06/Underground labyrinth《2》

 手首に走る振動が、公龍を深い眠りから引き上げる。呼び起こされていく感覚でまず公龍の脳を揺さぶったのは嗅覚――饐えた潮臭さだった。

 薄暗闇のなかでぼんやりと目を開く。錆と苔と黴の生えた天井。親指の爪くらいのゴキブリか何かが素早く視線の真ん中を横切っていった。

 身体を起こそうと思ったがうまく力は入らなかった。身体には包帯が巻かれ治療が施されているようだったが、どうやら雷撃の痺れがまだ残っているらしい。

 仕方がないので、公龍は天井を眺めたまま通信に応答する。

 おそらくアルビスだろう。そう思って出た公龍の耳朶を打ったのは全く聞き覚えのない男の声だった。


『九重公龍で間違いないね?』

「……誰だ、てめえ」


 公龍は掠れた声で鋭く唸るように凄む。


「この番号をどこで手に入れた?」

『まあまあ、落ち着いて。怪しい者じゃない。いや、十分怪しいは怪しいだろうけど、敵じゃない。そうだな……、アルビス・アーベントの良き友だと言ったら、話くらいは聞いてもらえるだろうか』

「あのクソスカシ野郎に友達がいるわけねえだろ。嘘こいてんじゃねえ」

『はは……。君らの仲の悪さは噂には聞いてたけど、さすがだね。とは言え、本当に残念なんだが君と楽しく談笑している時間はない。そして君も、僕の話を聞く気があるから通信を切らずにいる』


 公龍は話しながらも内心で、いちいち言い回しのムカつく野郎だと吐き捨てる。あえて言うならば警視総監の屋船有胤やふねありたねのような、インテリを気取ったいけ好かない感じが通信越しにぷんぷんと臭う。


『ありがとう。それじゃあ本題。ついさっきまでアルたん……じゃなくて、アルビス・アーベントと一緒にいたんだけど、敵の襲撃を受けた。アルビスは僕を逃がし、単身応戦。だけど負けて捕らえられている』

「何だと?」


 公龍はにわかに声を荒げる。あの堅物には似合わない可愛らしい呼び名のことなど意識の隅へと追いやられ、あてのない怒りが沸々と湧いた。

 通信の男は落ち着かせるように間を取り、それから再び口を開く。


『逃がしてもらったとき、最悪を想定してアルビスのシャツの襟に発信機を仕込んだ。だから現在地を知ることができた。だけど不本意なことに、僕に誰かと戦うような力はない。そこで君を頼らせてほしいと思って連絡を取った』

「罠じゃねえ証拠はあんのか? そもそも素性も何も分からねえやつをどうやって信じろと?」


 公龍は語気を強める。だが公龍が投げつけた言葉をよそに、端末にはアルビスの現在位置を示すものと思わしきマップデータが送りつけられてくる。

 現在位置は壁のなか。既にコンクリートに埋められたのでなければ偶然にもアルビスは公龍と同じ地下迷路街にいることになる。


『九重公龍。君の言うことはもっともだ。だが僕も簡単に素性を明らかにするわけにもいかなくてね。僕を信用しろとは言わない。だけど僕らはアルビスを助けたいという気持ちに関しては、協力できるものだと思うんだ』


 罠の可能性は拭えなかった。だがもしアルビスに万が一のことがあれば、目覚めたときにクロエが哀しむだろう。ならば選択肢は他にない。


「……襲撃してきた奴の詳細を教えろ」


 公龍は露骨な舌打ちをして、まだ痛む身体を強引に起こした。


   †


 正体不明の男との通信を切り、公龍は立ち上がる。まだ動きづらい身体は訛りのように重く、公龍は錆びた機械じみたぎこちない動きでよろめく。寄り掛かった壁でなんとか身体を支えながら、足を前に踏み出す。たったそれだけのことなのに、公龍の額には大粒の汗が滲んだ。


「目が覚めたか」


 嗄れた声とともに部屋の奥から背の丸まった老人が現れる。伸ばしっぱなしの白髪と髭に加え、布を巻いただけの簡素な衣服は古代ギリシャの絵画から飛び出してきたような浮世離れした雰囲気を醸している。痩せ細った両腕には黒緑色の粉末が入ったすり鉢が抱えられていた。


「あんたは、確か、松さん……だったか?」

「ほっほっほ、あの小童に聞いとったか。そうじゃそうじゃ」


 老人――松は思いのほか陽気に笑い、身軽な動きで地面に腰を下ろした。


「あの二人は無事か?」

「ああ、心配はいらん。今はまだ別の部屋で眠っておるが、そのうち目を覚ますじゃろう」

「そうか。あいつらの分も礼を言うよ。助かった」

「構わんよ。儂らとて小童に死なれては困るからの。奴が持ち込む地上うえの薬は相変わらずろくでもないが、それでも高く売れる。儂らにとっては重要な飯のタネじゃ」


 おそらくは銀が情報の対価として横流ししている薬剤のことだろう。


「仲間がいるのか?」

「こんなところじゃからの。地下したには地下したなりの、秩序があるんじゃよ」


 松は喉の奥で笑い、それから抱えていたすり鉢を地面に置いて公龍に差し向けた。


「漢方じゃ。傷に効くぞい」

「漢方」

「何じゃ、知らんのか?」


 公龍は黒緑色の粉末を覗き込みながら、聞き慣れない言葉ににわかな驚きを抱く。

 漢方とは中国の伝統医学を背景に持つ治療薬であり、複数の生薬を組み合わせることで薬効を操作する。何と言っても最大の特徴は、病を個別の症状や特定の部位ではなく全体的な身体の性質から捉えて治療することを重んじるという点だ。

 天然由来の生薬を用いる漢方医学は《リンドウ・アークス》の科学的な医薬至上主義に対抗していた自然主義者にこそ指示されていたものの、解剖学的な見地に立脚する西洋医学の流れを多分に汲んでいる《東都》とは相容れず、都市が整備されていくなかで自然と淘汰されていった医学の一つだ。

 なるほど。松がこんな日の当たらない地下迷路街などに引き籠っているのは、過去の自然主義闘争の名残りなのかもしれない。


「知ってんよ。昔、大学で少しだけ齧った。にしても珍しい知識持ってんな」

「つべこべ言わずに飲め」


 公龍は地面に置かれたすり鉢を拾い上げ、一気に粉末を呷る。こういうのは味わったら負けなのだが、猛烈な苦味と酸味が口内をこれでもかと暴れ狂った。公龍は松が差し出したコップの水をすかさず受け取り、口のなかで暴威を振るう粉末を胃のなかへと流し込む。飲み終わっても後味は消えず、公龍はもう一度水を含んで口をゆすいだ。


「ひでえ味だ」

「ほっほっほっ、たわけ。良薬は口に苦しと言うじゃろがい」


 公龍は松にコップを返し、机の上に畳んで積んであったシャツやハンティングベストを着込んでいく。ボサボサの髪をヘアバンドで束ね、レンズの罅割れた眼鏡を掛けると、松が喉を鳴らした。


「どこへ行く気じゃ? まだ動くのは無理じゃと言ったじゃろう」

「爺さん、アンタには感謝してるが、いつまでも休んでるわけにはいかねえんだよ。ダチが敵に捕まった。この迷路街のどっかにいるらしい。どんな理由があろうと、俺はあいつを助けに行かなくちゃならねえ」


 松は地面で胡坐をかいたまま、黙って公龍を見上げていた。見定めるような鋭い視線を公龍も真正面から見返し、束の間の沈黙が流れる。


「お前さん、阿呆じゃろ」


 静寂を破った松は公龍に向けてそう言い放った。


「はぁ? 阿保ってなんだよ、ボケ爺」

「阿保は阿保じゃ。自分の命の勘定すらろくに出来とらん。じゃが、そういう阿保は嫌いではない」


 松はわざとらしく「よっこらせ」と宣い、腰を上げる。丸めた背中を公龍に向けて部屋の奥へ進み、それから公龍のほうを振り返る。髭に覆われた口は頼もしく吊り上げられ、隙間だらけの黄ばんだ歯が覗く。


「何しとるんじゃ。ついて来んか」

「あ? だから俺はこれからダチを助けに――」

「地下におるんじゃろう? ならだいたいの場所くらい教えてやる。はようせい」


   †


 松に連れて行かれたのは迷路街のさらに奥深く。

 電球や蝋燭などの明かりはさらにまばらになり、闇はその黒さを一層に増していく。長年住んでいると夜目が利くようになるのだろうか。公龍が眼鏡の光量調整のおかげで辛うじて踏み外さずに歩けている階段を、松は年齢を感じさせない軽快な足取りで下りていく。


「いいか? 地下ここには地下ここの秩序があって、ルールがある。それはまず、地上うえでの出来事に関わらんことじゃ」


 長い階段を下りながら、後ろを歩く公龍に向けて松が言う。


「今回は儂がお前さんを気に入ったから手を貸してやるが、それもこれっきり。それを肝に銘じることじゃ」


 実際のところ、松の提案は幸運だった。

 地下迷路街は震災の際に放棄された地下空間によって構成される。だがあくまで《リンドウ》の管理下にある廃区とは異なり、完全な無法地帯である迷路街は腐食や浸水、増改築や崩落を日々繰り返しているせいで誰もその全貌を把握できていないとされる。

 もし公龍が独力でアルビスの現在位置まで向かうとなれば、かかる時間と労力は測り知れない。


「それと一つ忠告じゃ。お前さんは少々口が過ぎる。余計なことは言わぬよう、くれぐれも黙っておくことじゃの」

「けっ、忠告どうも」


 これから向かうのは、迷路街に何人か存在する纏め役のうちの一人の元らしい。心優しいお方なので道案内の渡りくらいはつけてくれるだろう、というのが松の話だった。

 そうこうしているうちに階段が終わり、一枚の扉が眼前に現れる。松が扉と叩くと、中から入るよう野太い声が響いた。

 扉の向こうで待ち受けていたのは台座の上にもたれるように腰かける老婆だった。薄汚れた空間にあって、彼女がまとう修道着スカプラリオだけは皺一つなく、まるで光を帯びているようにさえ見えた。

 少なくとも纏め役という高い地位にいることは確かなのだろう。いつの間にか松はその場で厳粛に片膝をついていたし、老婆の背後には多少腕の立ちそうな護衛が二人、錫杖を持って控えていた。


「あんたが纏め役だな」


 公龍の不躾な態度に松が思わず顔を上げる。一方の老婆はそんなことを歯牙にもかけずに頷いて口を開く。声はか細いが、しっかりと芯の通った響きを帯びている。


「佐藤と言います。皆はシスターと呼びますが、どちらで呼んで頂いても構いません」


 どこぞの情報屋みたいなセンスだな、と公龍は思う。もしかするとそういうカトリック的なネーミングがアングラでは流行っているのかもしれない。


「俺のダチが連れ去られた。場所は分かってるから案内をつけてほしい」

「貴方は地上うえの人間ですね? 残念ですが――」

「話は聞いた。地下は地上には関わらねえんだろ? だけどよ、こっちの薬売りさばいて飯食っといて、そんな都合のいい話あるか?」

「お、お前さん、口が過ぎるぞ!」


 松が狼狽えながら袖を引っ張ってくるが、公龍は構わずに続ける。


「本来よ、上も下も全部が《東都》だ。どいつもこいつも勝手に線引いて引き籠ってちゃ世話ねえよな。だがまあ、面倒事に関わりたくねえ気持ちは分かるぜ」

「何を仰りたいのか、よく分かりませんね」

「対価の話だよ。あんたらは地上の全部を毛嫌いしてるわけじゃねえ。要はほどほど。薬みてえに使えるもんは使うって話だろ? ならそののなかに、俺を含めろって言ってんだ」


 公龍が言い放つと、佐藤は僅かに目を細めた。

 思った通りの反応。修道女シスターなどと呼ばれ、ある種の聖性を演出しているが、これだけ荒んだ迷路街の環境下で信仰や敬虔だけで生きていくことはできない。つまるところ、佐藤の精神性は修道女というよりも、れっきとした商人であり経営者に近い。

 だからこそこの交渉において、対価を要求される前に先手を打った。交渉の通じる相手であることを、まず分からせた。


「最近、闇市で大口の銃火器の取引があっただろ? アンタの管轄なのかは知らねえが、あれを依頼してきた客は賢政会。つまるところ廃区うえのヤクザ連中で、俺のダチを攫ったクソどもだ。奴らは《リンドウ・アークス》に喧嘩を仕掛けるつもりで準備をしてる。アンタなら、これがどんな結果を招くか分かるよな?」


 これまで不干渉を保つことで維持されてきた地上と地下の住み分けは、賢政会の大規模な動きによってその境界を曖昧に暈かされてしまった。それは名実ともに《リンドウ・アークス》という都市の支配者を敵に回すことを意味する。


「だから俺が、事前にその驚異を排除してやる。九重公龍。この名前くらいは引き籠りのアンタでも聞いたことくらいあるはずだ。さあ、俺を案内しろ」


 どこまでも不遜に言い放ち、公龍は佐藤へと詰め寄る。佐藤は困ったような表情で溜息をつき、それから口角を緩める。――交渉は成立だ。


「いいでしょう。今回限り、使

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