14/After burned《1》
公龍が次に目を覚ましたのは病院のベッドだった。
どうやらあの後すぐに運び込まれたらしい。このペールグリーンの天井もすっかり見慣れてしまった。
賢政会が目論んだ《東都》最大の騒乱――ノアツリー襲撃事件は首謀者死亡で幕を閉じた。もちろん幕を閉じたと言っても、まだ処理しきれていない
楽園は堕ちた。
一〇年で急速に築き上げた繁栄は、たったの一日足らずで再び混沌と狂気のなかへ引き摺り込まれていった。
《東都》は敗北したのだ。どれだけの言葉で取り繕おうと、厳重な情報統制を行おうと、都市の至る所に残された爪痕が苦い現実を物語っている。
その最たるものは、何と言っても《リンドウ・アークス》総裁だった竜藤統郎の死だ。犯人は捜査中とされているが、これまで《東都》を支えてきた重鎮の不在は失墜した都市の展望に巨大な影を落としていることは間違いないだろう。
もちろん統郎の後を引き継いだ静火の手腕が劣っているということではない。判断の迅速さや合理性は統郎に全く引けを取らない。だが《東都》繁栄一〇年の立役者である統郎の存在は象徴的な意味でこそ大きく、市民の喪失感と絶望感は想像以上に深い。
喪失感で言えば、アルビス・アーベントの逮捕と脱走も世間には大きな波紋を広げた出来事だと言っていいだろう。
アルビスは賢政会による組織犯罪への関与を理由に逮捕された。しかし完全な極秘で執り行われた特殊監房への護送中、警察車両が何者かによって襲撃。乗り合わせていた警官らは四名が殺害され、アルビスは姿を消した。
襲撃者の正体は不明。現場に残された複数の弾痕などから組織的な犯行だと警察は考えているらしいが、公龍に言わせればそれは的外れだ。
事件の首謀者である
自らの肉体の分子配列を自在に変換し姿形を変えることのできるターンならば別人へと成り代わり《東都》の
とにかくこれでアルビスも立派な指名手配犯となった。公龍はとうとう復讐に駆られた相棒の心をこちら側に繋ぎ止めることができなかったのだ。
既に事務所もない。公龍も次の身の振り方を考えなければならないということなのだろう。
公龍が深く溜息を吐いていると、病室の扉が容赦なく開けられる。ノックをしない不躾な訪問者の例には事欠かない公龍だったが、姿を見せたのは中でも意外な二人組だった。
「ンだ、てめえら無事に生きてたのか」
「丈夫さと悪運だけが取り柄だからな」
「……うちの見舞い、感謝しろ」
花は枕に埋めた顔で大きな欠伸をするや視線を合わせることなくベッド脇の椅子に腰かける。銀は間仕切りのカーテンを閉め、枕元の卓に紙袋を置く。
「見舞いの品だ。ありがたく受け取れよ」
中身を確認すると桃やリンゴなどの果物が入っている。意外にもまともな見舞い品に公龍は銀の顔を二度見した。公龍が言わんとしたことを察したのだろう。銀は小さく舌打って、逆立てた赤い髪を掻く。
「昔にばあちゃんが青果店やってたときの繋がりがまだあってな。今もごくたまに、こうやって送ってきてくれんだよ」
「へぇ。お前のばあさんすげえんだな。ありがたく貰っとく」
ベッドの脇では花がまた大きな欠伸を噛み殺し、うつらうつらと舟を漕ぎだす。サングラスをしているので分かりづらいが、銀の顔にも隠しきれない疲労感が伺えた。
まだ都市にばら撒かれた
「遅くなって悪かったな。目ぇ覚ましてるってのは聞いてたんだけどよ」
「別にいいよ。《東都》がこんなんになっちまって、忙しいのは知ってるしな。むしろてめえらが真面目に見舞いに来たことが驚きだよ」
「まあ
銀が声を潜め、合皮のジャケットの内側から一枚の写真を取り出す。公龍は銀の手を掴み、それから遮るように語気を強めた。
「もういい」
「は? もういいってどういうことだよ?」
銀が眉を顰める。困惑に混ざり、咎めるような視線が飴色のサングラス越しに向けられる。
「そのまんまの意味だ。そもそも俺は人探しなんか頼んじゃいねえしな」
「何言ってんだよ、九重。アーベントはてめえの――」
銀は言いかけた言葉を呑み込む。眠たげな顔の花がいつの間にか立ち上がり、銀の肩に手を置いていた。
「……お兄ぃ」
首を横に振った花は、表情から公龍の内心を察したのだろう。銀は何か言いたげに唇を噛んでいたが、やがて取り出しかけた写真をジャケットの内へと仕舞い込んだ。
「……これはあいつが選んだことなんだよ。だから、こっちもよ、もうさっさと忘れてやったほうがいい。そのほうが、あのスカシ野郎も気が楽だろ」
公龍の言葉が鈍く響く。広がりかけた沈黙を拒むように、銀が声を絞り出す。
「九重、それじゃあお前はどうすんだよ」
「さあな。今すぐには考えらんねえ」
公龍はぎこちなく笑うしかなかった。
解薬士は安全性の観点から
だが残念なことに、アルビス・アーベント以外の人間と組んで戦う自分を、公龍はこれっぽっちも想像することができなかった。
たぶんここらが引き際なのだ。
解薬士になって、公龍はかつて守れなかったものを守るための力を手に入れた。流した血が結ぶかたちはその力の象徴だと、少なくとも思っていた。
だが実際はどうだろうか。公龍は一体これまで、何を守れたというのだろう。ただ一人愛した女だった粟国桜華は自らを壮絶な罪に染めて死んだ。我が子のように大切に思っているクロエは自分のせいで爆発に巻き込まれ、未だ目覚めてはいない。そして、ただ一人友だと思える存在だったアルビスも復讐に突き動かされて公龍の元を去った。
公龍は力など手に入れてはいなかった。何も守れていなかった。あの日、パーティー会場で
「……九重」
「まあ心配すんなよ。なるようになるだろ。これまでだってそうだったんだ」
かけるべき言葉が分からないとでも言いたげに、表情を歪めた銀に公龍は笑みを向ける。吐き出した言葉は空虚に響いて、どこかへと消えた。
†
二人が帰り、公龍は病室で漫然とした時間を過ごす。
六人部屋のうちベッドは半分埋まっていた。一人は両脚を骨折したという太った大学生で、もう一人は日夜ヘッドギアをつけて仮想現実に浸っている老人。こんな時世もあってか、見舞いに訪れるような人間はほとんどおらず、医者と看護師だけが妙に静まった病室を出入りする。
大学生は銀と花が訪れたことで公龍が解薬士であると気づいたらしく、話しかけられた。口振りから九重公龍がどういう解薬士かまで調べたらしい。大学生は公龍に
話したい気分ではなかった。
時間が過ぎた。
公龍の傷は常人の三倍以上の速度で治っていき、リハビリも順調に進んだ。
銀と花以外だと、一度だけ澪が病室に様子を見に来てくれた。彼女も治療は順調らしく、ハイテクな車椅子は松葉杖に変わっていた。職場復帰の日取りも決まったらしい。
もう戻る場所もすべきこともない公龍は無理して退院を早める必要もなかったので、治療に専念するという名目で、病院で漫然とした生活を送った。
時間が過ぎた。
竜藤静火から今回ばら撒かれた都市部の
来月に予定されていた《東都》設立一〇周年記念式典は二カ月ほど延期されることが決まった。節目となるこの一年がこれほど立て続けに大きな事件に見舞われることなど、誰も想像できなかっただろう。
逃亡したアルビスのその後の情報はなかった。アルビスの優秀さは公龍が一番よく知っている。そう簡単に見つかるはずはないだろうし、出来ればもうこのまま永遠に見つからずにいてくれることを願った。
ちなみに両脚を折っていた大学生は退院していった。話しかけられることはなくなり、病室はより一層静かになった。行く宛てのない公龍は何かと理由をつけて退院の日程を引き延ばしていた。
時間が過ぎた。
漫然と流れる時間を裂くように、慌ただしく扉が開く。
病室に飛び込んできたのは見覚えのある医者だった。細面の若医者はずり落ちた眼鏡の位置を戻し、深呼吸を繰り返して息を整える。
「九重さん、天常博士がお呼びです」
若医者の焦燥の意味を理解しつつ、公龍は彼に視線を向ける。以前、クロエがラスティキックの錆にやられたときに世話になった医者であることを思い出す。
名前の忘れたその医者は、深く息を吸い、僅かに口の端を綻ばせると、公龍に告げた。
「クロエさんが、目を覚ましました」
†
公龍はベッドから飛び降りるや、若医者を置き去りにして特別病棟にいるクロエの元へ急行する。
彼女が眠っていた
「クロエ!」
公龍は叫んだ。もちろん声は届いていないだろう。だがクロエは公龍の姿に反応し、随分と久しぶりに見る澄んだ両目にはっきりと光を浮かべた。
気づいた汐が公龍を一瞥、看護師がクロエをベッドから車椅子へと移す。しばらくその場で待っていると、ICUの扉が開き、汐たちとともに車椅子に乗ったクロエが現れる。
「クロエ!」
公龍はもう一度叫ぶ。クロエへと駆け寄り、そして無事に戻ってきた小さな身体を優しく抱き締める。まるで今にも壊れてしまいそうな何かを繋ぎ止めておくような手つきだった。
「よかった……よかった……っ!」
声の出せないクロエは戸惑いながらも公龍の身体に小さな手を回す。子供らしい少し高めの体温が公龍の身体を伝い、ボロボロに傷ついた公龍の心を温めた。
「あのデータが役立った。……こんなことにはなったが、アーベント君には感謝をしないといけない」
頭上では汐の言葉が響く。
〝あのデータ〟とはもちろん、アルビスが去り際に残していった宅間ファイルのことだ。汐はそこに記された
「センセ。アンタの腕あってのことだ。助かった」
「素直に感謝などするな。気味が悪い」
汐があしらうように鼻で笑う。
公龍はもう一度礼を言い、クロエからそっと離れる。クロエは公龍を見上げながら、照れくさそうにはにかんだ。
戦うたびに大切なものを失った。だけどまだクロエがいる。
アルビス風に言うならば、クロエを守り抜くことだけがきっと公龍の生きる意味なのだ。
「クロエ、戻ってきてくれてありがとう」
公龍は再びクロエを抱き締める。もう決して離すまい。もう決して誰にも、クロエを傷つけさせはしない。
クロエは自分が眠っている間に起きた出来事を――公龍とアルビスの別れをまだ知らない。だが公龍が抱いた決意に何かを感じたのだろう。クロエは背中ではなく公龍の頭へと手を回し、そっと優しく髪を撫でた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます