13/Fake ending《2》
新羽田エボラ事件――。メディアがこぞってそう報道した空の玄関口で起きた大混乱は、今なお《リンドウ・アークス》による汚染除去作業が続いている。
事件から四日経った現在も、航行再会の目処は立っていない。加えて死者三七七名という未曽有の虐殺もさることながら、ニイバネの営業停止によって《東都》全体が被る経済的打撃はあまりにも大きく、《東都》の成立以降初めて、《リンドウ・アークス》の株価が下落するという事態にまで発展した。
この新羽田エボラ事件が《東都》に与えた経済損失は推定で二〇〇億は軽く超えることが予想されている。
当然、実行犯であるジェリーや事件とは無関係ながら多大な被害を出した〝解薬士狩り〟については隠蔽されていた。問題のエボラウイルスについても空港利用客が海外から持ち込んだものと報道され、その経路特定は困難を極めるの一点張りで《リンドウ・アークス》は逃げ切ろうとしているようだった。
「……結局よ、ジェリーがニイバネに陣取った目的は何だったんだろうな」
ボストンバッグに荷物を押し込みながら公龍がぼやく。とっくに支度を終え、公龍を待っているアルビスはかぶりを振った。
「さあな。だが日本の警察も無能ではない。聴取が本格化すれば、じきに明らかになるだろう」
液体窒素によって凍結されたジェリーは現在、警視庁の特殊監房にて身柄を拘束されている。
本来であれば
これは警視庁としては願ったり叶ったりの予想以上の成果だろう。
「だがよ、このままじゃ《リンドウ》が黙ってねえだろ」
「ああ。だからあくまで警視庁がジェリーを拘束している理由はニイバネの一件についてのみとなっている。盛永スサーナの拉致と殺人などの余罪については
「なるほどな。またあのクソジジイが方便を使ったわけか」
「そういうことだ。だが今回だけは悪いことばかりではない。おかげで我々にもジェリーへの聴取が可能だ」
「そいつは面倒そうだ。俺はパスで。――っと、待たせたな」
公龍がボストンバッグを肩に担ぐ。元々私物が圧倒的に少ないアルビスの荷物は公龍のそれよりも二回りほど小さくて軽い。
並んで歩く二人はやたらと広い病室を出る。薄い緑色で統一された院内を歩き、エレベーターを使って一階エントランスへ。通院患者たちとすれ違いながら帝邦医科大学病院を後にする。
「にしても、見送りもなけりゃ出迎えもねえってのはどういう了見だ?」
「不必要だ。そんなものは暇を持て余した愚鈍のすることだ」
「へいへい。相変わらず人の心がなくて何より。でもなぁ、あんまりそういうとこ舐めんなよ? 俺はな、昏睡してっとき、傍にいてくれた誰かに救われた気がすんだよ」
「そうか。前から思っていたが脳の精密検査をしてくるといい」
こうして軽口を叩いていられるのも、ようやく調子が元に戻りつつある証拠だ。
「……誰が退院を許可したんだね?」
外に出てすぐ。柱の陰から声がした。振り返ればアルビスたちの執刀医である天常汐が落ち窪んだ眼窩でこちらを眼差し、深い溜息を吐いていた。
「ドクター、今回も世話になった。礼を言う」
「助かったぜ、センセ。おかげでこの通り、もうピンピンしてる」
「次来るときはぜひ死体で頼むよ」
「おいおい、二度も死にかけたんだぜ。冗談じゃねえって」
真面目な顔で言い放つ汐に、公龍は肩を竦める。汐は便所サンダルを引き摺りながら二人へと歩み寄り、白衣の内側に忍ばせていた紙の束を丸めて、アルビスのスーツジャケットの内側へと突っ込んだ。
「これは……?」
「棗シロウの解剖所見だ」
そう言われ、取り出して確認しようとしたアルビスを汐の視線が制する。今まで見たことのないような真剣な表情に、アルビスは紙束に触れた手を引いた。
「あまり人目があるところで広げないほうが賢明だよ。それと目を通したら処分しておくといい」
汐が醸すただならぬ空気を感じ取り、それが決していつもの冗談ではないと理解したらしい公龍も眉を寄せつつ息を呑む。
アルビスは竜藤泉水の言葉を思い出しつつ頷き、汐に礼を言う。
「気をつけたまえ。君たちは疫病神みたいなもんだが、今回ばかりは少し手に余るババを引いたかもしれない」
去り際、汐が二人の背に向けて投げかけた言葉に、アルビスは言い知れぬ悪寒を禁じ得なかった。
†
自動運転のタクシーが緩やかに停車する。指紋認証機に人差し指を押し付け、アルビスと公龍は開いた扉から降車する。フェンスで仕切られた向こうには見慣れた、だが幾分か懐かしい風景が広がっている。
朽ちかけの建物。罅割れる道路脇から茂った名前も分からない雑草。どぎつい香辛料の匂いが漏れ出し、たまたますれ違った市民が眉を顰める。地べたに座り込んだ老人が黄緑と紫という不気味な錠剤を広げて通行人へと手招きをしている。
善良な市民ならば決して近づかないであろうその区画に、アルビスたちは躊躇なく入っていく。
廃区――。復興支援から見放された都市の周縁。手厚い医薬至上社会に嫌気が差した人間や後ろ暗い過去を持つ人間が最後に行き着く場所だ。
オニイサン安イヨ、と片言の日本語で声を掛けられる。ネグリジェ姿で出歩く女にアルビスは目もくれず歩を進め、公龍は手を振って投げキッスをしてからついてくる。
随分と長い間、この廃区を離れていたような気もするが意外と街は変わっていない。莫大な消費欲求と強烈な上昇志向によって目まぐるしく変化していく都市部と異なり、目の前の今日を懸命に生きる人間の歩みというのは、実のところ遅々としたじれったいものなのかもしれない。
廃区はきちんと再整備されている都市部と異なり、入り組んだ隘路が多い。隆起と陥没を繰り返す悪路を歩き、やがて少しだけ開けた通りへと出た。
見慣れた雑居ビル。一階には不気味な外観の占い屋〝オニキスの預言〟。
タイミングよく店の扉が開くと、中から号泣しながら憤慨する女が出てくる。思いつく限りの罵詈雑言を叫んだあと、地面を踏み鳴らして去っていく。もう見慣れた光景だった。
開けっ放しになった入り口に幽鬼のように佇んでいた女店主と目が合った。互いに会釈を交わす。
「お久しぶり、ですね」
女店主が口を開く。独特の間を保って紡がれる言葉は、なぜか女の印象としっくりくる。
「ええ。色々とありまして」
「死にかけてたんすよ、俺」
アルビスが曖昧に濁した返答した一方で、公龍がへらへらと余計なことを喋る。
「それは、大変でし、たね」
「まあいつものことなんでねぇ。あ、でも俺ってばこう見えてもけっこう強いんすよ?」
アルビスはちらとさっきの女性客が消えていった方向を眺めた。特に意味はなかったが、女店主はくすりと笑う。
「私の占いは真実を映すの、ですよ。でもだいたいの場合、人の心は真実を受け入れることに耐えられないの」
女店主はどこか楽しげだった。まるで人の心を見透かし、不条理な現実を見せつけて心を壊すことに快楽を見出しているようだった。
だが女店主の言葉は真実でもあった。人は真実の一側面だけを解釈し、都合のいい部分を信じる。
そしてそれは《東都》そのものでもある。煌びやかな発展を遂げた先進都市と謳われる一方で、廃区のような
「それでも真実を伝え続けると?」
「それこそがわたしが天界より授かった宿命、ですのでね。貴方も、真実に押し潰されぬよう、天界より降り注ぐエーテルの力を感じ続けるの、ですよ」
女店主はもう一度微笑み、店の中へ戻っていった。アルビスたちもその場を離れ、階段を上がっていく。
手を掛けたドアノブを回す。薄暗い事務所へ入ると乾いた破裂音が二人の肩に降りかかった。
「…………?」
「……な、何?」
はらはらと舞い降りてくるのは長細くカットされた紙切れたち。不明瞭な視界でなんとかそれを捉え、僅かに眉を顰めているとパッと事務所の明かりがついた。
目に飛び込んできたのは、壁一面に広げられた大きな横断幕。黒地に朱と金の刺繍で〝アーベントの旦那、九重の旦那、オツトメご苦労様でしたっ!〟と縫い込まれている。
アルビスたちが状況を呑み込めずに呆然としていると、追い討ちと言わんばかり、どすの効いた声と拍手が二人の帰還を出迎えた。
「「「アーベントの旦那ぁっ! オツトメご苦労様です!」」」
声の正体はビルの三階に入る
アルビスは未だに状況が読み込めていなかった。
いや、確かにアルビスと公龍は仕事柄、事務所を空けることが多いので、そうした場合のクロエの面倒を木岡たちに頼んだ覚えはある。申し出通り遂行されていたのは非常に助かるが、それにしても馴染み過ぎではないだろうか。
「これは何だ……」
事務所を見回す。男臭く殺風景だった事務所は花飾りや紙飾りに彩られ、出前かカップ麺、消し炭同等の壊滅的料理しか並べられたことのないだろう応接机には、見るからに高そうなシャンパンやワイン、色とりどりの豪華な料理が並んでいる。
「さ、旦那。座ってくだせえ。こちらですっ!」
木塚とその舎弟たちに急かされてアルビスと公龍は並んで座る。公龍はすぐに気分を良くして机に並ぶ酒を開け始めたが、アルビスには手放しに喜び会を楽しむ以前に、どうしても確認しておくべき懸念があった。
「待て。一体これをどうやって用意した?」
解薬士でありながら、同時にウロボロス解薬士事務所の経営者でもあるアルビスの頭を常に悩ませる難題――すなわち金の問題である。
「ったく小せえこと気にしてんなよ、クソ真面目かてめえ」
この問題に関する戦犯である公龍がこの世で最も耳障りな台詞を吐き、隣りで聞いていた木岡が大声で笑った。
「九重の旦那の言う通りですぜ。なぁに小せえこと気にしてんすか、アーベントの旦那。ここは全部、自分ら牙央興業がもってますんで。心配いらねえです。旦那たちが血ぃ流して戦ってるときに、自分らは何も知らずにいたんすから、これくらいのことはさせてくださいよ」
「だが……」
「いいんですって。言ったでしょう? 最近えらいでけえ取引が入ったって。まるで戦争でも起こすんじゃねえかって量でしたがね。あちらさんにもご贔屓にして頂けるって言ってもらえたんで、今日はパーッと飲んで食ってくださいって」
そう言えばそんなことを言っていたな、とアルビスは思い出す。付言しておけば牙央興業というのは、独立系の武器卸業者である。
木岡にグラスを握らされたアルビスはアルコールにするか一瞬だけ逡巡した結果、近くにあったウーロン茶を注ぐ。
「おい、アルビス、飲まねえのか?」
「これでも怪我人だ。労われ。そして貴様も怪我人だがな」
「馬鹿野郎、世の中にはな、アルコール消毒って言葉があんだろうが」
「今日限りで免許剥奪してやるから、もう一度勉強し直してこい」
「ほらほら、お二人とも。あちらに注目ですよ」
木岡に仲裁され、二人は口を噤み、見るよう促されたキッチンへと目を向ける。そう言えばいつの間にかクロエがいなくなっている。
「それじゃあお嬢っ! お願いしますっ!」
木岡の合図で、キッチンの奥からクロエが姿を現す。その小さな手には大きなホールケーキを抱えている。クリームの塗りにムラがあり、上に乗っているイチゴはどこか不揃いだ。
「いいですか、旦那。ありゃあ、お嬢自ら、旦那たちの帰りを祝うためにこしらえた唯一無二の一品なんです。今日は朝から早起きをし、生クリームを懸命に泡立て……その健気な姿と言ったら、もう自分みたいな汚ねえ中年は涙腺がぐぐっときちまって」
「すげえ、すげえじゃんか、クロエ!」
クロエがゆっくりとケーキを運ぶ。その動きはどこかぎこちなく、表情はさらにぎこちない。慎重に、アルビスと公龍の前に置かれたホールケーキの中央に飾られたプレートには、もう見慣れた筆跡で〝おかえり〟の四文字が添えられる。
「ありがとうな、クロエ。ただいま」
「感謝する」
公龍はへらへらと笑いながら、アルビスはいつも通りの鉄仮面で、クロエに言う。クロエは照れ隠しに俯いてはにかみ、目尻に浮かんだ嬉し涙を指で拭った。木岡はおいおいと涙を流し、舎弟たちもまた鬼のような形相で涙を堪えていた。
「……うう、ずぴーっ、それじゃあ皆さま、旦那がたの復活と、ずぴーっ、お嬢との、感動の再会を祝って――乾杯っ!」
泣きじゃくる木岡の音頭で、手に取ったグラスが小気味のいい音を立てて重なる。
「クロエ」
アルビスはどこへ座ろうかと座席を見渡しているクロエに手招き。近寄ったクロエを抱きかかえ、自分と公龍の間に座らせる。ちょんとソファに乗っかったクロエの頭をアルビスの手がそっと撫でる。
「……心配かけたな」
その言葉に、クロエが必死で堪えていた涙がぶわりと溢れる。それを見た公龍がにやりと笑い、クロエの小さな肩に腕を回す。
「女の子、泣かせてんじゃないよ。この朴念仁」
「黙れ。これはどう考えても嬉し涙だろう。それにそもそも、今回最もクロエに心配をかけたのは貴様だ、公龍」
「ぐ……」
全くの正論で一番痛いところを突かれ、さすがの公龍も言葉に詰まる。アルビスはもう一度クロエに声を掛ける。
「いらぬ苦労を掛ける」
「うるせえな。もうこんな思いはさせねえよ。今よりもっと、強くなって、お前のこと絶対守ってやるからな」
公龍の言う通りだった。アルビスたちはもっと強くならなくてはならない。
今回は運も味方して、辛うじて生き延びることができた。だがまだ単に目の前に立ちはだかった脅威を退けただけに過ぎない。
医薬特区と無数の死を巡る謎は、まだ何一つとして解決すらしていない。
人知れず《東都》の奥底に覆い隠され、今なお繁栄と平穏の裏側に横たわり続ける真実に辿り着くには、きっと今よりもさらに狂気と混沌の只中に足を踏み入れなければならない。
このままでは駄目だった。
復讐を望むアルビスと、クロエと共に生きる未来を願う公龍。
進む道も孕む思いも真逆だったが、それだけは同じだ。
もっと強く――――。
視線を感じて見れば、クロエがアルビスたちを交互に見上げていた。その眼差しには安堵と、同時に僅かな不安が入り混じっている。まるで強さを欲するあまり狂気に呑まれ、何か違うものへと変貌してしまうのではないかと、恐れているようだった。
「安心しろ。クロエ、お前はここで俺らの帰りをどんと構えて待ってりゃいい。お前がいるってことが俺たちの力になるんだからよ。――ま、今は考えるのも悩むのも後だ。食おうぜ、せっかくの料理が冷めちまう」
公龍は言って手際よく料理を取り分けると、病院食がいかにマズかったかを力説しながら
その話のどこが面白いのかは分からなかったが、クロエは楽しそうに笑っていた。
よく笑うようになったクロエを見ていれば、この手狭な事務所での奇妙な暮らしにも確かな価値があるのだと思えた。
まだ何一つ終わってはいない。待ち受ける困難は数え切れず、絶望に打ちひしがれることも一度や二度ではないだろう。乗り越えるにはもっと力がいる。
だが、今だけは――。
今だけはこの弛緩した空気に身を委ねるのも悪くはない。
アルビスはほんの少しだけそう思い、手を伸ばしたチキンにかぶりついた。
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