14/After burned《2》
全く散々な目に遭った。酒でも飲まなければ気が紛れない。《東都》は未曽有の危機に見舞われているが、そんなことは将厳の知ったことではない。結局のところ自分の保身しか頭にないのが、竜藤将厳という男の本質だった。
「畜生が……」
新羽田空港での一件によって、将厳は
元はと言えば、宅間喜市のデータはいざというときに自らの地位を守るためのカードとして将厳が用意させたものだった。それがこんな風に自らに突きつけられるなど、想像が及ぶはずもない。
突き詰めれば運がなかった。まず宅間を仲間に引き込んだことが失敗だった。官庁を退いた老人が、まさか手にしているデータをネタに医薬特区の傘下企業に強請りをかけるとは思わなかった。
だが一番腹立たしいのはあの男――竜藤静火だ。長兄というだけでその他全てを見下したような顔をしているあの男が許せない。父親の実績と名前があるからこそあの地位に座っていられるということも弁えず、まるで自分が優れていると思い込んでいる。
ああいう勘違い二世は何より性質が悪い。父の威光があるせいで周りは思ったことを指摘できないし、実際に財力や権力だけはあるから知能が足りずとも人並み以上のことができてしまう。
つまり誰かが正してやらなくてはならない。だがあの円卓を囲む馬鹿どもにはそれはできないだろう。
まず神楽は研究以外に興味がない。久世刈弥と四男の連地は静火の腰巾着だし、統郎の盟友である旭衙門にもトップに立つような気概はないだろう。とすれば唯一期待できそうなのは何を考えているのかが読めない次男の泉水だが役不足感は否めない。
だとすれば答えは自ずと見えてくる。そう、自分自身。
その大役を、《東都》の行く末を占いさえするだろう重要な役目を、自分以外の誰が果たせるというのだろうか。
「畜生がぁ……今に見ていろ……、貴様がそこに座っていられるのも今のうちだ!」
口元から垂れるウイスキーをシャツの袖で乱暴に拭い、バーテンダーに次の一杯を要求する。将厳の酩酊具合に、バーテンダーは手元を躊躇わせて眉を顰める。
「酔い過ぎですよ。お客様」
「なんだと? 俺は客だぞ? 金を払ってるんだ! 酒を出せ、酒を!」
将厳はバーテンダーを怒鳴りつけ、机に叩きつけた
会員制である当クラブは注文ごとに登録された口座から代金が引き落とされる仕組みになっている。しかし表示された画面には〝
「な、なんだと……」
急激に酔いが引いていった。
これは将厳と妻である聖羅が使っている共同口座だ。当然その口座を凍結できる人間は将厳を除けば一人しかいない。
「あの、クソ女が……!」
政略結婚であった将厳と次女の聖羅との夫婦関係は当然ながら冷めきっている。いや冷める愛すら初めからなかった。これはつまり《リンドウ・アークス》内での力を失った将厳はもう用済みという妻からのメッセージなのだろう。
「お客様、そろそろ休まれてはいかがでしょうか?」
バーテンダーが案ずるような声と表情で将厳を覗き込む。その憐れむような態度が、将厳の怒りに油を注いだ。
「貴様! 莫迦にしているのかッ!」
将厳はカウンターテーブルに身を乗り出し、バーテンダーへと掴みかかる。しかし大きく振り回した腕は空を切り、将厳はテーブルに倒れ込んでグラスを倒した。床に落ちたグラスが大きな音を立てて割れ、周囲の客の注目が将厳へと集まった。
「何を見ている! この俺を誰だと思っているんだ? え? 誰のおかげでこの《東都》がこんなにも住みやすい街が、貴様ら愚民に分かるのか? あ?」
周囲を睨み返し、将厳は中でも一番腕っぷしの弱そうなテーブルでカクテルを飲んでいた若い女性客たちに目をつける。女の一人へと歩み寄り、肩へと手を伸ばす。
しかし騒ぎを察知した警備員が駆け付け、瞬く間に将厳を拘束。将厳は警備員の腕のなかで暴れるがビクともせず、そのまま引き摺られるようにして店の裏口から外へと追い出される。
地面に放り出された将厳は肩をアスファルトに強打。痛みに耐えられず寝転んだまま、警備員を睨む。
「顔は覚えたぞ……ッ! 調べればすぐに分かる! 恋人親兄弟、貴様に関わった全ての人間を道連れに、不幸にしてや――」
将厳が言い終えるのを待たず、扉が閉められた。生温い風が吹き、将厳の足元に捨てられた新聞紙が絡みつく。
「畜生がッ!」
将厳は怒鳴り、閉ざされた鉄扉に蹴りを入れる。磨かせたばかりの革靴に大きな傷が入った。
ネクタイを解き、覚束ない足取りで大通りへと向かう。すぐにタクシーは掴まり、将厳は後部座席へと乗り込み、固いシートに身体を埋めた。
「ふん、一般人の乗るタクシーは狭くて敵わんな」
大きな声で文句を口走ろうと、自動運転のタクシーに運転手はいない。扉が閉められ、タクシーがゆっくりと走り出す。酔っていたせいで、将厳が違和感に気づいたのはタクシーがしっかりと加速してからだった。
「一体、このタクシーはどこへ向かっているんだ、と思っているね」
運転席から声がした。見れば、さっきまで無人だったはずの運転席には黒髪で特徴のない顔立ちをした若い男が座り、ハンドルを握っていた。
「どうやって入りこんだ……」
「どうやって? 最初から乗っていたさ」
将厳はタクシーから降りようと扉を押す。しかしロックされた扉が開くことはない。それどころかタクシーはみるみるうちに加速し、すれ違う車両をあっという間に置き去りにしていく。
「どこへ連れていく気だ……」
「待ち合わせ場所、とでも言っておこうかな」
将厳は運転席に座る男に飛びかかる。見たところ腕は細い。力で押し切ればハンドルの制御権を奪えるかもしれない。
だが身を乗り出しかけた将厳の頬を銃弾が擦過。頬から血が流れ、放たれた弾丸はシートに深く埋まった。将厳は叫ぶことすらままならず、そのまま座席に腰を落とす。
「あまり傷つけるなと言われてるんだ。大人しくしててくれないか?」
男の冷ややかな声が将厳の心臓を握り潰すようだった。肩越しに向けられた拳銃が右手へとかたちを変えていき、ようやく自分が置かれた状況を理解する。
「……お前は、ターン=カーム」
「正解。まあ命が惜しければ、それ以上は喋らないほうがいい」
ターンに言われるまでもなく、この状況でまだ口を開くような胆力は将厳にはなかった。手先が震えるのを抑えながら、速度制限を無視して走る車に身を委ねる他にない。
車は一区から大きく外れ、西へと進路を取った。《東都》の中心部を離れれば、未だに
片道二車線ある道路の一本は抉れて通行止めになっており、建物は損壊が目立つ。街を彩っていたはずのホログラムは剥がれ落ち、無機質な灰色をぬるい夜風に晒している。
将厳の目の前にはこの惨状の原因となった男がハンドルを握っている。抗い、倒さなければならない敵が座っている。しかし手足は震えるばかりで動きようがなかった。
やがて車は一四区の廃区へと進入し、廃棄された建物の地下駐車場に下りる。速度を落とさないまま柱へと激突し乱暴に停車した。
シートベルトをつけていなかった将厳がぶつけた鼻を抑えていると、ロックされていた扉が勢いよく開く。伸ばされた手は将厳の襟首を掴み、力任せに地面に引き摺り出した。拉げたボンネットからは漏れ出したガソリンの嫌な臭いがした。
「何をす…………お、お前は……」
将厳が見上げた先にはボロの外套を着込んだ人影が立っている。目深に被ったフードを外せば、夜風に靡く銀色の髪とその奥で冷たく光る薄青の瞳が露わになる。
「久しいな。竜藤将厳」
アルビス・アーベントが感情を宿さない鉄の面貌で、将厳を見下ろしていた。
†
アルビスは本能的に逃げようとした将厳の髪を掴み、開いたままの扉の窓へと叩きつける。ガラスが砕け、破片が将厳の顔に突き刺さる。痛みに悶える将厳の両足首を、アルビスは容赦なく踏み抜いて圧し折る。
「まるで豚の鳴き声だな」
「アルビス。豚に失礼だ。彼らは非常に綺麗好きだし、食べれば美味い」
ボンネットに飛び乗ったターンが将厳を見やりながら腰を下ろす。
今はアジア人らしい平坦でこれといって特徴のない姿へと変身している。以前使っていた金髪の男と赤毛の青年は面が割れてしまったので廃棄したそうだ。一体いくつのストックがあるのかと思ったが、聞いたところでターンは答えないだろう。
アルビスはターンを無視し、将厳に視線を落とす。血だらけの顔面は怯懦に震えている。
「何が……何がっ、も、目的なんだっ! 金なら払う。宅間ファイルの件は全て話す! だ、だから、だからっ、見逃してくれぇっ」
「宅間ファイル? もうそんなものはどうでもいい」
アルビスが吐き捨てると将厳の顔はますます悲愴感に満たされていく。胸座を掴み上げられた将厳は少女のようなか細い悲鳴を上げる。
「レシア・ヴァルムシュテルンという女を知っているな?」
レシア・ヴァルムシュテルン。アルビスの母であり、竜藤統郎の愛人。精神を病んだことを理由に南アジアのスラムに捨てられた悲劇の研究員の名だ。
「そ、そうか……アルビス・アーベント。お前がヴァルムシュテルンの子供だという噂は、ほ、本当だったんだな」
レシアの名を聞いた将厳は恐怖に支配されながらも、合点がいったというように頷く。アルビスは将厳をうつ伏せに返して地面へ押し付け、何の前触れもなく将厳の手の指を折った。
「ぐあああああっ……」
「余計なことは喋るな。私が聞いたことにだけ答えろ」
「……わ、わかった。だから、だからもう、痛いことはしな――――っ、ああああっ!」
二本目が容赦なく圧し折られる。苦痛の滲んだ将厳の絶叫が地下駐車場に響き渡る。
痛みは端的かつ明快により原始的な恐怖を対象に与える。その点において、尋問にとっての最良の友であることは揺るぎない。
その証拠に、将厳は三本目の指に触れただけで悲鳴を上げガクガクと肩を震わせた。
「貴様は本来、竜藤の人間ではない。だがレシア・ヴァルムシュテルンを知っているというなら話は変わってくる」
「や、やめてくれっ……こんなことをして何になる……? だ、大体、あの女が悪いんじゃないかっ! 竜藤家の意向に背いたんだ。いいや、それだけじゃない。竜藤と戦おうとした。身の程を弁えないから殺されかけた!」
「具体的に話せ」
アルビスは三本目の指を折った。将厳はあまりの苦痛に叫び、咽返って血を吐く。アルビスは続けて四本目の指を折り、将厳に早く話すように促した。
「《リンドウ・アークス》のなかにはな、こ、こんな脅し文句があるんだ。〝レシアになるぞ〟……つまり、竜藤の人間に、は、歯向かうな、という教訓だ」
「質問を聞いていたか?」
「き、聞いていた! お、落ち着いて、き、聞いてくれ! いいか? そ、その教訓は、竜藤に歯向かえば殺される。そういう教えだ。彼女が、何に歯向かったのかは知らない。優秀だったと聞いているから、たぶん協力しているプロジェクトも多かっただろう……。だが実際、レシア・ヴァルムシュテルンは、一度、自殺に見せかけて殺されかけている!」
アルビスは意味もなく、ただ苛立って五本目の指を折った。将厳の悲鳴すらまともに耳には入らず、折れた指を捩じ切って捨てる。車の上に腰かけながら煙草を吸っていたターンが口笛を鳴らす。将厳は嗚咽を漏らし、顔の穴という穴から体液を垂れ流している。
母が自殺未遂を犯したことはよく覚えている。精神疾患が致命的だと判断され、療養という名の国外追放が決定されるきっかけとなった出来事だ。
「レシア・ヴァルムシュテルンは竜藤統郎の愛人であったから、辛い仕打ちを受けていたわけではないのだな?」
「……と、当然だ。も、もちろん、下っ端の社員たちの間では、そういういびりがあったかも知れないが、上層部はそんなこといちいち気にしない。むしろ、統郎の遺伝子が残ることは好ましいとさえ思っていた」
「彼女を殺そうとしたのは誰だ?」
「し、知らない。本当だ! もちろん裏で糸を引いているのが《リンドウ・アークス》上層部の人間であることは間違いない。だけどそれ以上は本当に分からない! 信じてくれぇっ」
アルビスは将厳の拘束を解いてやる。しかし右手の指は既に使い物にならなくなるほどにズタズタになっている。指と一緒に心まで折られた将厳には、もはや逃げ出す気力さえない。
「いいのか? アーベント。あの
「使えば痕跡が残る。まだ存在を確証されるには少し早い」
「そうか」
「それに嘘は吐いていないようだ」
ターンと短い言葉を交わし、アルビスは腰の後ろから銃を抜く。解薬士としての手に馴染んだ
「ど、どういうことだ……私は話したじゃないかっ! 知っていることは全部話した。嘘はない!」
「だからだ」
アルビスはそれだけ言って引き金を引いた。闇から吐き出された弾丸は後頭部から脳を貫いて眼窩へと抜ける。将厳の顔から引き裂かれた眼球が垂れ下がり、地面に沈む。左の眼窩からは脳漿と血が溢れ出して地面を汚す。
「情報は小出しにして喋り、延命を図る。吐き出せる情報がなくなれば待っているのは後始末だけ。これは常識だ。来世があれば、覚えておくといい」
動かなくなった将厳に向けて言い、アルビスは拳銃を収めた。
「お疲れ様」
ターンが車から降り、吸いかけの煙草をアルビスへと渡してくる。アルビスはそれを受け取り、紫煙を肺に吸い込んで吐く。
まずは第一歩。だがこれは始まりに過ぎない。アルビスの復讐はようやく狼煙を上げたばかりだ。
「まだやることは多い」
「どこまでも着いていくさ」
アルビスは踵を返し、ターンがそれに続く。指の間で弾かれた煙草は大きく弧を描きながらゆっくりと落ちる。ボンネットから漏れ出していたガソリンに引火し、赤い炎が噴き上がる。
これこそが復讐の炎。立ち込める煙は《リンドウ・アークス》に突き付ける宣戦布告の狼煙だ。
アルビスの後ろ姿は迷うことなく闇に紛れていく。
その行く先を知る者は、誰一人として存在しない。
―――― To be continued in 4th Act......
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