09/Not yet《2》

 行く宛てもなく病院内を彷徨った公龍は結局自分の病室に戻るしかなかった。

 破壊の限りを尽くされて荒れ果てた室内に投げ飛ばした警備員たちの姿はなく、薬液と血の滲むシーツの上には伏魔殿から呼び出されたらしい魔女が座っていた。


「やあ、九重。随分と派手に暴れたね。馬鹿どもが不快な苦情クレームを寄越したんだが、この落とし前はどうつけてくれるつもりだい?」


 魔女が白衣の袖から取り出した執刀具メスを呪いの道具さながらにちらつかせる。汐ならば冗談抜きでこの場で腹を開きかねない。公龍は両手を挙げて無抵抗を示す。


「……悪い。気が動転してた」

「今度は僕に余計な雑音が入らないよう、喋れなくなるまで徹底的にやれ」

「そっちか」


 思わず放ってしまった突っ込みに、汐は薄い笑みを浮かべる。公龍はベッドまで進み、汐を横に退かして自分も腰を下ろす。


「何の用だよ。わざわざ苦情の文句垂れにきたんじゃねえだろ?」

「主治医が患者の容態を気にするのは当然だがね? 丸三日以上眠っていたんだ」

「アンタ、医者ってタマかよ。狂科学者マッドサイエンティストの間違いだろ」

「そんなに切望するなら今すぐ本領を見せようか?」

「由緒正しい商売道具を暗器みたいに扱うのやめろ」


 再び袖から執刀具メスをちらつかせた汐に、公龍は思わず距離を取る。汐は残念そうに荒れた唇を歪め、便所サンダルのままベッドの上に足を乗せた。


「もっと蛆虫みたいにへこんでるとばかり思っていたが、案外平気そうだね」

「そりゃどうも」


 どうやら執刀具メスをちらつかせる脅しは元気づけるためのジョークだったらしい。もはや笑いのセンスまでもが狂気に浸され過ぎていて意味が分からない。


「空元気でも十分だ。吐き出す威勢があるだけまし。人は本当に耐えられなくなったとき、何の前触れもなく折れるからね。脆くて嫌になる」

「清々したくらいだよ。これで鬱陶しい小言からも解放だ」

「清々した人間は鬱憤晴らしに暴れやしないさ」

「いちいち癇に障るな」

「性分だ。知ってるだろう?」


 汐は白衣のポケットから腕時計型端末コミュレットを取り出して公龍の膝に放る。傷だらけでやけに年季の入ったそれを公龍が見紛うはずもなかった。


「これ、あいつの……どうしてアンタが持ってる?」

「倒れていた君のすぐそばに落ちていたらしい。一足先に中身は確認させてもらったよ。事情もなんとなくだが察しがついている。清々するかの判断は、これを見てからでも遅くはないと思うがね」


 公龍は汐に言われるがまま腕時計型端末コミュレットの電源を起動し、中のデータを見ていく。アルビスが普段使っているらしいアプリケーションの他、〝鉄の腸The Iron Bowels〟と名付けられたいかにも怪しげなファイルがインストールされていた。


「これ……宅間喜市のファイルか」


 公龍はそう呟き、浮かび上がった立体映像ホログラムが映す凄惨な人体実験の記録映像に息を呑む。

 ファイルの中身は映像それだけではない。子細な研究報告書レポートや資料、計画書や契約書などがデータとして残されている。中にはごく一部であるが、〝F計画〟と呼称された一連の人体実験が《リンドウ・アークス》による医薬特区吸収後も引き継がれていたことを示す関係書類も見ることができた。


「何だよ、これ。《東都》が引っくり返るじゃねえか」


 言わずもがな、《東都》とは震災と感染症蔓延の暗黒期から人々を救った《リンドウ》を柱として構築された秩序だ。標榜される〝清潔・節制・誠意〟の理念を始めとして、医薬至上社会の全ては英雄としての《リンドウ》に支えられているのだ。

 だがこのデータは市民感情への裏切りそのものだ。明るみに出れば都市の復興を力強く推し進めてきた《リンドウ・アークス》は一瞬にして求心力を失いかねない。〝鉄の腸〟とは嫌味なほどに的確な皮肉だ。宅間ファイルは決して表に出てはならない《東都》の急所だったのだ。


「全くもってその通りだ。アーベント君はとんでもないものを残していったよ。もちろん、このデータのおかげで空木クロエの身体について、解明が進むことも確かだがね」


《リンドウ》が引き継いだ〝F計画〟の骨子には万能臓器Universal Gutsの開発が据えられている。計画書の概要を見る限り、〝鼓動し嘲笑する臓器モック・ノック・オーガン〟の正式名か何かだと考えて間違いない。

 ここに記される多くの命を代償に積み上げられた実験結果は、眠ったままのクロエを救う手立てになり得るだろう。

 それも間違いなくアルビスの意図の一つだ。

 だがそれだけではない。単にクロエの状態を案ずるだけにしては、データが示唆するものが余りに重すぎる。


「クソ……あのスカシ野郎、何考えてやがる」


 公龍は脳細胞の一つ一つを奮い立たせ、神経細胞ニューロンを焼き切るように思考を回転させる。地下迷路街にてこのデータを閲覧したアルビスが事務所の閉鎖とバディの解消を決めた、その真意を追い駆ける。

 このファイルの閲覧は《リンドウ・アークス》の罪を暴くこと、ひいては《東都》そのものを敵に回すことを意味している。もはや敵は賢政会と〝六華〟に留まらない。

 もちろん全てを見なかったことにして引き返すこともできるかもしれない。クロエの身体の件同様に全てを隠匿したまま、なんとかしてごく普通の生活に戻る希望も今ならある。

 公龍にそんな選択肢を提示しておきながら、だがアルビスはそうしなかった。

《リンドウ・アークス》が陰で行っていた所業に義憤を抱いたから? ――違う。アルビスは冷静で理屈っぽい堅物だ。《リンドウ・アークス》を敵に回すということがどういうことなのか分からないわけではないだろうし、どれだけ過去に悪徳を積んでいようとも《東都》の維持には《リンドウ・アークス》の尽力が必要であることくらい理解している。少なくとも義憤に駆られたくらいの大義では動かない。

 ならばきっとそこにはアルビスの、至極個人的な動機があるのだ。

 それが何かは分からない。だが全てを捨て去ってでも果たしたい目的が、このファイルの先に存在していた。

 もし澪が願ったように、アルビスの選択に意味と理由があるのならば、そしてそれが公龍の思い描く通りならば、公龍がアルビスを止めなければならない。いや、きっと公龍だけがアルビスを止めることができる。


「……あの馬鹿、死ぬつもりか」


 公龍が舌打った瞬間だった。

 爆発音が轟き、窓が軋む。何事かと外を見やれば、西の空のあちこちに曇天よりも遥かに黒い煙が立ち昇っている。

 汐が病室のテレビをつけ、チャンネルをニュースに回す。空から撮影されているらしいLIVE映像は、想像を絶するほどに様変わりした都市の狂乱を映し出していた。


『……こちら一五区上空です! 何が、一体何が起きているのでしょう……! 突如として現れた多数の人型の生命体が、市民を、街を破壊しています!』


 鬼気迫るレポーターの声に合わせ、映像が地上へとズームする。映し出されるのは辛うじて人のかたちだと判別できる青灰色の異形。全身の筋肉が異様に隆起し、ぶよぶよと肥大した身体から噴き出す血を霧のようにまといながら街を練り歩く。手足の先は硬化しているらしく、一歩踏み込むたび、あるいは腕を振るうたびにアスファルトも、自動車も、ビルも、逃げ惑う人々も、容易く砕かれ、切り裂かれていく。

 醜悪なゾンビ映画のような光景だった。とは言え街を闊歩する異形たちはゾンビなどではなく、遺伝子変異を引き起こした過剰摂取者アディクトたちである。

 駆けつけた解薬士らしき男が過剰摂取者アディクトの死角へと回り込み、脊髄付近に回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターを突き刺す。異形は歪な雄叫びとともに腕を振り回す。回避の遅れた解薬士の半身が豆腐のように消し飛んで絶命。あまりにショッキングな画に、映像が花畑のテロップへと差し替えられる。


「どうやら一五区だけじゃないみたいだね。四、六、八、一一、一三、一五、一六、一八、二一……確認できるだけでも、既に九つのエリアで同様の騒ぎが起きている。マズいね。都市機能が既に麻痺しかけている。これじゃあ震災の暗黒期なみに酷い」


 ウェブニュースやソーシャルネットに散らばる情報を流し読みした汐が溜息を吐くように告げる。窓の外ではもう一度大きな爆発が起き、黒煙が灰色の空へと昇っていく。

 何が起きているかは明白だった。最悪のタイミングで幕を上げたのだ。公龍たちは間に合わなかった。


「〝祝祭カーニバル〟が始まったんだ」


   †


 灰色の曇天が都市に覆いかぶさっている。《東都》の象徴たるノアツリーも、見上げる先の頂上を望むことはできない。

 漆黒のスーツに身を包み、長い銀髪を後ろで束ねたアルビスは、自らの決意を確かめるよう小さく息を吐き、それから視線を前へと戻す。

 かつての乾門は開け放たれ、中からは《リンドウ・アークス》の社紋――竜胆の華に絡みつく一匹の龍の紋章――の刻まれた装甲車両が慌ただしく飛び出す。装甲車両は不安を煽るようなアラート音を鳴らしながら、都市のあちこちへと走り去っていく。

 耳を澄ましても風の音が聞こえるだけ。悲鳴や怨嗟、破壊音はこの一区では聞こえない。

 だが、そうであっても既に賽は投げられている。

 結果はどうあれ、もう間もなく決着を迎える。アルビスの長かった旅路も、今日という日に一つの終わりを迎えるのだ。

 その場に立ち尽くしていると、やがて数台のバンと一台のリムジンが現れ、アルビスを扇状に囲むように停車する。どれも自動運転システムを搭載していない改造車。窓はフロントガラス以外がスモークで覆われている。

 バンからは銃火器を担ぐ男たちが、リムジンの後部座席からは艶やかな長い黒髪と陶磁のように白い肌、そして唇に差した紅が印象的な女が降りてくる。男たちの獣じみた視線が取り囲むなか、女は悠然とした歩みでアルビスの前に立つ。


「アルビス・アーベントですね?」


 アルビスは肯定も否定もしなかった。感情が抜け落ちた薄青の瞳に、女をただ映す。

 深い黒の袴姿。着物の上では黄金の虎が吼え、深紅の椿が咲き誇る。この女が湛える気品と強かさをそのまま柄にしたような召し物だった。

 政岡白雪まさおかしらゆき。賢政会の二代目にして〝六華〟の雇用主。そして何と言っても《東都》最大の危機となりつつある〝祝祭〟の首謀者である。


「カームから話は聞いています。なんと数奇な巡り合わせでしょう。もちろん、これまでのことを水に流せとは申しません。ただ志を同じくする者同士、踏み出す方角くらいは揃えて参りましょう」

「そうだな。私も、貴様らと馴れ合うつもりはない」


 アルビスの不遜な物言いに、周囲の男たちから怒号が飛ぶ。中には手にする小銃を構えて威嚇に走るものもいたが、白雪が素早く掲げた手に制されてぴたりと静まり返る。


「此の者は客人です。無礼は許しません」


 白雪が穏やかな口調で言ったが、滲む凄みは大の男たちを圧倒する。

〝六華〟たちの信頼の厚さからも想像できていたことだが、白雪は単なる血筋で二代目を継いだわけではない。一八歳で《東都》の一大極道をまとめ上げるそのカリスマに、アルビスは誇張なく末恐ろしさを感じた。

 張り詰める空気のなか、再び乾門が開く。しかし出てくるのは第四部門フォースパワーの車両ではなく、黒髪を短く刈り上げた糸目の男。

 アルビスは警戒心を強めるが、白雪はその真逆。やがて糸目の男の姿は近づくたびに歪み、あっという間にアルビスがよく知る黒人の姿へと転じていった。

《リンドウ・アークス》の敷地内から当たり前のように現れたターン=カームが白雪の前で恭しく膝をつく。


「お嬢、準備が整いました。既に半蔵門と大手門から別動隊が侵攻を始めています」

「ご苦労様でした。引き続きよろしく御願いします」


 白雪は傅くターンを労うと、優雅な所作で反転し、ヤクザ連中に向き直る。


「もはや多くを語る言葉はありません。ただ厳粛に、ただ派手に、楽園の終わりを始めましょう」


 白雪の激励に、男たちが爆発じみた雄叫びを上げる。我先にと小銃を抱えた男たちが走り出し、警備の手薄になった乾門を突破していく。


「さあ、私たちも参りましょう。いざ、偽りだらけの楽園の玉座へ」


 白雪が悠然と歩を進める。ターンが白雪のすぐ後ろに続き、アルビスもまた二人の背を追って歩き出す。

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