12/Consanguineous wedge《1》

「何か来る」


 山吹色ブラッドオレンジのアンプルで気配を感じ取るやアルビスが鋭く叫ぶ。

 既に竜藤統郎の居住階を後にしていたアルビスたちは、差し掛かった通路の只中で緊張を走らせる。

 曲がり角から低く飛び出してくる目に見えない何か。だが目に見えずとも隠しきれない殺気は確かに迫ってきている。

 アルビスとターンは白雪を庇うように前へ出る。研ぎ澄まされた感覚が僅かな獣臭を嗅ぎ取った。

 咄嗟に防御へと腕に衝撃。姿なき襲撃者の牙が腕へと食い込み骨を軋ませる。アルビスはそのまま腕を振り回し、見えないそれを壁へと叩きつける。確かな手ごたえ。腕から外れたそれが地面に降り立つ微かな音を辿り、低い軌道の蹴りを放つ。それは後ろに飛び退いて回避。蹴りは空を切る。

 アルビスは目を閉じる。既に予測はついていたが、視界を閉ざしたことによってより際立つ聴覚と嗅覚が敵の輪郭をさらに明確にする。

 襲撃者の正体は犬。姿が見えないのは光学迷彩とみて間違いない。おそらく第一部門ファーストラボによって開発された実験動物デザインアニマルだろう。ここまで高度なものに遭遇するのは初めてだが、全く経験がないわけではなかった。

 犬は人間よりも遥かに戦闘能力が高い。走る速度が人間のそれよりも遥かに速いことはもちろん、嗅覚は天性の追跡者チェイサーとしての地位を確固たるものにしているし、本来生肉を屠るための牙は健在だ。加えて学習能力も高く従順であることから人間との連携、犬同士の連携ともに練度を高めやすく、訓練を施した上で軍事利用することは珍しくない。

 改造犬が地面を蹴って再び飛びかかってくる。アルビスはタイミングを見計らって両腕で上下の顎を抑え込む。後ろに倒れ込みつつ身体を反転させてマウントを取り、閉じようとする犬の口を抉じ開け、膂力だけで引き裂く。

 突然に何もなかった空間を裂くように血が噴き出す。虚空にノイズが走るようにして引っくり返った大型犬が姿を現す。二秒程度ビクビクと痙攣した後、犬は動かなくなった。

 アルビスは胸に差していたスカーフで血塗れの手を拭い、それから広げたスカーフを引き裂かれた犬の顔へと掛けてやる。


「随分と力技を使うんだね」


 傍らで細剣レイピアへと変化した両手の十指で犬を串刺しにしたターンが言う。


「貴様のように便利な身体でなくてな。殴り殺すよりもこちらのほうが早い」


 アルビスはターンと目も併せずに吐き捨てながら立ち上がる。五感は既に増援の気配を感じ取っていた。


「数が多いな。引き返そう」

「いや、問題ない」


 ターンが不遜に言い放ち進み出る。重ねた両腕がぐにゃりと歪み、胴体の一部と結合。形作られるのは八連砲身の機関銃。


全弾発射フルバーストだ」


 アルビスと白雪は本能的に耳を塞ぐ。刹那、ターンのが弾けるように火を噴く。放たれる銃弾は壁を抉り、床を穿ち、天井の照明を砕く。押し寄せる弾幕のカーテンは曲がり角から現れる見えない改造犬の群勢を肉塊へと変えていく。

 万物へと転じる男ターン=カーム。その強さはまさしく一人きりの軍隊ワンマンアーミーだ。この男の本領は一対一の対人戦闘や変装などの交錯ではなく、一対多の戦場でこそ発揮されるのかもしれない。

 時間にして一〇秒足らず。八本の砲が銃弾の代わりに白煙を吐き出すころには改造犬は例外なく引き裂かれ、前方に伸びる薄暗い通路には殺戮と破壊の爪痕だけが深く刻まれる。

 ターンは腕を元へと戻し、転がる犬の死骸を足蹴にする。用心深く安全を確認したのち、後ろ向きに引いた腕を縦に振り、進行再開の合図を送ってくる。アルビスは白雪を先に進ませて後に続く。

 既にノアツリーには《リンドウ・アークス》の最大戦力である第四部門フォースパワーは残っていない。だが沈黙していたセキュリティは稼働を始め、天性の追跡者チェイサーたちが今も迫っている。そもそもこの程度が静火の策謀の全てだとは思えない。

 状況は決して芳しくなかった。ノアツリーはもはや不落の監獄と化している。アルビスたちが現在移動しているのはまだ地上六三階。脱出までの道程はまだ長く険しい。


「……行き止まりだ」


 三叉路に差し掛かったところで、アルビスが足を止める。左右直進、全ての通路の先で既に隔壁が下りている。


「またですか……。さっきまではこの経路で問題なかったのでしょう?」


 白雪が苛立ちを露わにする。端整な顔を悔しさに歪め、形の整った唇を噛む。もう冷静さを取り繕っているだけの余裕は見られない。

 いくら静火の手が想定外の一手だったとはいえ、この窮状は祝祭を計画した白雪の目算が甘かったことを意味している。そもそも親殺しは政岡白雪の専売特許であったはずだ。それだけに、白雪は自らの失態に責任を感じている。


特殊調合薬カクテルで強化はしているが私の感知範囲にも限界はある。それに、おそらく私たちの動きは把握されている。誘い込まれているような、嫌な感じがする」

「ピークにはまだ応答がないのですか」


 白雪がターンを睨む。ターンは険しい表情でかぶりを振った。

 スパーク=ピーク。アルビスがまだ見ぬ〝六華〟最後の一人は、ターンたちとは別動でノアツリー最上部の電波塔へと向かっていたらしい。冠する名前から想像できる通りの帯電人間であり、電波塔から放出させる独自周波の電波によって都市に放った過剰摂取者アディクトたちを大まかにコントロールという役目を担っていた。白雪たちの口振りから察するに、帯電能力を応用することで広範囲高精度の索敵能力があるらしい。

 本来ならば既にそのスパークも合流している手筈だったが、ターンがいくら呼びかけても連絡がつかない。元々かなり独断で動く悪癖の持ち主のようだが、状況が状況なだけに嫌な予感は高まっていた。


「彼は機転が利きます。問題はありません、お嬢」

「ですが……」


 表情から察するに、白雪はおそらく本心で雇い入れた戦力でしかないはずのスパークの身を案じる。アルビスは目の当たりにする政岡白雪とこれまで抱いていた印象との相違にずれを感じていた。

 当初抱いていたのは父を殺して組を手中に収め、よもや《リンドウ・アークス》の支配さえも覆そうと目論む権力志向の冷徹な女。だがつい数時間前に出会ってからの彼女には、そういう人間に特有の臭いが感じられない。

 彼女の行動の根本を支える原理がどうしてか引っ掛かった。まだ何か秘された事実があるような気がしてならなかった。

 だが全てはアルビスの所感と推測。今は白雪の本意よりも生き残るための方法を考えなければならない。


「とにかく引き返す」


 入れ替わるようにアルビスが先頭になり、来た道を引き返していく。

 空気中に生じた僅かな異変に気づいたのは、なるべく広範囲の経路を探ろうと五感に集中を傾けたその瞬間だった。


「口を塞げ!」


 アルビスが指示を出すや、それだけで全ての意図を察したらしいターンが全身の表面をラミネート構造へと変換。白雪を引きよせ、ガスマスクへと変化させた手でその顔を覆う。アルビスも目を閉じて呼吸を止めるが、皮膚から浸透する神経ガスまでは防ぐことができない。

 僅かに香る果実臭。手足は小刻みに痙攣している。

 いわゆるタブンGAガスだろう。ナチス期のドイツで製造された即効性の強い有機リン酸系の神経ガスであり、痙攣や呼吸困難などを引き起こす。

 アルビスはサスペンダーから特殊調合薬カクテルを抜きとり回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターに装填。手の痙攣を押さえながら自らに打ち込む。

 紺青色サルビアブルーのアンプル。医薬機孔メディホールが少なからず持っている中和作用を倍増させる万能の解毒剤だ。

 GAガスは即効性こそ高いもののサリンなどが名を連ねるG剤のなかでは最も毒性が低い。ましてアルビスは医薬機孔メディホールによる解毒効果を望むことができるし、ターンは身体の性質さえ変化させれば体内への浸透を防ぐことができる。セキュリティを巧みに操作してアルビスたちをこの地点へ誘い込んだ静火も、GAガスでアルビス達を完全に無力化できるとは思っていないだろう。

 つまり狙いは白雪だ。

 既にターンもこのGAガスの狙いについては察している。ターンの根本的な性質が傭兵である以上、雇い主である白雪を死なすわけにはいかない。呼吸困難に陥る白雪を抱え、アルビスとともに駆け出す。だが行く手を阻むように不可視の殺気が通路に立ちはだかった。

 絶体絶命の状況下で、合理的な判断を迅速に下したのはターン。抱えていた白雪をアルビスへと押し付けるや低く飛び出す。両腕の肘から先が鋭利かつ硬質な六角槌へと変化。ターンはまるで見えているかのような精密な動きで腕を振るい、襲い掛かる改造犬の頭を潰し、頸椎を圧し折っていく。

 鬼神のごとき気迫と奮戦に改造犬たちが攻めあぐねる。そのほんの一瞬だけ生まれた隙を突き、アルビスは駆け出す。差し出されたターンの腕を足場にして改造犬たちの頭上を飛び越える。天井ぎりぎりを通過しての着地。アルビスはターンを振り返ることなく地面を蹴る。追い縋る改造犬たちをターンが振り下ろす六角槌が叩き潰す音が響く。この調子ならばターンはすぐに追いついてきそうだ。

 猛烈な息苦しさを感じながら、アルビスは走る。依然としてガスの散布範囲を抜けることはできていない。このフロア全体なのか、それとももっと広範囲なのかそれすらも分からない。確実なのはこのままガスを浴び続ければ、いずれ医薬機孔メディホール紺青色サルビアブルーのアンプルによる解毒効果も追いつかなくなるということだ。

 アルビスの腕のなか、白雪は呼吸困難に陥りながらも子供に戻ったような顔で泣いていた。苦しさによるものではない。それは悔し涙だ。


「ァ、……アルビス……アー……ベ、ト」


 荒い呼吸に掻き消される声がアルビスに向けられる。アルビスは懸命に絞り出される声を無視し、ラウンジのように開けた空間の中央にある螺旋階段を駆け下りる。白雪は喉の隙間からひゅうひゅうと息を吐きながら、それでも懸命に声を捻り出す。


「話、し、ますわ……」

「喋るな。もうすぐガスの散布範囲を抜ける」

「聞いて、くだ、さい。……私が、知って……、いる、《東、……都》の、闇、……全てを」

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