06/Underground labyrinth《1》

「アンリ・ノワール……」


 アルビスが名を呼ぶと、男は口元を嬉しそうに歪ませる。そして右手の甲に刻まれた十字架を見せるように顎を撫でた。


「その名前で呼ばれるのは本当に久しぶりだ。アーベント。懐かしくて涙が出そうだ」

「私が傭兵を辞めたあと、風の噂で死んだと聞いていたんだがな」

「その通りだよ。俺は確かに一度死んだ。酷い死に方だった。あれは確か、東アフリカでの戦争だった。米国経由で臨時政府軍に雇われた俺はクーデターを起こした軍部に捉えられた。傭兵なんて何の情報も持っちゃいないのに執拗な拷問を受けた。終わらせ方の分からない拷問ってのが、一体どれだけの地獄か想像できるかい? その上最後は虫攻めだ。最低だったよ。全身を虫が這い、皮膚も肉も骨も食い破られていくあの感覚は、言葉にはし難い」


 アンリは大袈裟に身震いをする。もしかすると拷問の古傷でもあるのだろう。小刻みに震える左手で右側の胸を執拗に撫でていた。

 とは言え、アンリの立ち振る舞いに付け入るような隙はない。彼はかつてと同様の面影で目の前に立っているが、昔とは比にならないほどに強くなっていることをアルビスも先の戦いで理解させられている。それは単に改造人間としての奇怪な能力の話ではなく、純粋な兵士としての戦闘力が桁違いに上がっているという意味だ。

 一方のアルビスは手足をしっかりと拘束されている上に、ここがどこなのか、そもそも付近にいるのはアンリ一人なのかも分からない状況だ。この状態から劣勢を覆すのは容易ではない。

 まずは情報が必要だった。どんな些細なことでも構わない。反撃と脱出の足掛かりを見つけなければならない。


「貴様を捨てたことに対する復讐のつもりか?」


 アルビスは慎重に言葉を選びつつ探りを入れたつもりだったが、その意に反してアンリは高らかに笑い声を響かせた。


「はっはっはっ! 復讐? どうして俺が君に復讐をする? まあ確かに、拷問されていた最中は君を恨んだこともあったけれどね。でもそれはお門違いってやつだよ。あの時の俺はただ単に弱かった。弱かったから君に捨てられ、弱かったから敵に掴まり拷問を受けた。被る不利益は全て当人の能力不足。それだけのことだ。それに言っただろう? 俺の目的は君と話をすることだよ。それも二人きりでね」

「こんな黴臭い迷路街で思い出話か。ムードもなにもないな」

「かまをかけたって無駄だよ、アーベント。どれだけ巧妙に言葉を巡らそうと、君は僕が与えようと思う以上の情報を僕から引き出すことはできない。もう昔とは違うんだ」


 アンリは軽く地面を蹴り、上半分が崩れた柱の上に腰かける。顎を撫でながら、まるで籠に捉えたネズミを愛でるような眼差しでアルビスを見下ろす。

「俺は君と話をすると言った。でもそれは過去を懐かしむためじゃない。アンリ・ノワールはアフリカで虫に食われて惨めに死んだ。そして外法の術によって生まれ変わった。ターン=カームとして。だからこれから君とするのは現在と未来の話だ」


「未来? ヤクザの飼い犬風情が未来を語るのか?」

「アーベント。君はもう少し立場を弁えた方がいい。その気になれば俺はいつでも君を殺せる。無論そんなことをするつもりはないけどね。それにこれからするの話は君にとっても悪いことじゃないはずだ」


 アンリは相変わらず軟弱そうな笑みを浮かべている。だが言葉の節々には有無を言わせぬ凄みとそれ以上の狂気が滲んでいた。


「君に捨てられてからね、俺は君のことを徹底的に調べ上げた。いつどこで誰から生まれ、どのように育ち、誰の元で戦う術を学び、どういう経緯で傭兵になったのか。どの戦場でどんな戦果を残したか。好きな食べ物。寝た女の数と名前。一日の平均睡眠時間に身長体重体脂肪率の履歴。この世界に点在しているアルビス・アーベントに関するありとあらゆる情報を収集したんだ」

「貴様にそういう趣味があったとはな」

「言っただろう? アルビス・アーベントは俺の憧れであり目標だって。その感情は君に捨てられてからも、いや捨てられて離れたからこそいっそう、俺のなかで強くなっていったんだよ」


 アルビスは思わず身震いをする。共に戦場を渡っているときから仄かに感じてはいた違和感が、時を経て明確な狂気となってアンリの表情を歪めている。


「だから俺は知っている。なぜ君が唐突に俺を捨て、傭兵を辞めたのか。いいや、こう言ったほうが分かりやすいな。君が何を目的として。君の母親と、そして父親のことまで全てね」

「ふん。そんなものは少し熱心に調べれば誰にでも分かる」

「強がる君も新鮮でいいね」


 アンリは脚を組み換える。それからポケットから煙草を取り出すと弾いた指で火を点ける。おそらくは親指と中指の腹にマッチの頭薬と横薬同様に変質させたのだろう。アンリは一息で煙草の半分を灰に変えるほど深く息を吸い、それから大量の紫煙を吐き出した。


「端的に言おう、アーベント。君と我々の目的は同じだ。俺と君は再び手を取り合える」

「戯言だな」

「そうやって突き放せるのも今だけだ」


 アンリは言って短くなった煙草を指で弾く。俺の目の前に落ちた煙草は地面の水溜まりに落ち、火は微かな音を立てて消えた。アンリは空になった右手で腕時計型端末コミュレットを操作。どうやら椅子の下に用意してあったらしい立体映像投影機ホロプロジェクターが起動し、アルビスの前に巨大なホロモニターを映し出した。青白い光の不愉快な眩しさにアルビスは目を細める。


「何のつもりだ?」

「そう睨まないでくれよ。あれほど欲しがっていたものじゃないか。それを見せてやろうっていう俺の心遣いだよ。どれほど言葉を重ねるよりも、見せたほうが早いだろう?」


 アルビスは微妙に背後の廃墟が透けて見える、解像度の荒いホロモニターを一瞥し、それからアンリを見上げた。


宅間喜市たくまきいちのファイルか」

「さすが察しがいいね、アーベント。これが望んでいた宅間喜市たくまきいちのファイルだよ。とは言え、生のデータは巧妙に暗号化されていた。意味不明な文字と記号の羅列だ。だがそれを解析するとこうなる」


 アンリが演劇じみた動作で指を鳴らす。乾いた音が響くやホロモニターに映像が流れ出す。同時にいくつかのウインドウが浮上ポップし、何かの書面と思わしき画像を複数映し出した。

 映像は飽きもせず実験の撮影記録だった。

 画面の隅でカウントされる日付は今からおよそ六年前――時期としては宅間が関与していた医薬特区が《リンドウ・アークス》に吸収される直前の過渡期にあたる。

 モニター中央に移るのは一人の女。目隠しとボールギャグが嵌められた上、黒い拘束帯で身体中を背後の筐体に拘束されている。その周囲には別の人間を閉じ込めた檻がいくつも並んでいる。子供から老人、男女を問わず檻に入れられている彼らは皆虚ろな表情で何もない場所をぼんやりと見つめている。

 異様な光景はそれだけではなかった。


「四肢がない」


 アルビスの呟き通り、女には両腕の肘から先、両脚の膝から先がなかった。喪失は先天的なものではなく、怪我などによるものであろうことが四肢の断面から伺えた。無論そこには切り落とされた可能性までが含まれた。

 間もなくモニターのなかにロボットアームが現れる。女は音に怯えて身体を強張らせるが抵抗できる余地はない。左右からロボットアームの先端に取り付けられた注射器が女の欠損した四肢に挿入された。

 女の身体が小刻みに痙攣する。ギャグボールを嵌められた口の端から唾液が溢れ、女が苦しそうに身を捩る。間もなく女の欠損した四肢の断面に無数の腫瘍が生まれたかと思いきや、それらは瞬く間に破裂し、失われたはずの女の骨肉を再生させていく。

 目を見張ったのは檻のなかにいた人たちの変化だった。突如として攻撃性を増し、何かを叫びながら檻に体当たりを始める。あるいは自らの髪や身体を掻き毟る奇行へと走る。そして人々は例外なく激しく暴れ回ったあと、全身から血を噴き出して次々と絶命していく。


「もう気づいているとは思うが、これは医薬特区での実験映像だ」

「こんなものは実験ではない。虐殺だ」


 アルビスは鋭い声でアンリの言葉に応えながら、薄青の瞳でモニターを睨みつける。

 映像のなかでは尚も女が身を捩っている。再生は途中で止まり、骨なのか筋肉なのかも分からない赤くぬらぬらとした物体が四肢の断面から垂れ下がる。目隠しの下から赤い涙が流れた。続いて鼻や耳などからも出血し、女の全身に爛れたような発疹が浮かぶ。間もなく女はぴくりとも動かなくなる。しばらく女の全身から血が流れ落ちるだけの映像が流れ、やがて防毒装備を整えた人間たちが実験の経過を確認しにモニター上に現れて血液のサンプルなどを採取していく。

 醜悪なB級映画のような映像は、だが作り物と呼ぶには生々しく悍ましいものだった。


「医薬特区は表向き《リンドウ・アークス》の市場独占を防ぐために政府が講じた措置だとされているね。だがこの構想の本質はそこではない。実験の法規制緩和にこそ、その本質がある」

「政府公認の人体実験場か」

「そういうことになるだろうな」


 アルビスはアンリの言葉に耳を傾けつつ、メインモニターの周囲に浮かぶ画像データに目を通していく。それらは被験者たちと交わされた実験に関する契約書であり、あるいは成果をまとめた研究レポート、医薬特区に参加した企業や政府など関係者たちの一覧表。そこには宅間喜市の名前はもちろん、つい知ったばかりの最重要人物の名も見て取れた。


「レナート・ウルノフ」

「やはり知っているか。竜藤の次男から得た情報はどうやらそれらしいな」


 レナート・ウルノフの当時の肩書は政府付きの特別科学顧問となっている。泉水の情報が正しいとすれば、おそらくはウルノフは医薬特区に関与し、それが《リンドウ》によって吸収された際に政府から《リンドウ》へと後ろ盾を挿げ替えたのだろう。

 だがアルビスの注意はウルノフの名前そのものよりも、奴や宅間を含む政府関係者が主導したと思われる研究計画自体にあった。


「……F計画とは何だ?」


 アルビスが言うと、その言葉を待っていたとでも言いたげに、アンリは満足気に頷いた。


「それこそがこの都市の罪だ、アーベント。F計画とは次世代の人間――いや、を作り出すための醜悪な計画のことだよ」


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