01/Unset《2》

 翌日、公龍は無理を言って仕事を早めに切り上げ、六区にある明央学院大学を訪れていた。

 時間は一六時半を回ったところ。キリノエが念を押していた約束の時間には少し遅れているが、仕方がない。こっちだって生活が懸かっているのだ。

 大学は夏季休業中なのか、閑散としている。構内を行き交う学生たちはまばら。ラクロス部なのだろう数人の女学生が談笑しながら歩いているのがやけに目立った。

 公龍はポケットから、昨日キリノエに握らされた名刺を取り出す。三号棟の四階。そこにキリノエの研究室があるらしい。

 ちょうど通りかかった職員らしき中年女性に話しかけ、三号棟の場所を聞き出す。煉瓦造りの古風な建物の隣りにある寂しげな建物がそうらしい。

 公龍は三号棟へ向かう。古い建物のせいか中にエレベーターはなく、四階まで階段を使って上がることを強いられる。人気がなく、やけに足音の響く階段を上っていると、手首の腕時計型端末コミュレットが振動した。公龍は相手を確認し、通信に応じる。


「なんだよ、センセ。久しぶりだな」


 通信相手は天常汐あまつねしお。一言で言えば人格破綻者。二言で言うならば頭のいい人格破綻者。と言いつつも、医師としての技術はおそらく世界でもトップクラスであり、公龍もクロエも彼女に命を救われたことは一度や二度ではない。

 とは言え、例のノアツリー襲撃事件以降、正確にはその際に負った傷の治療以降、連絡を取ることもなくなっていたので、話すのは実に一カ月ぶりだった。


『九重、君は今どこにいる?』


 汐は挨拶もそこそこに、妙に潜めた鋭い声で言った。声からはただならぬ雰囲気が醸されるが、公龍は緊張感のない笑みを返しておく。


「どこってちょっと野暮用で明央学院大だけど」


 答えると、通信越しに汐が奥歯を噛んだのが分かった。世界の全てを嘲る態度がデフォルトの汐にしては珍しいというよりも不可解な反応だ。四階に到着した公龍はさすがに不審さを感じ、その場で足を止める。


「なんだよ、センセ」

『あの子供は一緒か?』

「いや、仕事帰りだから俺一人だよ。クロエは留守番してる」

『くそっ。どうして君って阿呆は肝心なときに阿呆なんだ!』


 汐が声を荒げる。意味が分からない。だが意味が分からないなりに、何かよからぬことが起きているという不安が沸き起こった。


『いいか、手短に話す。どうやら僕たちは嵌められたようだ。すぐに君のところにも捜査の手が伸びるだろう。なんとか逃げ延びろ。一五区のセーフハウスに必要な装備一式の予備が残してある。もしものときはそれを使うんだ』

「ちょっと待て。何の話だよ」

『残念なことに僕にも説明できない。本当ならもっと早く君にも連絡すべきだった。陥れられた状況への理解が遅れた。その点はすまなかった。今言える確かなことは、もう誰も信じるなということだけだ』

「おい! 答えになってねえよ!」


 おそらく初めて聞く汐の狼狽した声と彼女の要領を得ない曖昧な説明に、公龍は語気を強める。だが汐が何かを言う前に、通信に慌ただしい物音が紛れ込んだ。


『お別れの時間だ。九重。今使っている端末は破棄しろ――』


 汐が言うや、通信がぶつりと切れた。公龍はすぐに汐との再接続を試みるが文字盤には信号なしノーシグナルの文字が躍るだけ。


「畜生、一体何なんだよっ!」


 公龍が吐き捨てると同時、建物内に一発の銃声が響いた。沸騰しかけていた頭は冷水を浴びたように冷え切り、沸き起こる不安が明確なかたちを帯びて公龍の心臓を握り締める。

 嵌められた――。

 汐の言葉が脳裏を過ぎる。

 考えるより先に公龍は駆け出していた。随分と反響していたが銃声の出所はおおよそ推測ができる。廊下を駆け抜け、閉め切られていた研究室の扉を蹴破る。そして飛び込んできた光景に、公龍は目を見開き、思わず天井を仰いだ。

 書籍や書類が堆く積まれた雑然とした研究室。埃に混じって香る、久しぶりに嗅ぐことになった濃密な血と微かな硝煙の臭い。机の上の徹底的に破壊されたPC越しに見えるのは、椅子に座ったまま二度と動くことのないマリク・キリノエの変わり果てた姿だった。

 銃弾は真正面から眉間に一発。衝撃で後頭部は破裂し、撒き散らされた血と脳漿が閉じられたブラインドを汚している。即死だった。


「クソッ!」


 公龍はこの上なく混乱していた。

 汐からの唐突かつ不可解な連絡。マリク・キリノエの接触と死亡。

 昨日今日で立て続けに起こった出来事が脳裏を錯綜する。しかしそれらは何の答えも示さないままに頭のなかに居座り、状況を理解しようとする思考をかき乱す。

 だが公龍は同時に冷静でもあった。いや訳の分からない状況だからこそ、冷静になる他になかった。解薬士として第一線で培ってきた経験が、まだ心身に染みついていた。

 公龍は研究室を飛び出す。銃声が聞こえてから公龍が研究室に踏み入るまでの時間はおよそ四〇秒。逃亡を図った犯人がまだ近くにいる可能性は高い。

 だが試みた追跡はたった数歩で頓挫した。


「手を挙げろ」


 唸るような野太い声とともに、拳銃が突き付けられていた。スーツ姿の刑事を中央に立たせ、その前には通路を塞ぐように警官隊のライオットシールドが展開されている。

 引き返そうとしても無駄だった。背後にも同じように拳銃を構えた刑事と警官隊が控えている。公龍はその場に立ち止まって両手を挙げる。


「待て、俺じゃない。逃げた奴がまだいるはずだ。今すぐ追えば間に合う!」

「黙れ! 貴様が被害者と揉めているのが、昨日目撃されている!」

「おいおい、ふざけんなよ! 揉めて殺すくらいなら昨日の時点でとっくにやってる! 俺は今日あいつと会う約束をしてただけだ」

「話は署で聞いてやる。抵抗を止めて、今すぐその場に伏せろ!」


 刑事が怒鳴る。完全に公龍を犯人だと思い込んでいる彼らを対話によって説得できる可能性はほぼ皆無に等しかった。だがそれでも他に打てる手がない。公龍は奥歯を噛み締め口を開く。


「待っ――――」


 待ってくれ。そう言いかけた公龍の言葉を沸き起こった違和感が呑みこませた。

 おかしい。警察の対応が早すぎる。銃声が聞こえたのは甘く見積もってもまだほんの数分前の出来事だ。仮に銃声を聞いた誰かが通報していたとして、万全の装備を整えた警官隊が突入してくるなんてことはあり得ない。

 日本の警察は決して無能ではないが、この迅速は異常だ。銃声が響くよりも先に警官隊が配備されていたとでも言われたほうが納得できる。


「嵌められたって、こういうことかよ……っ」


 公龍は両手を挙げたまま片足を引いてゆっくりと腰を落とす。張り詰める空気のなか、床に伏せる素振りを見せる。もちろんこのまま言いなりになってやるつもりは毛ほどもなかった。

 公龍に備わる動物的な勘は、装った従順さに刑事たちの警戒がほんの一瞬だけ緩む瞬間を見逃さない。低い姿勢のまま方向転換した公龍はキリノエの研究室へと飛び込む。


「追えッ!」

「逃がすなぁッ!」


 容赦なく引き金が引かれ、公龍が立っていた床を銃弾が穿つ。公龍は書類を撒き散らしながら研究室内を疾走。PCの残骸が散らばる机を踏み台にして、キリノエの死体を飛び越える。


「待てぇッ!」


 遅れて研究室へと飛び込んできた刑事が叫んでいた。公龍は顔の前で腕を交差させ、血と脳漿塗れのブラインドごと窓を突き破って空中へ身を投げる。

 破砕音が聴覚を満たし、身体は一瞬の浮遊感に包まれる。そして訪れる、落下という名の加速感。

 一秒と経たずして全身に衝撃。公龍はアスファルトの上を転がりながら衝撃を減衰。すぐに立ち上がって体勢を整えて走り出す。

 刑事たちの怒声が追い縋る。だが敵は刑事だけではない。もっと大きい何かが公龍へと手を伸ばしている。公龍は漠然とした予感を抱きながら、一目散に夕闇へと紛れていった。


   †


 追跡を掻い潜って向かった先は自宅だった。

 もちろん愚策だとは分かっている。この異様な捜査の手の速さから、公龍の自宅の割り出しなどとっくに終わっていることなど承知している。それでもクロエを残したまま身を潜めていることなどできるはずがなかった。

 崩れかけのブロック塀の影から安アパートを伺う。アパートの前には当然のようにパトカーが数台停められていて、刑事や警官が同じアパートの住民から事情を聴いている。野次馬がいないのは不必要に厄介事に首を突っ込みたくない廃区住民の心理だろう。

 公龍がクロエ救出の機会を伺っていると、部屋の扉が開く。中からは刑事が出てくるとばかり思っていた公龍は面を食らった。


「なんで、奴らがいるんだ」


 四肢をばたつかせて抵抗するクロエを担いで出てきたのは数人のスーツの男。それと分かったのはそのうち一人の羽織るジャンパーの背に竜胆の華に絡みつく一匹の龍――《リンドウ・アークス》の社紋が刻まれていたからだ。

 だが公龍に考えている暇はなかった。このままではクロエが連れていかれる。この場で飛び出すことが愚かな行動だと分かっていても、黙って見ていることなんてできなかった。

 アパートへ向け、一直線に駆け出す。公龍の接近にいち早く気づいた警官が容赦なく拳銃を抜き、警告を叫んだ。


「撃てるもんなら撃ってみやがれ!」


 公龍は速度を落とすことなく真正面から突っ込んでいく。向けられた銃口が揺らいだ隙を見逃さず、銃を持つ腕を思いっきり蹴り上げる。

 特殊薬事案件/コードαが認可され、《東都》の警察が直接矢面に立つ機会は激減した。ろくに実弾を撃ったこともない制服警官と公龍では、潜ってきた修羅場の数が圧倒的に違った。


「クロエを離せっ!」


 警官の鼻っ柱に拳を叩き込む。吹っ飛んだ警官は床に倒れ込む。向けられる銃口や制止の声は歯牙にもかけず、クロエを抱える《リンドウ》の人間との距離を詰める。

 公龍の登場に気づいたクロエが顔を上げる。涙で真っ赤になった目は恐怖と不安に揺らぎながらも、真っ直ぐに公龍へと助けを求めていた。


「待ってろ、今助ける!」


 公龍が叫ぶも、拳銃の威嚇が意味を為さないと素早く判断した数人の警官がタックルを仕掛けてくる。これは多勢に無勢。数の暴力に押し流されるように公龍は地面へと押し倒される。


「クソッ! 離しやがれっ!」


 公龍は圧し掛かる警官の頭に振り上げた脚で膝蹴りを見舞う。しかし抵抗もそこまで。三人がかりで手足を抑えつけられ、公龍の身体はついにうつ伏せに引っくり返されてしまう。

 視線の先、十数メートル前方では担がれたままのクロエが公龍へ向けて懸命に手を伸ばしている。応えるように伸ばそうとした公龍の腕は固く抑えつけられ、その手首には無情にも手錠が嵌められる。


「クロエッ!」

「一七時一九分、殺人の現行犯で被疑者確保」


 犯人確保の興奮に息巻く警官たちの鼻息が入り乱れ、刑事のものと思わしき声が耳朶を打つ。

 クロエは車の後部座席に手荒く押し込まれる。リアガラスに張り付きながら助けを乞うクロエの名前を、公龍はひたすらに叫び続けた。

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