09/Not yet《1》

 目を開けた公龍がまず脳裏に思い浮かべたのは、憎たらしい相棒の悲痛な後ろ姿だった。


「アルビ――――ッ、がはっ」


 跳ねるように起き上がろうとして、全身に走る激痛に公龍は呻く。ベッドの上に落ちた身体は自分のものではないみたいに重い。それなのに胸のあたりだけはくり抜かれたみたいに不自然に軽い。

 この感覚を公龍はよく知っていた。

 一度目は研究者時代。過剰摂取者アディクトの薬物塗れの血を浴びた桜華のお腹のなかにいた子供が死んだとき。

 二度目はほんの一月前。道を踏み外しかけた桜華と共に歩むために手を取った矢先、凶弾によってその命と未来を摘み取られたとき。

 もう二度と味わうまいと、固く誓ったはずの感情だった。


「クソ……あの馬鹿野郎がッ」


 公龍は健全さをアピールしてくる淡いグリーンの天井にそう吐き捨てる。だが公龍のこの喪失感も、吐き捨てた声も、そこに渦巻く感情も、聞き届けるべき相棒はもういない。分かってはいたが、迸る感情を押し留めることのできるものはどこにもない。


「ァァァァアアアアルビスゥゥウウウウウウウッ!」


 激痛を捻じ伏せ、公龍は叫ぶ。腕に繋がれる点滴を引き千切り、ガートル台を圧し折る。傷が開くのも、繋いだ骨がずれるのも厭わず、心拍数モニターへと拳を叩き込む。吹き飛んだそれは壁に当たって砕け散り、中身を露出させる。間もなく騒ぎを聞きつけた医師と看護師と警備員が扉から雪崩れ込んできた。


「触るんじゃねえッ!」


 自分よりも上背のある警備員の腕を取って投げ飛ばす。看護師は公龍の鬼の剣幕に尻もちを突き、医師は首から下げていた聴診器を引っ張られて壁に叩きつけられる。公龍は蹴りを見舞い、淡いグリーンの壁に大きな穴を穿つ。

 全身を引き摺りながら病室を飛び出していく。行く宛てはなかった。もう帰る場所もなかった。事務所は消し飛び、アルビスは去った。公龍はまたもや大切なものをまんまと失ったのだ。

 歯を食いしばっていないと嗚咽が漏れそうだった。目を見開いていないと涙が込み上げてきそうだった。

 公龍は自分自身を呪った。大切なものを何一つとして繋ぎ止められない弱さと、喪失感に圧し潰されそうになる脆さを。

 やがて公龍は特別病棟に辿り着く。意図して向かったわけではない。だが今の公龍に縋れるものがあるとすればそれはここをおいて他にはなかった。

 分厚い強化ガラスに隔てられた室内を覗き込む。SFじみた無数の機材に囲まれ、身体のありとあらゆる情報を数字へと変換されながら、ベッドの上ではクロエが静かに眠っている。

 事務所の襲撃で爆発に見舞われたクロエは、運び込まれて以降ずっとこの調子だった。外傷は皆無、それどころかいたって健康体であるにも関わらず目覚める兆候がない。


「なあ、クロエ。事務所、解散になっちまった……」


 吐き出した声は自分でも驚くほどに、ひどく弱々しかった。震えた掠れ声があまりに情けなくて、公龍は思わず自嘲するような笑みを溢す。

 たぶん心のどこかで、この関係は――あの寂れた狭い事務所での生活が、ずっと続くものだと思っていたのだ。

 だがそれは甘い妄想だった。三人の短くも濃い日々が刻まれた事務所は吹き飛び、絶対に守ると誓ったクロエは原因の分からない眠りについたまま。アルビスさえも一方的にバディの解消を告げて去っていった。

 幾度となく喪失を繰り返し、それでも何とか生きてきた公龍の手に残っていた最後のよりどころは、いとも簡単に砕け散ったのだ。


「俺はよ、これからどうしたらいいんだ……?」


 力のない言葉はクロエに届くことはなく、ガラスにあたって散っていく。もちろん届かない問いに答えなどなく、進むべき道標など見えない。行き場のない思いだけが、無様に宙にぶら下がっている。伸ばした手はガラスにべたべたと指紋を塗りたくるだけで、眠り続けるクロエの横顔がひどく遠く感じられた。


「どうしてだッ! 何なんだよッ!」


 公龍は強化ガラスを殴りつける。体重の乗っていない、駄々をこねる子供のようなパンチ。拳が痛み、骨が軋む。赤系統の特殊調合薬を多用した副作用として脆くなっている血管は破れ、包帯の隙間から血が噴き出す。


「クソッ! ふざけんなッ! ふざけんなッ! ふざけんなァッ!」


 雄叫びが静まり返る廊下にこだまする。公龍は握った拳を振るい続ける。不甲斐ない自分に罰を与えるように、立ちはだかる現実を押しのけるように、何度も何度もガラスを殴る。

 何一つとして守れない。何一つとして掴み取れない。そんな力にどんな意味があるというのだ。

 拳をいっそう固く握り、大きく振り被る。無力で無様な自分など、このまま砕け散ってしまえばいい。公龍は自棄になり、喉を裂いて叫ぶ。


「うおおおおおおおおおおおっ!」

「ちょっと、九重さん! 何してるんですか!」


 声がして、一瞬だけ気が逸れる。ちらと見やった視線の先には車椅子に座る飛鳥澪あすかみおの姿があった。

 澪は好機と見るや車椅子を走らせ、急停止の衝撃を使って身を投げ出す。既に立っているのもやっとだった公龍は澪に飛びかかられるようなかたちで押し倒される。鈍い衝撃音が響き、背から伝わるリノリウムの冷たさが荒れ狂っていた公龍の心を宥めていく。


「…………すいません、つい」


 馬乗りになったまま澪が言う。公龍は自分の情けなさに嫌気が差して、薄く開けた口から乾いた笑みを溢した。


「怪我とかありませんか……って怪我だらけですよね」


 言う通りだった。公龍も澪もクロエも、そしてアルビスも誰もがボロボロに傷ついていた。

 そうまでして戦って、戦い続けてきて、一体何が残ったというのだろう。

 押し寄せる虚しさに唇を引き結ぶ。そのせいで「クロエさんが集中治療室ここにいるって聞いて」という澪の言葉にはどんな反応も示せなかった。


「あ、ごめんなさい。退きますね。重いですよね」


 澪は公龍の上から下り、手の力で床を這って車椅子へと戻っていく。

 新羽田エボラ事件にて、澪はアルビスとともに現場へ突入した結果、ジェリー=ハニーの触手に侵されて致命朝を追っていた。現場への復帰はまだ遠いだろうが、短期間でここまで回復してみせた澪の体力と医学の力は凄まじいものがある。

 公龍は手伝おうかと手を伸ばすが、澪は「これもリハビリです」と断って自力で車椅子に座り直した。


「知ってます? 今の車椅子ってすごいんですよ。この右手の操作盤コンソールで動かすんですけど、指だけで自由自在なんです。おまけに地形検知のカメラがついてるので、階段の上り下りも楽々できるんですよ。あんまり楽してると身体が鈍っちゃいそうで心配なんですけど……」


 気遣うような妙に明るい調子で話していた澪が言葉を切る。刑事の勘、と言わずとも公龍の様子が明らかにおかしいのは明白だったのだろう。澪は病院着の襟を整えながら、公龍に向けて問うた。


「……何かあったんですか?」


 公龍は答えるかどうか躊躇い、真っ直ぐに向けられる澪の眼差しに折れて起きたこと――事務所が吹き飛び、アルビスとのバディが解消されるまでの経緯を簡単に話した。

 説明を終えると、澪はしばらく固まっていたが、やがて忘れていた呼吸を思い出したかのようにぽつりと呟いた。


「アーベントさんと、そんなことが……」


 すぐには受け止めきれないのだろう。澪とて、公龍たちとともに戦ってきた仲間だ。信頼していた二人の決別は少なからず衝撃的だろう。


「九重さん、その……大丈夫ですか?」

「さあな」


 公龍は壁に寄り掛かって床に座りながら、吐き捨てるように言う。澪に当たったところで意味はない。クロエが目覚めるわけでも、アルビスが戻ってくるわけでもない。だが胸の奥のあたりで疼く割り切れない感情は、公龍の意志とは関係なく言葉や態度に滲み出た。

 別に公龍とアルビスの間には特別に通じ合うような絆があるわけではない。思い返してみても、死ぬほど馬が合わず、口を開けば小言と罵り合いの連続だった。仲良く同じ方向を見ていたことのほうが圧倒的に少なく、反目し合うなかでも何とか背中合わせでやってきたというのが実際のところだろう。

 いつ解れて千切れてもおかしくなかった関係が、ただ終わっただけ。

 そう言い聞かせようと何度も思って、そのたびに自分がアルビスに抱いていた信頼を思い知らされる。その繰り返しだった。

 鬱陶しくて面倒くさくて腹の立つ相棒は、いつの間にか掛け替えのない仲間になっていたのだ。


「何か、事情とか目的があったんではないでしょうか」


 そう訊ねる澪の調子は疑問というよりも懇願に近いものがあった。あるいはそうでなければならないと自分と公龍に言い聞かせるようでもあった。


「アーベントさんが何の理由もなく、バディを解消するとは思えません。きっと何か事情があったはずです」

「だとしても、あのスカシ野郎は訳も話さず行っちまった。話せねえ訳なのか、話す必要のねえことなのかは知らねえけど。そもそも飲んだくれてた俺を拾ったのはあいつだ。あいつがもう終わりって言うなら、それまでってことなんだ」

「そんなことありませんよ。アーベントさんはどんな苦境に立たされても、どれほどピンチに陥っても、九重さんのことを信じていました。貴方が〝脳男ブレイン〟を追って独断専行したときも、〝解薬士狩り〟にやられて眠り続けていたときも、ずっとです。そんなアーベントさんが、九重さんをそう簡単に捨てるはずがない」

「やめろ。俺とあいつはそんなんじゃねえよ」

「やめません。九重さんだって、ずっと信じてきたはずです。だからこそ強大な敵に負けることなく多くの人を救ってこれた。だからこそ、貴方たち二人は最強の解薬士だと言われてきた。違いますか?」

「やめろッ!」


 公龍の怒声が廊下に反響する。澪はその凄みに圧倒され、捲し立てるように言葉を並べていた唇を空転させた。


「……悪い」

「……いえ、私のほうこそ、出過ぎたことを言い過ぎました」


 沈黙が下りた。圧し潰されるような息苦しい沈黙に、公龍が選んだのはこの場から逃げ出すことだった。


「いいんだ。ありがとよ。それと、見舞いも。声、掛けてやってくれ」


 公龍は澪にそれだけ言って、その場を後にする。もう《東都》のどこにも行く宛てなどないというのに。

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