女がどれほどの狂気を孕んだ人間かを物語っているのだろう。


「ご苦労」


 連地は鷲郷にそれだけ言って、収容室の前に立つ。鷲郷は素早く頭を下げ、さらに三歩ほど収容室から遠ざかる。連地の視界に飛び込んできた収容室の光景は、これまで見たどんな凄惨な映像よりも悍ましいものだった。

 白いはずの室内はどういうわけか赤黒く塗りたくられている。天井からはまだ乾き切らないそれがぽたぽたと滴り落ち、床には所々水溜まりのようなものができている。ベッドや棚など、他の収容室にあった調度品の類は一切なく、部屋の中央に固定された椅子の上に何重もの鎖で身体を拘束された女が口元に笑みを湛えたまま座っている。

 異様なのは室内だけではない。いや、むしろその女こそ異様さの根源だった。

 全てが赤黒く塗りたくられた部屋のなかで、女だけは色がない。肌も髪も瞳も全てが白。生き物というよりも動く雪像だと説明されたほうが納得できる。おそらくこの女には、人ならば誰もが流れているはずの赤い血が通っていない。そう感じさせるには十分な、暴力的なまでの純白だった。

 これがフェンディ・ステラビッチ――〝氷血の魔女〟。

 連地がそう思った矢先、ぎょろりと見開かれたフェンディの双眸が見えるはずのない連地を見た。


「こんにちは。初めまして、ね」

「……見えるのか?」


 その視線があまりに生々しくて、連地は訊いた。声はつんのめるように震え、掌はいつの間にか嫌な汗で湿っている。連地はゆっくりと深呼吸をした。


「見えないわ。でも、気配で、分かる。ここの人、じゃないのね。何の、用かしら」


 フェンディがそう口にし、連地の口元は思わず綻ぶ。思った通りの優秀な人間だ。彼女を選ぶという自分の判断はやはり間違っていない。もちろん頭のいかれた犯罪者であることは理解している。この女は、取り扱いに細心の注意を払う必要がある劇物だ。

 連地は綻んだ口元を掌で隠すようにして話を始める。


「私は竜藤連地。現在は《リンドウ・アークス》の治安維持部隊である第四部門フォースパワーの統括補佐を務めている。今日は貴女に、取引の話があって会いに来た」


 一度言葉を切る。相手の反応を見るためだ。だがフェンディは相変わらず目を見開き、口元には感情の読めない笑みを浮かべている。やや間をおいてフェンディが「そう、続けて」と言った。


「九重公龍。――貴女にとっても馴染み深く、そして何より忌々しい名だろう」


 連地がその名を口にすると、フェンディの表情が一転。業物の日本刀のように一瞬で研ぎ澄まされ、純白の居住まいからどす黒い憎悪が迸る。まるで質量があるかのような圧に、連地は気圧されそうになった。だがあくまで対等に、この女と取引をする必要がある。小さく息を吐いた。


「久しぶりに、聞いたわ。その、懐かしい名前」


 細められた双眸とは裏腹に、フェンディの声には怒りと憎しみが滲んでいる。

 これでいい。感情を原動力にして動く人間は御しやすい。フェンディに対して否応なく感じさせられる畏怖とは別に、連地の頭は冷静に回り、その目は魔女を見定めていた。


「貴女に、復讐の機会を与えたい。貴女という人間をこの監獄島に追いやったあの男を、その手で断罪するんだ」

「へぇ。詳しく、聞かせてもらえる? その、話」


 連地は内心でほくそ笑んだ。


「九重公龍は現在、《東都》全域に指名手配される逃亡犯だ。私たちは《東都》の平穏と繁栄を守るべく、一刻も早く彼を捕らえて事態を収拾したい。そこで、《東都》史上最も優秀な解薬士の一人である貴女に白羽の矢が立った。私たちは貴女に一時的な自由と復讐の機会を与える。その代わり、速やかに九重公龍に適切な処置を施してほしい」

「適切な処置、ね」

「そう、適切な処置だ」


 フェンディの口角が不気味に吊り上がる。真っ白な歯の奥に、毒蛇を思わせるような赤い舌がちろりと覗いた。

 その瞬間、彼女の身体を拘束していた鎖が外れ、勢いよく床に落ちる。呆気に取られるだけの間もなくフェンディは立ち上がり、歩み寄ったガラスに人差し指で真っ直ぐに線を描く。するとガラスに赤い亀裂が走り、あっという間に粉々に砕け散る。

 随分離れたところにいた鷲郷が悲鳴を上げて尻もちを突く。ガラスの破損を察知したセキュリティが警報を作動。けたたましい警告音アラートが鳴り響く。点灯した赤いランプが白を基調とした通路を照らす。それはまるで収容室のなかに辛うじて留めていた魔女の狂気が一瞬にして伝播していく様を見ているようだった。

 連地には何が起きたのか、正確にはフェンディが一体何をしたのか、全く分からなかった。それこそ悪い魔女の魔法にでも掛けられたかのように、その場にただ唖然として立ち尽くす。辛うじて分かるのは、彼女が出ようと望めばいつだってこの《鉄籠ケージ》から出ることができたということ。

 事も無げに収容室から出てきたフェンディは、下から覗き込むように連地を見上げた。


「いいわ。貴方の話、のって、あげる。竜藤連地くん」


 そう妖艶に言って、フェンディ・ステラビッチは連地の唇に口づけをした。

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