4th Act/Expelled from certainy

01/Unset《1》

「おい、新人! 何もたもたしてやがんだ」

「うっす! さーせん!」


 公龍は返事をしつつ腰を落とし、段ボールを持ち上げる。もはや既に握力はなく、滑り落ちそうになる段ボールに全力で指を突き立てる。小走りで階段を駆け下り、路上に停まっているトラックのコンテナへ段ボールを押し込む。そのまま肩で息をしていると、もう往復して戻ってきたらしい先輩の蔵田くらたがあごをしゃくってきて、公龍を脇へと退かした。


「邪魔だ。へばってんじゃねえ!」

「さーせん!」

「いいか? 新人。早くて綺麗。それがワニさんマークの引越センターだ!」

「うっす!」


 蔵田は捲し立てるように告げると、あっという間に段ボールを積み上げて軽快な足取りで再び階段を駆け上っていく。公龍は額の汗を肩にかけたタオルで拭い、蔵田の後を追う。

 どうしてこのクソ暑いなか、こんなことをやってるんだ。吐き捨てようと思った言葉は暑さと疲労のせいで音にすらならない。かわりに噴き出し続ける汗を今度はより乱暴に拭い、ギリと奥歯を噛み締める。

 全ては生きるため。この《東都》で、クロエとともに生きるためだ。

 賢政会によるノアツリー襲撃事件からおよそ一カ月――。ウロボロス解薬士事務所はアルビスの離反と逃亡によって閉鎖を余儀なくされた。相棒を失ったことで解薬士ではなくなった公龍は、日雇いのアルバイトで糊口をしのぎながらクロエとの生活をなんとか続けている。


「新人! 次、冷蔵庫いくぞ!」

「うっす! 冷蔵庫いきます!」


 頭を空っぽにする。深いことは考えない。妙に上から目線の蔵田が明らかに年下であることや、貸し出されている制服が妙に汗臭いことも考えない。言われるがまま冷蔵庫の底に指をかける。


「せーのっ」


 腰が悲鳴を上げた。肩が呻き声を上げた。肘が軋み、指先の神経は電撃を浴びたような痛みを訴えた。

 その後も数えきれないほどにアパートの二階とトラックを往復し、三〇分足らずの昼休憩。それからトラックに乗って場所を移動し、先ほど積んだ荷物を新居に下ろす。夕方前にはもう一件、四区にある高級マンションへと向かい、積み込み作業をする。

 その日の仕事を終えたころにはもう、指先の感覚はなくなっていた。


「んじゃ、お疲れな、新人。俺はこれからトラック戻しに行くから。ほい、これ」

「うっす。ありがとうございます」


 饐えた汗の臭いがする制服を着替えていると、蔵田が缶コーヒーを投げて寄越した。公龍はそれを辛うじて胸の上でキャッチ。満足気に去っていくトラックを見送ってから、公龍は夜風に身を委ねながら労働の終わりを一人噛み締める。スチール缶のコーヒーは、力の入らない指では開けられなかった。

 公龍は疲労困憊の身体を引き摺って家路につく。二三区にある安アパートに帰りついたのは既に午後一〇時を過ぎたころだった。


「さすがに、寝てるよな……」


 暗い部屋の壁を手で探り、電気をつける。四畳半の居間のテーブルにはラップの掛けられた食事が置かれている。襖を薄く開ければ、布団の上でぐっすりと眠っているクロエが見えた。


「ったく、幸せそうに寝やがるぜ」


 公龍は思わず口元を綻ばせてから、静かに襖を閉じた。なるべく物音を立てないように居間に腰を下ろし、帰り道に買ってきたビールとともに食事を始める。

 野菜炒めと白米。切られた野菜は不揃いで、味付けはだいぶ薄い。白米も少し固かった。けれどクロエが一生懸命作ってくれたことを思えば、一日の疲れなどあっという間に消え去っていく。

 まだあれから一カ月。アルビスとともに苛烈な戦いに身を投じ続けていた日々は、つい昨日のようにも思えるし、遥か遠い昔のようにも感じられる。

 どちらにせよ確かなのは、もう血生臭い戦いに身を投じることも、命を危険に晒すこともきっとないということだ。ただ穏やかにクロエと二人で生きていくこと。こうして慎ましく密やかに暮らしていくこと。そう、例えば、ベランダに雀が遊びに来たとか、タイムセールで牛肉を買えたとか、休みの日はお昼過ぎまで二人で眠りこけてしまったとか。そんな小さな幸せだけを拾い集めて、この《東都》の片隅で生きていく。公龍とクロエの未来にあるのは、そういう穏やかな日々だけで十分だった。

 食事を終えた公龍は皿を洗い、シャワーを浴びて、布団に横になる。隣りでは健やかな寝息を立てるクロエがいる。

 たったそれだけの、だけど何よりもかけがえのない幸せを噛み締めて、公龍は静かに目を閉じる。


   †


 身体が揺さぶられ、目覚ましアラームの音が意識に流れ込んでくる。薄っすらとぼやけたままの視界にはこの世界で最も愛くるしい少女の顔が浮かんだ。


「クロエ……もう朝?」


 少女は喋れない代わり、少し大袈裟に頷いてみせる。公龍はそんな少女へと手を伸ばし、小さな頭を撫で、口元に吸い付いた髪を払ってやる。

 それから眠気を振り切ってなんとか身体を起こし、傍らに座るクロエを抱きかかえて自分の膝の上に座らせる。出会ったときは痩せぎすで軽かった身体も、もう随分子供らしい柔らかさと生命力を感じさせる確かな重さを取り戻したように感じられる。そしてそんな他愛のないことが、公龍にこれまで歩んだクロエとの日々が正しいことを実感させてくれる。


「おはよう、クロエ」


 公龍がもう一度頭を撫でれば、クロエが気持ちよさそうに微笑んだ。

 朝食は毎朝二人で摂ると決めている。ハムとチーズを乗せたトーストに牛乳。小さな卓に向かい合い、公龍とクロエは手を合わせる。質素な食事に添えられるのは公龍の馬鹿話。クロエはそれを楽しそうに聞きながら、時折肌身離さず持ち歩いているメモ帳を使って茶々を入れてくる。食事のときも、片づけをしているときも、笑顔は絶えない。アルビスがいなくなり、二人で生きていくことを決めたときから、公龍が固く誓ったことだった。


「そんじゃ、今日も行ってくるわ。今日はあんま遅くならねえように帰るから、一緒にご飯食おうなー」


 着替えを終えた公龍が視線を下ろせば、足元ではメモ帳を構えたクロエが立っている。〝おしごとがんばって〟の文字と笑顔に胸打たれ、公龍はクロエの髪をわしゃわしゃと撫でる。

 きっとこれくらいの年齢の子供なら、一人で留守番し続けなければならない日々は退屈でしかたないだろう。親代わりの公龍と少しでも長く過ごしたいと思うのは当然で、彼女は毎日何時間も孤独のなかで寂しさを感じているに違いない。それなのに、こうして真っ直ぐ健気に、働きに出掛ける公龍を送り出そうとしてくれる。そのことを嬉しく思う反面、幼さとは不釣り合いな物分かりの良さが心苦しくも感じられた。


「いってくるな」


 公龍はもう一度クロエの頭を撫でる。クロエは目を細めて公龍の掌に心を委ねる。後ろ髪引かれる思いを断ち切って靴を履いた公龍は、建付けのあまりよくない扉を開けて安アパートを後にした。

 異変に気づいたのは電車に揺られながら現場へと向かっているときだった。

 肩越しに感じる視線。間違いなくつけられている。しかし公龍は落ち着いていた。

 解薬士としての九重公龍という名前はあまりに有名だった。粟国桜華事件や新羽田エボラ事件収束の立役者であり、先刻のノアツリー襲撃事件においても逃亡犯の元相棒という不名誉なかたちでその名は広く知れ渡っている。もちろん相棒を失ったことに伴い、解薬士としてのキャリアを棒に振っていることも同様だ。

 同業者としてはまたとないチャンスだろう。自分の事務所に優秀な解薬士を引き込むための絶好の機会に他ならない。

 もちろん数多くのコードαを解決してきたという実績は、裏を返せばそれだけ多くの恨みを買ってきたということでもある。丸腰の公龍を狙いたい人間など数えきれないほど存在する。

 だからこうして何者かに尾行されるのは、これが一度目や二度目ではなかった。

 厄介事は現場に着くまでに片付けなければならない。最初に就いた廃品回収業は仕事の最中に覚えてもいない暴漢に襲撃され、返り討ちにはしたものの警察沙汰となって見事に解雇された。あの不必要に自尊心が損なわれるような苦い思いは、もう御免だ。


「ちっ、面倒くせえ」


 公龍は喉のあたりで小さく吐き捨て、電車を降りる。動きに反応してきたのは一人。素人くさい足取りを見るに、元同業者というわけではなさそうだ。

 肌で距離感を測りながらホームを抜けて階段を下りる。改札を出ても尚、尾行はしっかりと公龍の十数メートル後をぴたりとついて来ている。

 公龍はにわかに走り出し、すぐに人気のない路地に入って建物の陰で息を潜める。馬鹿正直なことに慌てて後を追った尾行は、狙い通りにまんまと公龍の前に無防備な横顔を晒した。

 公龍は尾行の男へと詰め寄り、胸座と肩を抑え込むようにして壁に叩きつける。呻き声とともに目深に被っていたキャップが地面に落ち、男の顔貌が露わになる。

 伸ばしっぱなしの髪と無精髭。ジャケットを着込んだ身なりこそ整っているが、頬は痩せこけ、寝不足のせいか両目は血走っている。やつれた雰囲気のせいで年齢は分からないが、おそらくは四〇前後だろう。辛めの香水の匂いに混ざって饐えた汗の臭いがした。

 風貌だけ見れば怪しさしかないが、無鉄砲な復讐者というわけではなさそうだ。そういう捨て身の人間に特有の折れかけた刃物のような危うい雰囲気は、公龍には感じられなかった。


「お、おおおおお落ち着いて。私は、あ、怪しい者じゃない」


 男は裏返った声で言った。両手を頭上に挙げ、無抵抗であることを示す。もちろん後をつけられていた公龍からすれば、そんな意思表示に大した意味はない。男を掴む腕に力を込めた。


「人の後つけ回しやがって。十分怪しいだろうが」

「す、すまないっ。た、たたタイミングを見計らっていたんだっ」

「目的は何だ? あ?」

「は、話すっ。今話すから、て、手をっ、離してくれっ」


 公龍が凄むと、男は奥歯をカチカチと鳴らす。どうやら本当に害意はないようだ。そう判断した公龍が拘束を解くと、男はやや大袈裟に地面に突っ伏して咽た。

 落ち着くのを待つまでもなく、公龍は男の肩に手を回す。もし怪しい素振りを見せれば即座に意識を落とす腹積もりだ。


「それで、何が目的だ? おっさんよ」


 男はやたらと周囲を伺って人目がないことを入念に確認し、それから何度か深呼吸してからゆっくりと声を潜めて切り出した。


「九重公龍。君を優秀な解薬士と見込んで、依頼をしたい」


 予想外の内容。しかし公龍の口を突いて出たのは乾ききった笑み。


「はっ、悪いが無理だ。あんたのその情報、ちょっと古いみてえだな。俺はもう解薬士じゃねえ。他をあたるんだな」


 公龍は男の肩から腕を外して突き放す。地面に尻もちを突いた男は相変わらず怯えた様子だったが、真っ直ぐと公龍を見上げる目には異様な覇気が籠っていた。


「いいや、君じゃなきゃダメだ。いや、君とアルビス・アーベントじゃなきゃダメなんだ」

「おいおい、おっさん。寝言は寝て言えよ。ニュースくらいは見てんだろ?」

「もちろんだ。君たちの状況は分かっている。それでも、君たちに頼むしかないんだ」


 男は弱々しく疲れ切った印象とは裏腹に、微塵も退く気配を見せなかった。


「私の名前はマリク・キリノエ。明央めいおう学院大学で感染症学の研究をしている」


 男――キリノエは滔々と語り出す。公龍が睨みつけると肩を震わせたが、捲し立てるように並べられる言葉たちは止まらない。


「専門分野は感染症の発生と流行のメカニズム。《東都》の暗黒期をモデルケースとして感染症発生に至る原因を疫学的に明らかにする研究だ」

「あんたの研究に興味はねえよ」

「暗黒期の感染症――中でも通称Rsウイルスは非常に強い感染力で人々に猛威を振るった。その特徴は何と言っても致死性の高さ。五割という致死率は、一四世紀の黒死病にさえ匹敵するすさまじい数字だ。そしてもう一つ。突如として爆発的な流行の後、あっという間に終息した。これは感染症の歴史においても類を見ない例なんだ。例えば、二〇二〇年に流行したCOVID-19は流行からワクチン開発までにおよそ一年。そこからWHOが発表した終息宣言までさらに一年半以上の年月が掛かっている。にも関わらずRsウイルスはおよそ半年足らずで完全に駆逐された」

「学者ってのは話が長くて困る。要点を言え」


 公龍はキリノエに凄む。キリノエは身体を強張らせ、小刻みに頷く。


「とにかく早すぎるんだ。これには人為的な何かが作用しているとしか思えない」

「だから何が言いてえんだよ」

「Rsウイルスは、人為的に震災後の東京にばら撒かれた可能性がある」


 キリノエは公龍に衝撃を与えようと言葉を選んでいたに違いない。だが彼の思惑に反して、公龍は深い溜息を一つ、吐き出しただけだった。

 ウイルス陰謀論。これは《東都》の復興に疑念を投げ掛けようとするときにしばしば言われてきたものだ。ウイルスの出所は政府や《リンドウ・アークス》、あるいはその他色々と様々だが、どれも感染症が誰かによって意図的に引き起こされたとするものだ。そしてこれも、世にある数多の陰謀論と同じく、論を裏付けるための確たる証拠は存在しない。

 結局は呆けた老学者の戯言だったと、公龍はキリノエに白い目を向ける。しかしキリノエは公龍を真っ直ぐに見返し続け、そして力強く言った。


「証拠ならある」

「へえ、なら見せてみろよ」


 ほとんどからかうように公龍は言い放つ。キリノエはまた一つ力強く頷き、ポケットから皺だらけの名刺を取り出して公龍の手に握らせた。


「明日の一六時、私の研究室に来てほしい。そこで証拠は見せる」

「は? んだよ、それ」

「迂闊に持ち歩けるようなものではないんだ。頼む、理解してくれ」


 キリノエは深々と頭を下げる。その尋常じゃない必死さに、真面目に取り合うつもりのなかった公龍も気圧されつつあった。


「いいか、明日の一六時だ。忘れずに来てくれ。頼む。絶対にだぞ。頼む」


 キリノエは何度もそう言い聞かせるように繰り返す。

 去っていくキリノエの背中が見えなくなって、公龍はようやくばつ悪そうに舌打ちを鳴らした。

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