13/Breach of bonds《1》
動かなくなった白雪を前に、アルビスはその整った面貌に沈痛さに歪めて。
それは理屈ではなかった。同じものを同じ理由で憎んだ者同士、通じるものがあったのだろう。愛した肉親の死を背負い、巨大な怪物と戦おうとした少女の終わりに安らかな眠りを願った。
アルビスは下着姿を晒す彼女の細く白い身体に脱いだスーツジャケットをかける。
敵陣の真ん中に置いていくのは忍びない気持ちもあった。だが自らが無事にノアツリーから脱出するためにも、彼女の死体を、骨を連れて行き弔うことはできない。だからアルビスは、彼女の遺志を継ぐことを誓い、葬送の代わりとする。
「しばらくの間、待っていろ。政岡白雪」
言葉を残し、薬品倉庫を飛び出す。既に気配を感じていた通り、不可視の改造犬が襲い掛かってくる。アルビスは素早く扉を閉めて応戦。改造犬の牙は防刃繊維を織り込んだアルビスのシャツごと腕に食い込んでくる。アルビスは肉を削がれる覚悟で掌底を叩き込み、膝蹴りを打ち込み、縦拳を鼻っ柱に見舞っていく。改造犬は僅かに怯むが、まるで何かに操られるようにアルビスへと立ち向かってくる。
改造犬たちは当然脳も弄られているのだろう。本来、動物に備わっている自己保存の欲求などは見事に取り除かれ、命令に従うだけの死をも恐れぬ鉄砲玉へと仕立てられている。
このままでは埒が明かない。アルビスの体内にはまだ浸透したガスの影響も残っている。足止めされる時間が長引けば、増援も引きよせてしまうし分が悪くなっていくことは明らか。犬と戯れている余裕などなかった。
アルビスは薬品倉庫からくすねた硫酸の瓶を開け、改造犬たちに向けてばら撒く。さすがのこれには耐えかねるらしく、光学迷彩の人工獣毛は溶け、露出した肉から煙が上がり、犬たちは苦痛にのたうち回る。
アルビスは即座に踵を返して駆け出す。執念深くも追い縋ってきた改造犬に振り返りざまの手刀を叩き込み、下顎を破壊。怯んで地面に伏せた一瞬を狙って振り下ろした足で頭蓋を踏み抜く。
走りながら
改造犬たちは焼け爛れた皮膚を引き摺りながら迫ってくる。徐々に間を詰めてくる獣臭と息遣いを感じながら角を曲がれば、視線の先に既に三分の二以上閉まりかけている隔壁が見えてくる。
アルビスはさらに加速。閉まりかけた隔壁の十数センチの隙間へと滑り込んで向こう側へと抜ける。遅れて辿り着いた犬は身体が挟まり、容赦なく下りる隔壁に真っ二つにされる。最高速度で追い縋っていた後続は閉まった隔壁に激突。不快な断末魔が壁越しに微かに響く。アルビスは哀れな改造犬たちを一瞥――野犬程度の憐れみを送り、その場を後にする。
その後も幾度か追撃を受けたが、ターンと別行動になったことが功を奏しているのか、分散された追手をやり過ごすことは難しくはなかった。だが順調だった進行も、四階から六階まで吹き抜けになった
「よお、アルビス。久しぶりだな」
四階でクッションソファに身体を埋める公龍がこちらを見上げていた。アルビスは薄青の瞳で公龍を見下ろす。
「しばらく見なかった間に、随分と悪人面が様になったんじゃねえの? まあ元々正義の味方っぽい顔じゃあなかったよな」
「貴様こそ、
「ばら撒いた張本人が何言ってんだよ。つまらねえ冗談ほざくんじゃねえ」
「…………」
アルビスは否定しかけ、だが言葉を呑み込む。
もちろん
だがそんなものは詭弁であり、今まさにかつての相棒が辛辣に言い放ったようにつまらない言い訳だ。祝祭が始まることを知り、多くの犠牲者が出ることを知りながら、アルビスはそれに目を瞑った。自らのうちに滾る復讐心を優先したのだ。都市に産み落とされることになった怨嗟と悲鳴から逃れていいはずがない。
「公龍。貴様が来るべき場所はここではない」
「それはお前が決めることじゃねえんだよ」
公龍は苛立たしげに吐き捨て、クッションソファから立ち上がる。アルビスは四階へと下る階段へと足を踏み出す。
「何が目的だ? 何がしたくて、お前は俺とクロエから離れた?」
「貴様にはもう関係のないことだ」
「勝手なこと言ってんじゃねえよ。関係ねえわけあるかよ」
公龍の声がにわかに怒気を孕む。二人の間に広がる張り詰めた空気に、床を叩くアルビスの踵の音が響く。
「復讐だ」
アルビスは鋭く言った。もはや隠し立てする意味はなかった。
「私の目的は最初から復讐……《リンドウ・アークス》へ復讐することだ。そのためにこの国に舞い戻り、路上で落ちぶれていた貴様に声を掛け、解薬士を始めた。解薬士を選んだのは、それが《東都》における最も優れた武力であり、同時にコードαの前線に立つ解薬士ならば復讐の材料となる情報も集まりやすいと考えたから。貴様を選んだのは、九重公龍もまた《リンドウ・アークス》に憎しみを抱く人間だと思っていたからだ」
アルビスの言葉が広い空間に反響する。見下ろす先の公龍は険しい表情で、真っ直ぐにアルビスを見上げ続けている。
かつて《リンドウ・アークス》の研究員だった公龍は、自らが開発した薬の副作用の隠蔽によって引き起こされた事件を理由に解雇。その事件をきっかけに粟国桜華との間に生まれるはずだった命を失い、二人の関係までもが砕け散った。
似ていると思った。だからこそアルビスは公龍を自らが行く修羅の道に公龍を引き入れた。路上で喧嘩とアルコールに溺れる男を見出した。
だが公龍はアルビスが思っていたよりも強く、聡明な男だった。
公龍は粟国桜華事件を通して、あるいは空木クロエとの出会いを通して過去と向き合い、傷を胸に抱きながらも憎しみを乗り越えてしまった。過去に縋って復讐することよりも、自らの手に掴むことのできた僅かな温もりを守ることを選んでしまったのだ。
その時点で、このパートナーシップにいつか終わる日が来ることは分かっていた。これは唐突に訪れた決別などではなく、予め決められていた結末なのだ。
だが公龍は、アルビスが口にした真実を鼻で笑ってみせる。
「違えな。違えよ。お前は堅物でクソ真面目で鬱陶しいが、頭はキレる。それに強えことも確かだ。だからお前が本気で《リンドウ・アークス》に復讐しようっていうなら、解薬士なんてまどろっこしい手段は取らねえよ。それこそ真っ直ぐテロリストにでもなってやがっただろ」
「何が言いたい?」
「過去に何があったかは知らねえし、興味もねえ。でもな、お前が解薬士になったのは復讐が目的じゃねえ。お前は、アルビス・アーベントは許したかったんだ。《東都》の繁栄を目の当たりにし、影を落とす歪みと戦うことで、《リンドウ・アークス》も、過去の自分も、全部許してやりたかった。そうだろ?」
「知った風な口を聞くな。貴様に何が分かる?」
「分かんねえよ。てめえが話さねえんだから、分かってたまるかよ」
「ならばその腐った口を噤んでいろ」
「いいや、噤まねえよ。俺はまだ辛うじてギリギリ、アルビス・アーベントの相棒、九重公龍でいてやってんだ」
公龍が口角を吊り上げ獰猛に笑う。前に突き出した手は、おそらくアルビスに向けて差し伸べられる最後の救いだ。
だけどもう、アルビスには差し伸べられる手を掴む資格はない。この手は血に塗れすぎている。それに復讐という目的を失うことは、アルビスの存在意義そのものを揺らがせる。これまで費やしてきた時間を、負ってきた傷を、踏み越えてきた数多の屍を、無碍に蹴散らすことになる。
「くだらんままごとは止めにしろ。私のことなど放っておけ」
「放っておけねえから言ってんだろうがよ。別に、過去に囚われんなと説教してえわけじゃねえ。だけど
「貴様がどれほど見当はずれな評価を思おうが、それは貴様の勝手だ。だが私には、この復讐心だけがあればいい」
四階に下りたアルビスは
「もう貴様は必要なくなった。ただそれだけのことだ。私の前から消えろ、公龍。そうでなければ私は貴様を殺さなくてはならなくなる」
「やってみろよ。俺はたとえ力づくでも、てめえの目ぇ覚まさせるためにここに来てんだ」
公龍もまた
互いのシリンダーが同時に音を立てて振り戻される。奇妙な緊張感が二人の間に漂った。その重苦しい空気に耐えかねたように、公龍が口元を綻ばせる。
「思えばよ、てめえと本気でやり合うのは初めてだな」
「そうだな。これでどちらが上か、ようやくはっきりする」
「へへ、上等だよ。泣いて詫び入れても知らねえぞ」
「貴様こそここへ来たこと、後悔するなよ」
公龍は不敵に笑い、首筋の
対するアルビスは氷のように冷たい無表情で、同じように
「てめえは俺の相棒――アルビスアーベントだ」
「貴様は私の敵――九重公龍だ」
同時に引き金を引く。間の抜けた音とともに
それは開戦の
そして、それは二人の絆に走る鋭く深い決裂の音でもあった。
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