11/Dancing with fidelity, Barking for faith《2》
スラストの蛙を握り潰したように歪な雄叫びが響き渡るや、その変貌が始まった。
全身の筋肉はせり上がり、スラストは二回りほど大きな巨躯を手に入れる。毛穴から生え出る針はその数をさらに増し、もはやスラストの輪郭さえ分からぬほどに全身を覆い尽くす。元は針の生えていなかった掌や顔に至るまで、鋼鉄の下顎以外の見える全てが針で覆われた身体からは濛々と湯気が立ち込める。それはさながら醜悪なウニの怪物じみていた。
おそらくは新陳代謝を異常に高め、発汗を促す
「ガチガチンッ!」
スラストが左腕から針を放つ。その圧倒的な物量はウォンが盾にしている柱を数瞬で破壊し尽くし、瓦礫へと変える。
にわかに巻き立つ粉塵を裂いてウォンが飛び出す。振り抜く斬馬刀が不自然に揺らめき、無数の矢へと転じる。血の嚆矢はスラストへと殺到。放たれる針と真正面からぶつかり合って相殺される。粉塵が広がり、立っているのもままならないほどの烈風が駆け抜ける。
しかしウォンもスラストも攻め手を緩めることはない。
粉塵を引き裂きながら両者が衝突。しかしウォンの斬撃は足の負傷もあってか、僅かに踏み込みが甘い。斬馬刀はスラストの凄まじい膂力に押し返され、ウォンは吹き飛んで壁に激突。叩きつけられて呻くウォンに向けて間髪入れずに針が殺到。ウォンは弾かれるように前へ踏み込み、振るう斬馬刀の剣圧で針を迎え撃つ。
無論全てを払いのけることは叶わない。腕や肩や頬、腿や脇腹を針が擦過。ウォンの全身が浅く切り刻まれる。それでも致命傷だけは避けるウォンの手腕に、アルビスは感嘆を禁じ得ない。
「まだまだぁッ!」
ウォンが髪を振り乱しながら吼える。しかし奮い立つ心を折るように、真っ直ぐ加速したスラストの突進がウォンを捉える。
響き渡る大音声。
普通ならば肉体が消し飛ぶ威力の一撃。よくてミンチ。少なくとも貫かれた自覚さえ持たぬまま八つ裂きにされると見て分かる突進だった。その凄絶な破壊力を示すように、スラストの体躯の半分以上が崩れかけた壁に埋まっている。
勝負は決した。アルビスたちがそう確信した瞬間、スラストの体躯が不自然に押し戻され始める。
まさか――。今度はそう思い至る暇さえなく、スラストが弾かれるように押し込まれて空間の中央まで後退。あろうことか崩れる壁のなかから、血塗れのウォンが姿を見せる。
その立ち姿はまさに修羅。燕尾服は跡形もなく消し飛び、鍛え上げられた彫像のような肉体には無数の穴が穿たれ血を噴き出す。しかしそれでも、鋭く前を見据える眼光は死んでいなかった。
ウォンは
一体何がウォン・ファーガソンを突き動かしているのか。
もはやそれは単なる忠誠などという言葉では表しようのない、強烈な意志を感じさせた。
ウォンは踏み出す。その執念と気迫が、スラストを圧倒していく。
「これより先へ……、通すわけ、にはいきま、せん」
「ガチガチッ!」
スラストが顎を打ち鳴らす。だがそれは威嚇というよりも、もはや恐怖に震えているようにさえ見えた。
スラストが針を放つ。ウォンは歩みを止めることなく、回転させる斬馬刀で針を防ぐ。とうに限界を越えて死に瀕して尚、その技は衰えるどころかさらに鋭さと精密さを増している。
針がウォンの耳を消し飛ばし、膝を貫き、腕を抉る。だがどれほどの傷を負おうとも、瞬く間に噴き出すはずの血が傷口を塞ぐ。ウォンは決して歩む速度を緩めることなく、真っ直ぐにスラストへと向かっていく。
スラストは針の射出を止め、再び低い前傾姿勢を取る。この進撃を止めるには、ウォン・ファーガソンという得体の知れない修羅の息の根を止めるには、最大質量にして最大威力の攻撃でもって葬り去る他に術はないと判断したのだ。
「ガチガチガチガチィィンッ!」
スラストが地を蹴り出し加速。さっきの一撃よりもさらに鋭く強烈な突進。
対するウォンは歩みをぴたりと止めて腰を落とす。ウォンの全身を塞いでいた血液が螺旋を描いて解け、構えた斬馬刀の稲妻じみた刃へと吸い込まれていく。衝突の一瞬手前、斬馬刀の刃は持ち主であるウォンの体躯を遥かに上回る大きさへと相成った。
風を切って、赤い閃光が閃く。斬馬刀の一撃は加速したスラストを最高のタイミングでもって捉える。スラストの全身を覆う針は砕け、――しかし同時、血の斬馬刀も砕け散っていく。
「はあああああああああああああっ!」
ウォンの命を絞り切るような雄叫びは、凄絶な破砕音に掻き消されていった。
果たして、両者が交錯したまま戦場に静寂が訪れる。アルビスはその勝負の行く末を思って息を呑む。ターンと白雪も、おそらくは同様の心持ちで戦場を見つめていた。
粉塵が晴れゆくなか、先に頽れたのは針で覆われた巨躯――スラスト=トラスト。斬馬刀により両断された左半身が先に地面へと沈み、遅れて右半身が崩れ去る。
一方、立ち尽くすウォンのほうも既に握る斬馬刀は跡形もなく、代わりに身体の前面には夥しい数の針が突き刺さっていた。
両者絶命――相討ちだった。
「……最後まで膝をつかないか。見上げた男だ」
死して尚、主を守るべく立ち続ける敵に、ターンの称賛が向けられた。
アルビスたちは荒れ果てたフロアを横切り、聳える扉の前に立つ。腕を破城槌へと変化させたターンが扉を破り、さらに中へと進む。螺旋階段を下りるとアンティークの調度品に飾られたやけに広いリビングがあり、その奥にはさらに扉――竜藤統郎の寝室がある。
決して短くない戦いだった。胸のうちで滾る憎悪を燃やし続け生きてきた。非力だった少年は戦う術を知り、生き残る術を学び、幾度なく死線を潜り抜けて今日まで辿り着いた。全てはこの日のためにあった。だがその怨嗟の日々もここで終わる。
その瞬間が迫っていた。
ターンが
真正面に見える天蓋付きの豪奢なベッド。その上にぶちまけられた夥しい量の血液。そして分厚い胸に虚空を作る竜藤統郎の――死体。
「どういう、ことだ……?」
圧し掛かるような困惑に耐えかねて、アルビスは口を開く。何か言葉を口にしていないと気がおかしくなりそうだった。だがターンも、そして白雪もその疑問に答えるための言葉を持ち合わせてはいない。
ベッドの周囲には最新の医療機器が並んでいる。頑健な肉体を誇りながらも、おそらく実際は病に伏せていたのだろう。表舞台に現れなくなったことからも、それは納得ができる。
だが《東都》の頂点座す支配者の命を摘んだのは病でも老いでもない。
アルビスは思わずここからは望むことのできないウォン・ファーガソンを振り返る。
彼は既に死した主の墓を守るためだけに、あれほどの戦いを演じ、その命を燃やしたのだ。その強さ、そしてその忠心はもはや狂気と紙一重と言えるだろう。
「血も乾いていませんし、死後硬直も始まっていませんね。まだ殺されたばかりのようです」
躊躇なく死体に歩み寄った白雪が首を横に振って声を潜める。アルビスもターンもまだ襲撃者が室内にいる可能性を考慮して、既に注意を張り巡らせている。もちろん自分たち以外の気配はない。
「一体、誰が殺したんだ……」
アルビスの呟きの答えは、ベッドの血溜まりの上にタイミングよく浮かび上がったホログラムのモニターに映し出される。
映像の中央にはブラックスーツを着込んだ竜藤静火が立っていた。背後の社紋の旗から察するにどこかの会見場だろうか。映像はおそらく《東都》全域に配信されている。静火は黙祷を捧げるように目を閉じて沈黙していたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
『《東都》は今、未曽有の混乱のなかにある』
静火の言葉がモニター越しに響く。
竜藤の一族の者が発する言葉は、《東都》の真っ当な市民にとって王の勅令にも等しく聞こえる。避難所でも流れているだろう映像に手を合わせすらしているだろう人々の姿が目に浮かぶ。
ターンや白雪も黙ってホロモニターを凝視していた。この寝室で起きた状況を説明する言葉が静火の口から語られるであろうことを確信しているようだった。
『《東都》を覆う怨嗟も、響き渡る悲鳴も、蔓延る絶望も、全て私の耳には届いている。この状況は我々《リンドウ》の落ち度に他ならない。我々が不甲斐ないせいで、君たちに再び多大な苦難を強いていること、まず謝罪せねばならない』
静火が深く頭を下げる。その時間およそ一五秒。やがてゆっくりと顔を上げる。表情はまさに沈痛さそのものだ。
『そして、この苦難に追い討ちをかけるように、先ほど《リンドウ・アークス》総裁である我が父、竜藤統郎が何者かによって殺された』
「やられたな」
そう呟いたのはターン。言葉の意味はアルビスにも理解できる。
殺されたままの状態である統郎の死を既に静火が知っていること。この部屋で起きた全てを知っていただろうウォン・ファーガソンが命を賭してまでアルビスたちに立ちはだかったこと。
それらが仄めかす事実は一つだけ。
こちらの目論見を看破した静火が竜藤統郎を殺すという方法で先手を打ってきたのだ。
統郎を先んじて殺し、死んだことを発表してしまえば、白雪の目論む宅間ファイルの公表は、たとえ実行したとしても信憑性を大きく損なうことになる。
もちろん今から標的を静火に変更することは難しい。既にこの盤上を支配するのは、白雪ではなく静火なのだ。
『この混乱に乗じての犯行。許されることではない。だが父は常々私たち子供に言っていた。《東都》に殉じろと。この混乱を収めること叶わずに死んだ父はさぞ無念だろう。だからこそたとえ父の死に直面しても、私は立ち止まってはならないのだと思う。私は竜藤統郎の遺志を継がなければならない。私に哀しみにくれる暇はない。《東都》に影を落とす絶望と苦難のほうが遥かに深いのだから。――以降の指揮と責は全て、この竜藤静火が父・統郎に代わって担う』
白々しい演説だった。だが静火の言葉、間合いの取り方、表情と手振りの全てに鬼気迫るものがあり、それらは全て静火のカリスマとなって市民たちの支持を集めるのだろう。
『既に被害の概ねは把握している。対策も講じている。あと少しだけ辛抱してほしい。絶望するにはまだ早い。《東都》にはこの私がいる。私が必ず、君たちを安寧に導くと約束しよう。解薬士の諸君には負担をかけるが、この窮地を我々とともに乗り越えてほしい。勝利は間もなく訪れる』
そこで映像が終わり、モニターが溶けるように揺らいで消える。
この未曽有の混沌の最中、静火の言葉がどれほどの市民に届いたか定かではない。むしろ少なからず衝撃的な内容はより混乱を招きさえするだろう。
だがそれでも、静火は統郎の死を公にした。それはたった今より自分こそが《東都》の頂点だと内外に示すためであり、肉親の死というセンセーショナルな出来事を共有することで市民の共感と指示を集めるため。そしておそらくは、ノアツリーを襲撃した
「どうしますか、お嬢」
「たった一手……たった一手で盤が引っくり返されてしまいました。今はここから、無事に脱出することを考えるのが先決のようですね」
白雪は冷静だった。いや、懸命に冷静を取り繕っていた。ここは敵の懐。地上七五階のノアツリーのなかだ。結果的にアルビスたちは何一つとして目的を果たせず、まんまと誘い込まれたかたちになる。
「アーベント。君はどうする?」
ターンがアルビスを見やる。
アルビスが与する際に出した条件は一つ。宅間ファイルの公表後の竜藤統郎の身柄を自らに一任すること。だが計画は瓦解し、竜藤統郎は既に死んだ。アルビスが今日までの人生を捧げてきた復讐が成ることは、もう未来永劫あり得ない。
アルビスは心の大部分に空いた虚無を意識の隅へと押しやる。優先すべきが行き場の失った憎悪を持て余すことでないことは明白だ。
「……乗りかかった舟だ。それに、貴様と協力するほうが脱出成功の可能性は上がる」
「そう言ってくれると思ったよ。やはり君は俺が敬愛するアルビス・アーベントだ」
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