12/Consanguineous wedge《2》
公龍は血の刃を全力で振り絞り斬撃を放つ。しかし行く手を阻む隔壁には傷の一つのさえつけることはできない。
「クソ! やっぱダメかっ」
公龍は苛立ち紛れに壁を蹴り、来た道を引き返す。
見立てていた通り、《リンドウ・アークス》本社は賢政会による襲撃を受けていた。既に人工樹は激しく燃やされ、死体がそこら中に転がる戦場さながらの光景に、公龍の知る豊かな景観は見る影もなかった。
公龍が屋外で暴れていたチンピラを掴まえて二〇枚の爪を問答無用で剥げば、政岡白雪たちがノアツリーに向かったことをすぐに吐いた。そしていくつかあったなかで最悪の予想は的中し、白雪とターン=カームとともに移動する銀髪の男の姿があったことも分かった。
公龍は敷地内で繰り広げられる混沌と虐殺に目をつぶってノアツリーへ向かった。だが上層階を目指して移動する最中、突如としてセキュリティが発動。静火による声明が流され、《リンドウ・アークス》総裁である竜藤統郎の死が明らかになった。
何一つとして理解できないまま目まぐるしく変わっていく状況に、公龍はギリと奥歯を噛み締める。
「何がどうなってんだよ、アルビスッ!」
痛切な叫びに応える声はない。もう何も分からない。だが分からないなりに、いや分からないからこそ、公龍はアルビスを問いたださなければならないことだけは確かだ。まだ曲がりなりにも相棒として背中を合わせていたときの気持ちがあるなら、たぶんきっとまだ言葉を交わす余地はあるはずだ。
公龍は階段を見つける。この階段は記憶通りなら七二階まで通じている。ここには竜藤静火CEOの執務室があり、エレベーターを使えば七五階の居住エリアにまで向かうことができたはずだ。
息を切らし、満身創痍の身体に鞭を打ちながら階段を駆け上がっていく。だが七〇階に辿り着いたところで無情にも隔壁が立ちはだかる。
公龍はやむを得ず別ルートを探してフロアに出る。各階に設置されている多目的ラウンジを横切ろうとして、公龍は感じた気配――濃密で威圧的な殺気に慌てて柱の陰に身を隠す。
今は一刻を争う。無駄な戦闘に費やす時間も体力も気力も、公龍には残っていないのだ。
聞こえてきたのは苦鳴。それも聞き覚えのある少女の声だった。
「だぁ、だ、い、痛いんらけろぉ……」
息を殺しながら柱の陰から声の方向を覗く。見えたのは見覚えのある肥満体。だが宙に浮いた全身は血塗れで四肢がなく、頭は鋭い爪を生やす獣じみた手によって握られている。
「……なん、だよ。あれ」
それは今にも死にそうなスパーク=ピークに向けた言葉ではない。スパークを瀕死に追い込んだそれに向けて、思わず口を突いて出た言葉だった。
スパークの頭をリンゴか何かのように掴む手を含む四肢は黒い獣毛に覆われ、刈り上げた短い銀髪を掻き分けるように側頭部からは三角形の耳が生える。白く濁った息を吐く唇からは鋭利な牙がこぼれていた。
その姿を適切に表現しようとするならば、獣人。
まるで漫画の世界から引き摺り出してきたような奇怪な姿の女がそこに立っていた。
さらに戦慄を覚えるのは、スパークがあれほど無惨な姿を晒しているというのに獣人の女のほうは血も汗も一滴たりとも流している様子がないということだ。
「がぁっ、あっ、いだいぃ、いだいいいいっ」
女が涼しい顔のまま手に力を込めると、スパークが苦鳴を上げて抵抗する。しかし既に四肢を捥がれたスパークには放電する術すらないらしく、宙に持ち上げられたまま無様に身を捩る様は釣り針に掛かり海から引き剥がされてしまった無力な魚を連想させた。
「盾突くゴミは死ね」
女が吐き捨てる。鋭い爪がスパークの頭へと食い込み、頭蓋はまるで熟れた果実のように引き裂かれて握り潰される。首から上のなくなったスパークが鈍い音を立てながら地面に沈む。静まり返ったラウンジには、女獣人の息遣いだけが微かに響く。
迂闊に出ていくべきではない。無駄な戦闘を避けるならばこのまま息を潜めているのが最善――。公龍がそう思った矢先、女が醸す殺気が柱越しに公龍の心臓を鷲掴みにした。
「誰だ」
言うのと同時、柱が砕け散る。公龍は一瞬で考えを切り替え、前方に飛び退きながら身を翻し女獣人に向き直る。
「まだゴミがいやがったか」
距離を取ったはずなのに、声は目の前から聞こえた。繰り出される打撃を血の刃で辛うじて受け止める。しかし刃は圧し折れ、衝撃が腕を伝って全身を軋ませる。公龍はソファやテーブルを巻き込みながら吹き飛び、壁に激突する。
「ちょっと待て!」
迫りくる追撃を躱す余裕はなく、公龍は罅割れた壁にもたれながら両手を挙げる。殺気を孕んだ突風が吹き、今まさに閃く爪牙が振り下ろされようとしていた。
公龍に浴びせられたのは颶風だけ。ゆっくりと閉じた目を開けば、眼前数センチといったところで女の爪撃がぴたりと静止していた。
「……貴様、確か九重公龍だったな」
「あんたは秘書課のルベラ=レグホーンだな。
頬に刻み付けられた幾何学模様の刺青。そんな特徴的な美女を見紛うはずはない。
ルベラは公龍の眼前に指先を突きつけたまま、不躾な視線を向ける。
「何故ここに?」
「野暮用」
「そう。果たせなくて残念だな」
「ちょっと待てって」
公龍は慌てて挙げていた両手を前に突き出す。僅かに力の込められた爪の先端が眉間に触れ、鼻梁から頬へと血が流れる。
この状況を支配しているのは竜藤静火。おそらくルベラは彼の命令で動き、侵入者を駆除して回っているのだろう。ならばこれから向かうのは政岡白雪たちの元に違いない。目的は同じだ。
「後生の頼み、聞いてほしんだけどさ」
公龍は生殺与奪を握られたまま、軟派な笑みで口元を緩める。
†
アルビスと白雪はなんとか神経ガスの散布圏内を抜ける。
向かったのは薬品倉庫。アルビスは白雪を床に横たえ、棚から解毒剤――プラリドキシムヨウ化メチルを探す。
「……聞き、なさい……アル、ビ」
「喋るな。今解毒剤を打ってやる」
アルビスは白雪の着ている着物の袖をまくり解毒剤を投与。本来であれば身体を洗浄する必要があるが、あいにくそれができる設備が見当たらない。代わりに白雪を抱き起し、ガスが付着しているであろう袴や着物を脱がしていく。
「始まりは、……鴻、田組、との、抗争でし、た」
白雪が口を開く。浅い呼吸を忙しなく繰り返すせいでか細く掠れた言葉は途切れ途切れに宙を舞って消えていく。
「鴻田、組、は、過激、派で知られ、……父、
昔の伝手というのは前身のKMカンパニー時代、死体を医薬特区の加盟企業に流していたころのものだろう。医薬特区自体が《リンドウ・アークス》によって吸収された後もKMカンパニーの関与が続いていたとしても不思議はない。
「……《リンドウ》は、父……頼みを、断りまし、……
「だから貴様は会内の好戦派を率い、〝六華〟を利用して父親を殺し、鴻田組を手中に収めた」
「……ったしは、父を、殺し、てなど、……ない」
白雪は首を横に振った。
表情は苦悶に歪んでいるが、真っ直ぐとアルビスに向けられる眼差しは真剣さに満ちている。到底嘘を言っているとは思えなかったし、この場で呼吸を乱して命を削ってまで白雪が嘘を吐く理由もない。
「父はっ、……《リンドウ》、に……、過去の、関、係を……材料に、て、交渉、を持ち……掛け、まし、た。そして……殺され、たの、です」
「政岡賢十郎は《リンドウ・アークス》によって消された。つまり祝祭は、その復讐か」
よく考えてみれば、戦う力のない白雪が《リンドウ・アークス》に乗り込んだのは軽率な行為だ。だが白雪にはこの祝祭の完遂を――復讐の成就を見届けなければならなかったのだ。
だがその執着心と父を想う愛情ゆえに、祝祭は頓挫する。実父さえも手にかける竜藤静火の非情さが白雪の復讐心を凌駕したのは笑えもしない皮肉だった。
「……父、を失っ、た、好戦派を、押さえておく、……ことは、不可能に、なり……ました。だから、……会を継いだ、私、は……犠牲を、最小、に抑えて……鴻田組との抗争を、速やかに、終わらせる、必要……が、ありまし、た。そして、あの人が、……現れたのです」
「あの人?」
アルビスは薄青の瞳を細める。しかしもはや白雪の意識は朦朧としている。うわ言のように言葉を発するのみで、アルビスの問いは聞こえてさえいないのだろう。
「……彼は、私に、〝六華〟を……与え、父の死と、……《東都》に巣食う、闇の……、真実を、告げまし……た」
「あの人とは誰だ?」
アルビスは重ねて問いかける。
白雪の話を総合すれば、断片的だが見えてくるものがある。それは白雪と粟国桜華の共通項。《リンドウ・アークス》、あるいは《東都》に何らかの恨みや不満を持っていた二人は、改造された人間という力を与えられたことで都市に牙を剥いた。動機を持つ者を利用し、混乱を引き起こすための手段と力を与える人間がやはり確実に存在している。
ずっと朧げだった〝X〟の影。その正体に、ようやく指がかかったのだ。
白雪は何か重要なことを口にしようと、懸命に口を動かす。しかし限界が近いのか、かたちの整った唇からは弱々しい息が漏れ、眼差しに宿る光は揺らいで消えていく。
「しっかりしろ! あの人とは、〝六華〟を与えた人物とは誰なんだ?」
白雪の華奢な肩を掴む。
「アル、……ビス・アー……ベン、ト。貴方は、きっと……、その身体に、流れて、いる……血の、楔……から、逃げる、こと……でき、ないでしょう……。気をつけて。《東都》、には、悪意が、溢れている……、もう、止まること、は……。竜、藤静火は……、恐ろしい、……」
言葉が不自然に途切れる。白雪の全身からふいに力が抜けて、身体の上から滑り落ちた手が空虚に床を叩いた。
このままではまたも真実が葬られてしまう。
アルビスは白雪に心臓マッサージを施す。しかしどれほど懸命に胸を叩こうと、祝祭の首謀者である政岡白雪が息を吹き返すことは、もうなかった。
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