04/Meeting again《1》
強烈な悪寒がして、公龍の意識は覚醒した。
腹の上で抱えていたグロック拳銃の
どうやら悪寒は気のせいだったらしい。公龍は小さく息を吐き、澪から餞別として受け取った拳銃を背の低い机に置いた。机に積もる埃がにわかに舞って、塞がれた窓から僅かに差し込んだ光を受けて光っていた。
高速道路で澪が講じた襲撃の混乱に乗じて逃亡した公龍は、通信で言われた通り一五区の廃区にある古びたワンルームマンション――汐のセーフハウスへと逃げてきていた。厳しい聴取のストレスのせいか、セーフハウスに到着するやソファに倒れ込むように眠ってしまって今に至る。
寝ていたのはおそらく二、三時間程度だろう。到着したときは高く昇っていた陽は既に傾いていて、垣間見える空はすっかりオレンジ色だ。
「くそっ……」
公龍は誰に向けて言うでもなく毒づき、眠気と疲労でまだ判然とし切らない頭を叩く。
澪は公龍に真相を掴み、クロエを救うように言った。だが現状は完全な手詰まり。公龍に出来ることと言えば、こうして息を潜めていることくらいだ。突破口とまではいかなくていい。せめて進む方向くらい見定めるための灯火が必要だった。
公龍は埃の積もる机からリモコンを取り上げ、旧式のテレビの電源を入れてみる。ちゃんとつくかは半信半疑だったが、しばらくノイズが走ったあとやたらと解像度の低い映像が映った。チャンネルを回す。公龍が欲しかった情報はすぐに手に入った。
ドローンで空撮したと思われる映像に映っているのは高架道路。立ち昇る黒煙の隙間からは立ち往生している何台もの車とアスファルトに穿たれた弾痕が見えた。画面右上には〝九重被告逃亡!〟の文字。やがて映像が切り替わり、公龍の写真が画面中央に表示される。解薬士になったときにID用の宣材写真として撮影したものだが、カメラに向けてメンチを切っている金髪の男はどっからどう見ても悪人面だ。この顔でいくら無罪を主張しても、きっと誰も信じてくれそうにない。
もう少しまともな顔で写真を撮っておくべきだったと後悔する公龍をよそに、音声が流れていく。どうやら公龍はキリノエの殺人の他、おそらくはクロエを指すと思われる少女の誘拐、そして天常汐の関与が疑われる〝
「センセも嵌められたのか」
公龍はキリノエの殺害現場に遭遇する寸前、焦った様子でかけてきた汐の通信を思い出す。公龍が嵌められたことと汐の身に起きたことはやはり無関係ではないようだった。
もちろん報道の内容は何一つとして事実ではない。だが少し前まで《東都》を救った英雄のように扱われていた公龍は、自作自演の極悪人として報道されていた。
あまりに事実無根の報道と、それを否定するだけの材料がない現状に、公龍はだんだんと苛立ってきてテレビを消した。状況の悪さは確認できた。こうして大々的に報道されている以上、あまり大っぴらに動き回ることすらできない。
公龍はソファに身体を沈め、頭のなかを整理する。思えば目の前で起きることに、理解もできないまま追い立てられるばかりで冷静になれる時間は久しぶりだった。
まず大前提として公龍はキリノエを殺していない。キリノエを撃ち殺したと思われる銃声を聞いている。だが犯人が公龍でない事実を知っているのは公龍だけだ。
キリノエが殺された理由は、やはり陰謀めいた震災期の感染症の話だろう。それは破壊されていたキリノエのPCからも確証できる。キリノエは何かを掴み、そのせいで消されたのだ。
そしておそらく公龍が嵌められたことも間違いはない。そうでなくてはあまりに早い警察の対応の説明ができない。しかし嵌められた理由について、確かなことは何も言えなかった。
敵は《リンドウ・アークス》――。
そう考えて、真っ先に思い浮かんだ最悪を、公龍は頭を振って考えないようにする。
分かっている。散りばめられた情報の断片がその最悪を物語っている。だがそれが事実ならば為す術はない。公龍一個人ができることなどたかが知れているのだから。
結局、公龍は考えるのを止めた。敵が誰であろうと、クロエをこのままにしておくわけにはいかない。わざわざ干渉してきた《リンドウ・アークス》の目的など知る由もないが、連れていかれる寸前のクロエの表情が瞼の裏に焼き付いている以上、公龍は彼女を迎えにいかなくてはならない。
拳銃をスウェットのウェストへと仕舞って立ち上がり、無法地帯のワンルームマンションに似つかわしくない仰々しい大きさの冷蔵庫へと向かう。部屋に電気は通っていないので、冷蔵庫の傍らではミサイルの発射台のような自家発電機が稼働していた。
冷蔵庫のなかには
糖分が頭に回ったせいか気分は少し晴れてくる。人間というのは意外と単純にできているらしい。状況は相変わらず最悪だが、なんとかしてみせるという気持ちが頭をもたげてきた。
何はともあれ必要なのは情報だった。このどん底を打開するための糸口を掴まなければならない。
†
捜査の基本は現場に立ち返ることだと言う。
とはいえ明央学院大の事件現場に戻るのはあまりにも愚策と言える。そんなことをすれば飛んで火にいる夏の虫もいいところだ。何せ事件発生からまだ一日しか経っていないのだ。今でも規制線が張られているし、警察関係者がうろうろしているのは間違いない。
だから公龍はキリノエの名刺に記されていた、一四区にある彼の自宅の住所へと向かった。
マリク・キリノエは日系アメリカ人。両親は既に他界していて妻子もいないが、祖国には日本に来るまで一緒に暮らしていた妹夫婦がいる。通常ならば妹へと連絡が行き、遺品整理などの段取りが組まれるため、自宅はほぼそのまま保管されているはずとなる。
だがそれも通常ならば、だ。
キリノエの部屋はコの字型になっている六階建てマンションの二辺が重なる角の四階にある。
ちょうど帰宅したサラリーマンの後に続いてエントランスを突破。エレベーターには監視カメラがついているので階段で四階まで上がる。フロアに人気がないことを確認して足早にキリノエの住んでいた四〇五号室の玄関ポーチへ入り込み、セーフハウスから持ち出したピッキングツールで鍵を開ける。中へ入ると動体検知で玄関の明かりが灯った。飛び込んできた光景に、公龍はやはりと舌を鳴らす。
真っ直ぐに伸びる廊下の脇には分厚い書籍が積まれていた。おそらくは侵入者が一度ぶつかって崩したときに入れ替わったのだろう。一番手前の山の上の本にはくっきりと埃の線が入っている。
公龍は
土足で踏み込んでいく。まずは廊下を左手側に曲がってキリノエの書斎へ。半開きの扉を押し開ければ、研究室と同様に雑然とした空間が広がっている。あちこちに散らばる本や紙束を乗り越えてデスクへ辿り着き、デスクトップPCを立ち上げる。外付けのハードディスクが動き始め、静まり返る室内に駆動音が響き出す。
やがて表示されるのはログイン画面。パスワードを知らない公龍には入りようがなかった。もちろんパスワードを解析するようなツールはない。
画面を見る限り六桁の数字らしい。何度かてきとうな数字を打ち込んでみるが当然外れ。何かヒントになるようなものがないかとデスク周りを漁ってみるが、そんなものが都合よく軽率に置いてあるはずもなく、公龍の目論見はすぐに手詰まりになった。
書斎の捜索を諦めて廊下へ戻り、リビングへ。雑然としていた書斎の景色とは一転、リビングはまるで生活感が存在しないモデルルームのような空間だった。
しかしよく見ると棚などが僅かに開いたままになっていたりと、既に何者かの手が入ったことが分かる。公龍は望み薄と知りながら、引き出しを開けて中身を検めていく。
「くっそ。やっぱ少し遅かったか」
明らかに荒らされた後の中身を目の当たりにして、公龍は思わず吐き捨てる。苛立ちに頭を掻いていると、テレビ台の下で光るものが目に留まる。腕を突っ込んで引っ張り出してみると、それは女物のペンダントだった。
歪んだハート型のペンダントトップに、ありきたりなチェーン。トップは中に写真などが収められるように開く作りになっているようだったが、何か引っかかっているらしく開かなかった。
独り暮らしの中年男の持ち物にしては不自然だ。もしかしたら公龍に先んじてこの部屋を荒らし回った敵の持ち物かもしれない。あまりに乏しい手掛かりに、公龍は藁にも縋る思いでそのペンダントをポケットに仕舞い込んだ。
同時、インターホンの間の抜けた音が部屋に響く。公龍は
公龍はモニターから共同玄関にいる訪問者を伺う。モニターに映るのは女だ。キャップを目深に被っているせいで顔はよく見えなかった。公龍は受話器を取った。
『こんにちはー。〈キレイ・デ・ハウス〉の山内ですー』
キャップのロゴ通り、どうやらキリノエはハウスキーパーを雇っていたらしい。大学教授の一人暮らしともなれば不自然ではない。モデルルーム並みに片付いていたリビングにも納得がいった。
『こんにちはー。〈キレイ・デ・ハウス〉の山内ですー』
女は同じ文言を一言一句、声のトーンまで変えずに繰り返す。こちらの応答がないからそうしているのだろうが、その様子に公龍は一抹の薄気味悪さを感じた。
そして――。
『こんにちはー。……キリノエさんはご在宅ですね』
女の口元がにたりと吊り上がる。モニター越しに溢れ出る狂気。公龍はほとんど反射的に受話器から手を放し、気圧されるように尻もちを突いた。モニターが消える。
次の瞬間、背中を向けていたベランダの窓ガラスが一斉に砕け散り、破砕音が公龍の聴覚を蹂躙した。
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