02/Grope in the dark《2》

《リンドウ・アークス》への身柄引き渡しは夜明けを待たずして行われることになった。

 まだキリノエ殺害の件は決着がついていないが、《リンドウ》側の事情聴取が優先されることになったらしい。人一人の殺害と改造人間製造への関与だと後者ほうが深刻な罪ということなのか、あるいは警察よりも《リンドウ》のほうが強い力を持っていることを象徴しているのか。おそらく両方なのだろうと公龍は思った。

 留置場から出るように命じられた公龍に手錠と腰紐がつけられる。ヘアバンドやハンティングベストなど、いつも身につけていた服は支給されたスウェットに着替えさせられている。着古されたそれは毛玉が目立ち、生地もごわついている。これといって衣服にこだわりがあるほうではないが、着ていて少なからず不快になるものというのは珍しい。

 左右と後ろを制服警官に固められ、前を行く安角の先導でじめじめとした廊下を歩く。エレベーターは使わせてもらえず、四階から階段を使って一階へ下りる。ちゃんと歩いているにも関わらず何度か後ろからせっつかれ、公龍はそのたびにこの憎たらしい顔の制服警官をぶん殴ってやろうかと拳を握り、怒りを呑み下すまでの流れを繰り返した。

 警察署の外では既に澪が待っている。その奥には既に警察車両としては馴染みのシルバーのクラウンが停まっていて、聴取室で記録を取っていた若い相棒の難波なんばが運転席に乗り込んでいた。


「ご苦労様です。今日はよろしくお願いします」

「本庁の警部殿に出張ってもらう必要はないんですがね。まあただ運ぶだけですから、てきとうに楽にしててくださいよ」


 安角は不躾な態度で言って、そそくさと助手席に乗り込んでしまう。澪は溜息混じりに肩を竦めると後部扉を開け、公龍に後部座席へ乗るよう促した。最後に澪が公龍の左隣へと乗り込み、クラウンが自動運転オートドライビングで走り出す。

 この移送に《リンドウ》側の人間がいないのは、大方警察の人間を便利な小間使いとして下に見ているからだろう。とは言え餅は餅屋である。被疑者の移送に関するノウハウは警察のほうが明らかに一日の長がある。

 二三区警察署から目的地である一区の《リンドウ・アークス》本社、つまりノアツリーまでの所要時間はおよそ三〇分程度。昨晩の聴取で澪に逃がすとは言われたものの、事前に段取りを打ち合わせするような余裕はなかった。だから澪が一体どんなタイミングでどんな策を講じてくるのか、公龍は全く知らない。そもそも所轄の刑事が二人乗り合わせているこの状況で、公龍を逃がすことなどできるのだろうか。

 公龍は考えるのを止めた。今は隣りに座る澪を信じる他にない。

 クラウンはすぐに高架道路へと入っていく。

 下の道の多くはまだノアツリー襲撃の陽動による過剰摂取者アディクトたちの暴動の爪痕が深く残っている。復旧と整備が進んだとはいえ、依然として通行止めになっている場所も多いのだ。

 窓からはライトアップされたノアツリーの威容を望むことができる。《東都》のどこにいてもおよそ見ることのできるあの尖塔も、かつては人々が呑まれた混沌を照らす一縷の希望の松明のように思えていたが、今となっては都市全域を隈なく見張る監視塔パノプティコンに見える。

 もし何とか脱走が上手くいったとして、そのあと自分は一体何とどう戦えばいいのだろう。

 クロエを助け出さなければいけないことは確かだ。そのためには着せられた濡れ衣を晴らさなければならない。たった一人で、そんなことができるのだろうか。

 公龍の不安が伝播したのか、隣りに座っていた澪が太腿の上に乗せていた拳をきゅっと握る。それは公龍を励ますようでもあり、公龍ならばと願うようでもあった。

 どちらにせよもう退路も脇道もない。前に進んで望む未来を掴むか、このまま牢屋に入れられて朽ち果てるか、全ては公龍次第だ。

 助手席に座る安角が舌打ちをする。下の道が所々通行止めになっているせいもあり、高架道路は混雑しているらしい。時間帯もあって一般車両は少ないが、高架道路は《東都》の物流を支える屋台骨だ。自動化された貨物トラックなどはさながら血流のように休むことなく移動と運搬を続け、《東都》という巨大な都市を生かしている。

 運転席の難波は腕で口元を隠しながら欠伸を噛み殺していた。


「けっこう混んでやがるな」

「この先で事故みたいですね」

「ったく、こんなときに。自動運転オートドライビングで事故かよ」


 安角が窓を開けて顔を出す。すぐ前には大型トラックが停まっていて、続く渋滞の先は見通せないようだった。


「管理会社は何してんだ。ちゃんと仕事しろよ」


 安角がそう悪態を吐き捨てた瞬間だった。

 目の前のトラックのコンテナの扉がゆっくりと左右に開く。中には三人、銃火器とコンバットスーツによって武装し、目出し帽で顔を隠した人影が見えた。

 緩慢と流れていた時間が凍りつく。一瞬の沈黙を裂いたのは澪の冷静かつ鋭利な声だった。


「車から離れて!」


 安角と難波が扉を押し開けて勢いよく飛び出す。澪は公龍の襟首を引き、強引に車から引っ張り出す。一拍遅れて三人組の掃射がクラウンを襲った。

 巻き込まれた人々から悲鳴が上がる。まるで蜂の巣をつついたように車から人が飛び出し、その場から少しでも離れようと一斉に駆け出していく。三人組のうちの一人が煙幕弾を放り込み、立ち昇る白煙がみるみるうちに周囲の景色を濁らせた。


「くそっ、何が起きて――」


 車の陰に身を潜めつつ狼狽える公龍の口を澪の人差し指が塞ぐ。彼女の鋭く落ち着き払った表情はこれこそが逃亡策だと物語っている。


「大丈夫です。ここから少し先に非常用階段があります。そこから地上に降りてください」

「大丈夫なわけねえだろっ」

「彼らは色々な状況を想定して警視総監が直々に匿っていた賢政会の生き残りです。人的被害を出さず、混乱を引き起こす。それが達成できれば国外へ追放するという司法取引をしました」

「そんな無茶苦茶な司法取引ありかよ」

「もちろんなしです。ですが世の中には往々にして、綺麗事だけでは片付けられないこともある。不本意ですが、自分が掲げる正義や信念に泥を塗っても、無実の九重さんを逃がすほうが重要だと判断したんです」


 言う通り、一般市民を不必要に巻き込まない配慮なのだろう。コンテナから車の上へと飛び移った襲撃者の一人は銃口を頭上へと向け、威圧するような雄叫びとともに引き金を引いている。残る二人は車の陰に身を隠す安角たちに向けて適度に銃弾をばら撒いて牽制している。


「おい、警部殿! 荷物は無事か!」


 銃声と悲鳴に紛れて安角の声が聞こえる。


「問題ありません! このまま安全な場所に退避します! 応戦をお願いします!」

「くそっ! 仲間がいたなんて聞いちゃいねえぜ!」

「安角さん、もう弾がないですっ!」


 安角と難波が叫ぶ。たとえ彼らがいくら優秀だったとしても、彼我の戦力差は火を見るよりも明らか。この場を制圧できる見込みは万に一つもないだろう。

 澪が拳銃を抜き、公龍の手首にかかる手錠の鎖を撃ち抜いた。用意がいいのか悪いのか、銃身には消音器サイレンサーがついている。公龍は自由になった両手で腰紐をほどいた。澪の表情こそ平静そのものだが、瞳にはこの選択に対して未だに拭うことができていない葛藤が浮かんでいた。


「九重さん。ここからはもう、警察はあなたを助けることができなくなる、……いや、それどころかあなたを追いかける立場になるでしょう。歯がゆいですが信じています。真相を掴み、クロエさんたちを救ってください」

「無茶苦茶なこと言うぜ」

「……すいません。それと、これは餞別です。これも賢政会から押収した未登録の拳銃なので、使ってもらって問題ありません」


 澪は言って、公龍のスウェットパンツのウエストに拳銃を差し込む。それから自らの頬を指差して頷く。公龍は眉をひそめつつ、右の拳を固く握った。


「ありがとよ」

「ええ。――ご武運を」


 公龍は差し出された澪の頬を殴りつける。加減はなしだ。澪の身体は煙を裂いて吹き飛び、既に無人になって捨てられた車のボンネットに倒れ伏す。口元から血を流す澪の視線が公龍の背中を押した。

 響き渡る銃声に背を向けて走り出す。この先の道がどこへ続くのかまだ何も分からないまま、公龍はただ人波を藻掻くように掻き分けて進むしかできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る