10/The bloody carnival《1》

「うああああああああああぁぁ……ぅ、あ、へぶっ」


 過剰摂取者アディクトに腕を捥がれ、絶叫していた解薬士が突如として呻く。助けを求めるようにこちらを振り返り、肩から先のなくなった腕を懸命に伸ばしている。目と鼻と口からどろりと糸を引くような血が流れた。

 次の瞬間、腕の断面が膨張。ミミズのような組織が無数に絡まり合って腕を形成。見た目に分かるほど激しく脈動する心臓が筋肉を隆起させ、体表は熱を帯びた赤から固まった血の黒へ、そして不気味な青灰色へと変色した。


「ガアアアアアアアアアアッ!」


 轟く咆哮。そこにはさっきまで共に戦い、負った傷に苦しんでいた同胞の姿はない。


「一体、何がどないなってるんやっ!」


 二条丸肆矢にじょうまるよつやは事態が全く呑み込めずに狼狽える。

 いや何が起きたかだけなら辛うじて分かる。バディを殺された解薬士が怒りに任せて過剰摂取者アディクトへと突っ込み、そして自らも過剰摂取者アディクトへと堕ちたのだ。

 だが堕ちた解薬士は特殊調合薬を多用したわけでもないし、直接使用という無茶をしたわけでもない。ただ正攻法で戦い、そして突然に過剰摂取者アディクトに堕ちたのだ。

 三年に満たないキャリアは決して長いとは言えないだろう。だが、それでも今目の前で起きたそれが何らかの異常な事態であることは容易に理解できた。


「肆矢、落ち着くのです!」


 角刈りの偉丈夫――バディの漁火厳鉄いさりびがんてつが両腕に旋棍トンファーを構え直して叫ぶ。

 厳鉄は肆矢よりもキャリアの長いベテランだ。だがその厳鉄でさえ、この事態に理解は及んでいない。いや、おそらく現場に駆り立てられた解薬士の誰一人として、状況を把握などできていないのだろう。


「クソやっ! ワシは今日非番やったんやぞ!」


 叫ばなければやってられない。肆矢は根元の黒くなった金髪を頭の後ろで縛り上げ、回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターを抜く。打ち込むのは、五感の感度を上昇させる山吹色ブラッドオレンジと運動神経の鋭敏化による身体感覚の向上を図る茉莉色ジャスミンイエローのアンプル。回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターを収めて、身の丈ほども柄の長さがある槌を肩に担ぐ。


「まず無暗に攻撃を受けないこと。奥の一体を警戒しつつ、手前から処分しますよ!」

「ラジャーや、厳さん! 気張るで!」


 ここを突破されるわけにはいかない。動員された警察が市民の避難誘導に動いているが、それも肆矢たちがここで過剰摂取者アディクトを食い止めているからこそ。もし抜かれれば、何百人という犠牲者が出ることになる。

 厳鉄と肆矢は同時に地面を蹴る。手前の過剰摂取者アディクトの動きを薙ぎ払う打撃で牽制。一瞬の隙を突いて厳鉄が間合いを詰め、鈍色ガンメタルのアンプルで強化した肉体から旋棍トンファーによる打撃を放つ。

 腰を撃ち抜かれた過剰摂取者アディクトの体躯が吹き飛ぶ。しかし肆矢の感知圏内にはもう一体の過剰摂取者アディクトが踏み込んできている。


「厳さん! 来とるで!」


 振り下ろされる打撃を掲げた旋棍トンファーで受け止める。今度は厳鉄の体躯が紙切れのように吹き飛び、乗り捨てられていた自動車に激突する。

 肆矢は振り被った槌を振り下ろす。過剰摂取者アディクトは本能的なバックステップで回避。アスファルトを叩き割った槌を引き戻しながら、肆矢は倒れる厳鉄の元へと移動する。


「大丈夫ですか? やっぱもう年とちゃいます?」

「五月蠅いですよ、肆矢。僕はまだまだ現役です。この程度、かすり傷です」


 厳鉄の両腕には防ぎきれなかった深い裂傷が刻まれている。強ステロイドである鈍色ガンメタルのアンプル分、出血は酷いが問題はなさそうだ。

 視線の先では吹き飛ばした過剰摂取者アディクトも立ち上がり、肥大化した身体を引き摺るように迫ってきている。筋肉量が増えているだけあって膂力はすさまじいが動きは速くない。理性を失った過剰摂取者アディクトはいくら集まろうと連携がないことも付け入る隙だ。


「硬化した腕は厄介ですね」

「ワシが牽制する。厳さんは思いっきりぶっ放したらええんや」


 肆矢たちは再び地面を蹴り、過剰摂取者アディクトとの間合いを詰める。過剰摂取者アディクトが振るう腕を肆矢が槌の打撃で迎撃。ガードが空いた脇腹に厳鉄が旋棍トンファーを叩き込む。普通ならば背骨が砕け散るはずの一撃。しかし分厚い筋肉が壁になり、衝撃が十全に伝わらない。


「せいやぁっ!」


 厳鉄が立て続けに二撃目を見舞う。今度こそ大きく揺らいだ過剰摂取者アディクトの顎に肆矢が振り抜いた槌の一撃を浴びせる。顎が砕け、意識の飛んだ過剰摂取者アディクトが膝から沈む。手頃な高さまで下りてきた顔面に厳鉄がトドメの旋棍トンファーを叩き込む。眉間から骨が砕け、衝撃で爆ぜた後頭部から脳漿が散った。


「どんなもんじゃ、コラ――――ぶへっ」


 雄叫ぶも束の間、背を打ち据える強烈な衝撃に肆矢が吹き飛ぶ。地面を抉って転がり、ビルのガラス扉を突き破って中へ。世界が目まぐるしく回転し、肆矢の三半規管を蹂躙。起き上がろうとした肆矢は臓腑から込み上げる大量の血を吐く。自らが吐いた血に顔面から突っ伏し、肆矢の意識は闇に落ちていく。



 肆矢はハッと我に返り、顔を上げる。激痛が全身を苛む。

 一体どれくらいの時間、意識が飛んでいた? 体感では一瞬。いや事実そう長い時間ではないはずだ。


「だぁ……畜生、がっ!」


 血とともに罵声を吐き、無理矢理に呼吸を取り戻す。殴られるか蹴られるかした衝撃でどこかにいった槌を探す余裕はなかった。肆矢は回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターを抜き、まだ覚束ない足取りでビルを飛び出す。

 荒れ果てた道路の真ん中で、厳鉄と過剰摂取者アディクトが対峙していた。厳鉄は返り血か流した血か、全身が真っ赤に染まっていて、左腕は肘が逆方向に曲がって折れている。もちろん過剰摂取者アディクトも無傷なはずはなく、左膝が砕けているせいで地面に手を突き、頭は半分吹き飛んでいる。

 つまり既に勝負は決していた。

 過剰摂取者アディクトが地面に沈む。肆矢は身体を引き摺りながら厳鉄へと駆け寄り、倒れ込む身体を受け止めた。


「厳さん、しっかり!」

「おぉ、肆矢……ちとしくじってしまいましたよ」

「何言うとるんや。まだピンピンしとるやないか」


 傷は深いが致命傷には程遠い。肆矢は厳鉄のベルトから即席の回復薬である鉄灰色アイアングレーのアンプルを抜き、肩口の医薬機孔メディホールへと回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターを差し込む。しかし厳鉄は引き金を引く前に肆矢の手を握り、首を横に振った。


「血を浴び過ぎたようです。僕はもう手遅れです。過剰摂取者アディクトに堕ちる前に、トドメを刺してもらえますか?」

「は? 何言うとんねん。過剰摂取者アディクトの血がなんぼのもんじゃ。厳さん、アンタはまだ大丈夫や。この程度の傷で死ぬようなタマちゃうやろうが」


 肆矢は捲し立てるように言う。

 急激に様変わりした現実に、何一つとして理解が追いついていない。突如として《東都》に牙を剥いた過剰摂取者アディクトにも、死を覚悟している相棒にも、焦燥を吐き出す自分にも、まるで現実味が感じられない。


「ほんま、何言うとんねん。そんなおもろない冗談、なしやで……」


 肆矢の悲痛な呟きをよそに、厳鉄の表情が苦悶に歪む。厳鉄が残る力で肆矢を押しのけるや、その身体が変貌を始めた。


「う、あ、があああああああああああああっ!」


 咆哮が轟き、肉体が隆起。傷口は強引に塞がれ、皮膚は腐っていくかのように青灰色に変色。厳鉄は瞬く間に過剰摂取者アディクトへと堕ちていく。肆矢は地面に尻もちを突いたまま、その様を眺めていることしかできなかった。


「何や、何なんや……一体何が起きとるんや、畜生っ!」


 現実を拒絶する叫びも虚しく、が上げる雄叫びに掻き消される。さらにその雄叫びに呼ばれるかのように、建物の陰から別の過剰摂取者アディクトが姿を現す。

 もう立ち上がる気力も湧かなかった。武器を失い、相棒まで失ったこの状況を、単身で切り抜けるだけの力が自分にないことは、肆矢自身がよく分かっていた。


「ハハ……終わりや。畜生、ワシゃ、こんなとこで死ぬんか」


 死を覚悟し、目を閉じる。しかしいつまで待っても、過剰摂取者アディクトの攻撃が降りかかることはなかった。

 その代わり、苛立ちを隠そうともしない荒々しい声が掛けられる。


「大丈夫か?」


 肆矢が目を空けると、迫ってきていたはずの過剰摂取者アディクト二体の死体が地面に転がっていた。厳鉄だったほうの死体を足蹴にする、人影が見えた。

 毛先が緑色の金髪にヘアバンドを始めとするセンスのない服装。何より手に握る血の刃――赤系統の特殊調合薬カクテルへの適性がその正体を物語っている。


「……あんた、九重公龍か」

「あ? 知ってんのか。……まあいいや。この先の東都音楽ホールに向かう通りんとこで解薬士が集まってバリケード作ってる。そこまで退いて体勢立て直せ」

「あ、あんたはどないするんや?」

「俺のことはほっとけ。てかてめえ、俺を知ってんだろ? ならこの程度どうってことねえよ」


 九重公龍は肆矢に向けてふてぶてしく言い放つ。

 当然だ。むしろ《東都》で解薬士をやっていて九重公龍とアルビス・アーベントの名前を知らないほうがどうかしている。その戦果や武勇は数知れないが、直近で言えばあの粟国桜華事件を収集し、新羽田エボラ事件の首謀者を撃破した二人組なのだ。噂や実績だけを鵜呑みにするならば、抱くのは畏怖の念だった。


「ハハ、何やこれ……ほんま現実感湧かんわ」

「いいからさっさと行け。ンなとこでぼーっとしてんな」


 呆然としていた肆矢は公龍に引っ張り起こされ、急かされるように肩を押される。


「ただでさえこんな状況で戦力が惜しいんだ。勝手に諦めて死んでんじゃねえぞ」


 よろめくように歩き出した肆矢に告げると、公龍は単身次の獲物を探して移動を再開する。

 肆矢は颶風のように去っていくその背中を呆然と見送って、ようやく助けられた礼を言い忘れたことに気がつくのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る