02/A small collapse《1》

〝手術中〟と表示される赤いランプが消え、ゆっくりと扉が開く。アルビスは通路の椅子に座ったまま顔の前で組んだ手を額に押し付け、壁にもたれかかっていた公龍は弾かれるように顔を上げる。

 やがて扉の向こうから青緑色の手術着スクラブを着た天常汐あまつねしおが姿を現す。マスクを剥ぎ取った汐の表情は僅かに険しさを浮かべた。


「クロエは? クロエは無事か?」


 詰め寄った公龍を宥めるように、汐はゆっくりと頷く。


「命に別状はない」


 公龍が深く息を吐いて胸を撫で下ろし、アルビスもまた力んでいた手を解いた。張り詰めていた気持ちが緩んだせいか、急激に疲労感が押し寄せてくる。だが汐のほうは、まだ表情を固くしたまま、落ち窪んだ眼窩をアルビスたちへと向けていた。


「いくつか話しておきたいことがある。……とはいえ、まずは君たちの治療だ。場所を移そう」



《東都》でも有数の医療施設である帝邦医科大学病院。その白亜の居城から少し離れたところに魔女の伏魔殿パンデモニウムはある。

 南京錠と鎖で厳重に施錠されたドーム状の黒い建造物。そこから地下へと続く螺旋階段を降りれば、蝋燭の明かりが壁に飾られる呪術的で不気味な仮面を浮かび上がらせる。

 天常研究室。壁に貼り付けられたプレートの掠れた文字がなんとも不気味さを助長するが、室内は外観の比ではない。

 薄暗く乱雑に散らかった室内には蛇や蛙、牛や熊などのホルマリン漬けや剥製が並び、饐えた臭いに満ちている。壁際の書架には医学書を始めとして多種多様な言語の思想書まで幅広い書物が並び、その全てが部屋の主である魔女の知性の深さを表しているようだった。


「食べるかね?」


 用意された椅子に座るアルビスと公龍は、汐に差し出されたビーカーを一応一瞥しておく。

 紫色の泡だったペーストのなかに蠢動している幼虫のようなものが見える。時折青白く発光しているのは一体どんな黒魔術かと考えて、アルビスは頭を横に振った。


「遠慮しておく」

「センセ、早く話を進めてくれよ」


 揃って断ると、汐は残念そうに溜息を吐いた。


「そうかね。自信作なんだが」


 汐はビーカーのなかの汚物をスプーンですくい、躊躇いなく口へと運ぶ。咀嚼音はまるで悪魔の断末魔で、ガサガサに荒れている汐の唇からは蠢動する何かがちらと覗き、口のなかへと吸い込まれていった。それだけで悍ましさは想像を絶するものがあり、見ているだけで気分が悪くなる。

 アルビスたちは目の前の惨劇に呆気に取られていたが、汐はなんてことない様子で話を始めていく。


「まず話を再開する前にいくつか確認しておきたいことがある。空木クロエは、件の〝粟国桜華あぐにおうか事件〟の被害者である空木朱音うつぎあかねの娘ということで間違いないね?」


 アルビスは頷く。

 クロエは〝粟国桜華事件〟にて用いられた人を錆に変える非認可薬物デザイナーズドラッグ〝ラスティキック〟の売人であった空木朱音の娘だ。

 空木朱音は滋養強壮剤だと思って販売していたラスティキックの真の薬効と事件の首謀者だった〝脳男ブレイン〟の目的を知り、告発を試みた結果、口封じとして殺された。

 その後、目撃者として狙われていたクロエはアルビスたちの依頼人兼証人として正式に保護されることになったわけだが、その保護は〝脳男ブレイン〟にテロを嗾けた〝X〟なる黒幕の存在を根拠として現在に至るまで続いている。


「父親については?」


 汐が質問を重ね、今度は公龍が首を横に振る。

 空木朱音は死亡当時、二五歳。クロエの年齢から逆算すれば、空木朱音は一四、五歳の時にクロエを身籠ったと推測できる。またその時期は《東都》成立以前――つまりはかつての東京が震災に見舞われていた暗黒期と一致する。

 至る所で犯罪が横行していた当時、空木朱音のような身寄りのない少女が暴行の対象になったこと、あるいは生き抜くために自らの意志で肉体と若さを売って歩かざるを得なかったことは、もはや語るまでもない。

 このような事情も相まって、クロエの父親を特定するのは困難を極める。もっともクロエ自身がそれを望んではいないので、アルビスたちはこれまで調べるようなこともしてはこなかった。

 この確認事項にどんな意味があるのかをアルビスが思案していると、汐は荒れた唇をきつく結んで腕を組む。やがて深い呼吸とともに吐き出された言葉には、険しさが滲む。


「これはとてつもなく厄介かもしれないね」

「クロエの生まれが何か問題なのか?」

「あの子は普通じゃないってことだ」


 すかさず詰め寄るように問うた公龍を煽るように汐が肩を竦める。公龍が掴みかかるような気配を見せたので、アルビスは立ち上がって公龍を制止する。


「説明を求める。クロエは今、どんな状態なんだ」


 不穏な空気を呑み下すように、アルビスが声を低める。汐は小さく息を吐いた。


「空木クロエの容態は、さっきも言った通り命に別状はない。むしろ爆発に巻き込まれていたとは思えないほどに健康体そのものだね。皮膚にはどんな軽微な火傷もなく、煙や熱気を吸い込んだ形跡もない。にもかかわらず、意識が戻る気配がない」

「眠っている、というわけではないのだな?」


 アルビスの指摘に汐は首を横に振った。


「脳は正常に機能しているが、刺激には全く反応しない。寝ているだけなら触覚などの外部刺激に脳は反応する。一方、意識不明ならば脳機能が低下する」

「ならクロエはどうなってるってことなんだよ」

「分からないというのが正直なところだ。この年になってもまだこんな未知を突きつけられるとはね。新鮮な感覚だ」


 汐は自嘲的に笑ってみせるが、場の空気は――公龍の表情はますます凍りついていく。

 やがて汐は諦めたような溜息を吐き、空になったビーカーを机上に置く。代わりに無造作に置いてあったタブレット端末を手に取り、こちらへと手渡した。

 何も言わないのは見れば分かるということだろう。アルビスが受け取った端末を開くと、すぐに診断書カルテが表示された。


「これは……」

「ちゃんと目を開いて見てみたまえよ。空木クロエの精密検査の結果だ」

「違う、そうじゃない。これは」

「そう。MKO――〝鼓動し嘲笑する臓器モック・ノック・オーガン〟だ」


 汐の言葉はまるで死刑宣告のように硬質な響きでもってアルビスたちの耳朶を打った。アルビスは困惑に表情を歪め、公龍は言葉を失ったまま固まる。


「まだ〝解薬士狩り〟のそれとは比べものにならないほど活動は弱い。だが爆発に遭いながら火傷などが一切なかったのはMKOが理由だろう。治癒させたんだ」

「おい、センセ。からかうんじゃねえよ。クロエとあのバケモノが同じだ? 言っていい冗談と悪い冗談ってもんがあんだろ」

「九重。君も心当たりくらいあるはずだ。昏睡状態にあった君は突然目覚めた。思い起こせば、あの子供が君を見舞ってすぐの出来事だったな。ただの偶然、愛の奇跡だとでも嘯くつもりかい?」


 汐の鋭い指摘に公龍が奥歯を噛む。

 たしかに昏睡した公龍の覚醒を奇跡として片付けることができれば劇的だ。だがたった今示された事実は、その淡い願望を容易く否定する。


「じゃあ何だ? あいつが俺たちに嘘吐いてるっていうのかよ」

「落ち着け。クロエが空木朱音の娘であるというのは間違いない。DNA鑑定もした。だが、空木朱音について、私たちが知っていることは少ない。売人に身を落とす以前の境遇や、クロエを身籠った経緯も含めてだ」

「アルビス。……てめえ、ンでそんな冷静なんだよっ!」

「公龍、少し黙れ」

「てめえはそうやっていつも平気な顔してんじゃねえよ」


 公龍がアルビスに掴みかかる。アルビスは胸座を掴まれるより早く公龍の手首を抑え込む。二人はそのまま睨み合った。


「平気なわけがないだろう。だが重要なのはここで喚き立てることじゃない。この事実をどう捉え、これからどうしていくかだ」

「…………クソがっ!」

「分かったら一度落ち着け」


 公龍はアルビスの手を払いのけ、荒々しい舌打ちとともに椅子に座り直す。苛立ちは隠しきれないらしく眉間には相変わらず深い皺が刻まれている。


「まずこの事実は三人だけの秘密にしてくれ。MKOはあまりに未知の要素が大きすぎる。当然クロエ本人にも話さない。ドクターは診断書カルテの書き換えも頼む」


 アルビスが言うと、汐は惜しげもなく顔をしかめてみせた。


「別に構わないがね、まさかあの子供の保護を続ける気かい?」

「どういう意味だよ、センセ」

「決まっているだろう。あの子供は謎だらけ。それもとびきり根深くて暗い謎だ。一介の解薬士に過ぎない君たちでは手に余る」

「それが何なんだよ。クロエはまだ小さい子供だ。他に行く宛てなんてねえ」

「親代わりでいるつもりかい? 君はつくづく甘い。その甘さは君の美点でもあるが、今回ばかりは致命的な失点だ」


 汐は呆れたように溜息を吐いた。いつも醜悪な冗談ばかりを吐き出す口は辛辣な本音を覗かせる。


「関わるな、手を引け、とは言わない。もうそんな一線はとっくに踏み越えている。だがね、あの子を抱えておくのは危険だ。今巻き込まれている件だけじゃない。君たちはこの《東都》で目立ちすぎる。それは彼女が目立つこととも同義だ。情報の隠蔽にも限界はある。既に勘づいている者がいるかもしれない。いずれは諸外国もMKOに目をつけるだろう。そうなれば個人の力でどうにかできる話ではない。事が大きくならないうちに空木クロエは孤児院にでも預けたほうがいい。それが最適解だ」

「――――っ!」


 公龍がとうとう我慢ならずに立ち上がる。座っていた椅子が勢いよく倒れ、やり場のない感情を込めた蹴りが机を揺らす。積んであった書類が崩れ、床に散らばった。

 重苦しい空気が淀んだ室内に張り詰めていく。しかしすぐに、アルビスの低く響く声が緊張を裂いて霧散させていく。


「ドクター。悪いが答えはノーだ」

「……アーベント君。君なら少しは話が分かると思ったんだがね」

「クロエは私たちの正式な保護下にある。つまり私たちには彼女を守る義務がある。途中で投げ出すことはあり得ない。それに私たちのそばにクロエがいたほうが、貴女としても都合がいいはずだ。?」


 アルビスが続けて言い放った言葉の意味に、汐は口の端を歪めた。


「……くっはっは。確かにその通りだ。《東都》で最も安全なのは自分たちの保護下であり、MKO解明に最も合理的な場所はこの僕だと言いたいのか。相変わらず狂っている。どう思考回路が焼き切れればそうなるのか、是非とも脳を舐め回したいものだ」

「遠慮させてもらおう」


 ようやく普段の調子を取り戻しつつある汐を一瞥し、アルビスは内心で息を吐く。自分自身を人類最高の頭脳だと疑わない天才に反目するのは骨が折れる。


「それにしても、……僕も老けたということか。少し及び腰になっていたかもしれないね。いいだろう。今のは覚悟として受け取っておく。……にしても九重、君は生きているうちにもう少し賢く頭を使う術を覚えたほうがいいな」

「けっ、うるせえよ。あんたは頭を使う方向性を百回見直せ」


 結果的にただ声を荒げただけで終わった公龍が、負け惜しみじみた恨み言とともに不機嫌そうに喉を鳴らす。


「ドクター。とにかくこの件は隠蔽だ。空木朱音についてはこちらで探っておく。MKOについて何か気づいたことがあればその都度共有してほしい」

「いいだろう。僕自身も興味がある問題だ。協力は惜しまんさ」

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