13/Fake ending《1》
薄暗い闇に満ちた部屋。
それはまるでどれほど見て見ぬふりをしていようと、この《東都》に確かに存在している歪みのようにひっそりと。あるいは間もなく訪れる嵐を予感させる不吉な夜のように静謐に。
かつて広域指定暴力団の一つであった鴻田組が経営していた
既に鴻田組が解体されたせいで放棄された、中世風の建築を八〇年代じみたのサイケデリックなネオンで彩った奇妙な建物の、その最奥に位置するVIPルームに一組の男女の姿がある。
女の髪は部屋の薄闇にあって尚黒いと分かる長い烏羽色。一方の肌は真冬の銀世界のように白く透き通っている。袖を通しているのは皺ひとつないセーラー服。黒地に紫紺のリボンがあしらわれたそれは、二区にある中高一貫の名門校、笛木女子学園の制服だった。
男の方は撫で付けた赤毛が印象的な若い白人。細身だが、身体をぴったりと包む上等な仕立てのブラックスーツの上からでも、それが無駄なく鍛え抜かれた末の肉体であることが分かる。見た目は二〇代半ばといったところだろうが、妙な老成した感が伺える不思議な空気をまとう男だった。
革張りのソファに腰かけている女はグラスについだ水に口をつけて喉を潤す。空調が止まっているので仕方がないが室内は少し暑く、そして乾燥している。
「カーム」
女はソファのすぐ後ろ、直立不動の姿勢で控えている赤毛の男の名を呼ぶ。
振り返らずに名だけ呼んだのは、女の言葉は何を差し置こうとも必ず傾聴しなければならないものであるから。この男に限って、聞き逃すなどという愚行を犯すことはないと思っているから。
対して男が返事をしなかったのは、返事をするまでもなく、男には常に女の言葉を傾聴する準備が整っているから。
そして同時に男は自らに声を掛けられた意味を理解している。だが理解していながら、その慧眼に寒気すら覚えた。
たった今入ったばかりの報告の内容を、まるでもう何日も前からそうなることを知っていたように完璧なタイミングで問うてくるのだから。
「ジェリーは捕らえられたようです。やはり相手は九重公龍、アルビス・アーベントの二人組」
「そう、残念です」
「ですが、彼女は自らの役目を完璧に果たしました」
ジェリー=ハニーは共に任務に臨んでいたメルティが半ばで殉死するという
「では成功したんですね」
「はい。お嬢の指示通り
「それは喜ばしいことですね。――一つだけ
女の声音が鋭さを帯び、赤毛の男はにわかに息を呑む。彼女がまだつい先日、一八の誕生日を迎えたばかりだとは思い難い、濃厚な質量を孕む絶大なプレッシャーだった。
「……棗シロウの件でしょうか」
「ええ。今回は陽動に一役買ったようですが、彼には余計なことをしないよう言い含めておく必要がありそうですね」
「私のほうからも、諫言しておきます」
「よろしくお願いします」
女は物腰柔らかにそう言って、手元の懐中時計を確認する。
それは先代が好んで使っていたものらしかったが、それを肌身離さず持ち歩くことに一体どんな意味があるのか、男には想像がつかない。実父である先代を、見るも無残に殺害させたのは他でもない彼女自身なのだから。
「お嬢、それでジェリーの件ですが、どうしますか?」
「どう、とは? ……殺すか殺さないかと言うことかしら」
同じ物腰の柔らかさで放たれる悪魔のような言葉に、男はにわかに言葉を失う。それでも素早く思考を回転させ、適切な言葉を選び取る。
「ジェリーは役目を果たしました」
「ええ。だからもう必要ありません。ここから先、あの二人が必要なシナリオは存在しませんから。戦力的にも問題はありませんよ。彼女は貴方がたのなかで最も弱かった。そうでしょう?」
男は改めて理解する。この女にとって、ジェリーも、自分も、少し優れた駒の一つでしかないのだ。分かっていたことだ。名に冠した望みと引き換えに、その野望が果たされるまでの期限付きで生殺与奪にいたる全てを差し出す契約は、文字通り履行されるものなのだ。
だがそれでも、男にも未だ僅かに残る人情が、戦場を共にしてきた仲間が切り捨てられることを素直に認めることを拒んでいた。
「……見殺しにすると、言うのですか?」
「安心してください。彼女は、私が死ねと言えば喜んで死ぬ。カーム、貴方も知っているはずです」
その言葉はどこまでも冷酷に、
男はそれ以上何も言わなかった。女に対する忠誠心が揺らいだわけではない。そういうものなのだと――愛する
そこで女がもう一度懐中時計に視線を落とす。
「どうやらご到着されたようですね」
間もなく正面の扉の向こうに、廊下を踏み鳴らす足音が聞こえてくる。人数は二人。男は想定していた人数に一人足りない足音に首を傾げたが、女のほうは悠然とグラスの水に口をつけ、静かに到着を待った。
やがて両開きの扉が軋む蝶番の音とともにゆっくりと開いた。
「御機嫌よう」
女の穏やかで気品醸す挨拶に出迎えられるのは、こちらと同じ男女の二人組。
男の名は
女の方はエル・バタイユ。ウェーブのかかった金髪に白い肌。首筋から頬にかけて彫り込まれた幾何学模様の刺青。タンクトップから露出した腕には蛇革が波状に移植されている。部屋に入ってくるやソファに座る相手を値踏みするように睨みつけ、嘲るように下品な笑みを浮かべてみせた。だが単に慇懃無礼というわけではなく、これら全てがこれから始める
どちらも《リンドウ・アークス》直下の解薬士事務所――フォルター・ワークスに所属する名の知れた腕利き解薬士だ。
「本日はご足労痛み入ります。どうぞ、お掛けになって」
女はそんな二人に臆することなく着席を促す。二人は座るや、机の上に
女は二人に水を勧めたが、海燕もエルも揃って断った。少なくとも敵地で、易々と何かを口にするほど馬鹿ではないらしい。
「……ところで、お一人足りないようですが」
「全権を委任されてここへ来た。多忙なもので申し訳ない。非礼を詫びる」
「あら、頭をお上げになってください。全権を委任だなんて、さぞ信頼が厚いのですね」
頭を下げた海燕に女が声を掛ける。海燕の隣りでエルが喉を鳴らした。
「けっ。だが本当に一八そこそこの小娘とはな。大の大男だってビビっちまうってのに、アンタ大したタマだよ、全く。なあ、賢政会二代目会長さんよ」
「大したことは何も。ファミリーの命運を背負っているんですから、これくらいは当然ですよ」
女――
「単刀直入に言わせてもらうが、目的は何だ?」
海燕が声を一段低くして問う。返答次第では即座に交渉決裂も辞さないという剣呑な響きを帯びている。
「そうですね……《リンドウ・アークス》の解体、と言ったら少しは面白いでしょうか」
刹那、全身を切り刻むような緊張が室内に走る。だがその場には、鋭利な空気に身を竦ませるものなど一人もおらず。
「……悪い冗談だ。今、万が一《リンドウ・アークス》が解体されてみろ。この《東都》の繁栄は終わりだ。《東都》で甘い蜜を吸ってるのは、何もおたくらだって例外じゃないだろう」
「宇垣海燕さん、でしたね。ご存知ですか? 非合法な組織を維持していくのが、どれほど大変なことであるか」
白雪はそこで深く息を吐き、気を許すようにソファに身体を沈めた。
「
「賢政会――もとい前身のKMカンパニーは確か、娼館経営もやっていたよな? そっちはどうなんだよ」
「廃区の貧乏人どもを相手にしたビジネスで、財と呼べるほどのものが成せると思いますか?」
「……まあ性的快楽効果のあるドラッグなんざ、今やいくらでもあるもんな」
「それでも、人肌の温もりを求める層というのは一定数いるものですが、組織が拡大していけばいくほど、それだけでファミリーを食べさせていけるほどの利益は上げづらくなります」
「待て、話が逸れている。組織の利益と、この一連の件とどう話が繋がる?」
白雪とエルが話し込む前に、海燕が間に割って入る。
「簡単ですよ、宇垣海燕さん。これは《東都》は昔ながらの悪が幅を利かせるには、あまりに肩身が狭いという話。つまりこれからこの《東都》で生き残っていくために、組織は合法化される必要があるんです」
「つまり、《リンドウ・アークス》傘下の下部組織に組み込めと?」
「たっはっは、そりゃあいい。面白いジョークだ」
「冗談ではございませんよ、ミス・バタイユ。二五区に建設予定のカジノ誘致。その全権を委譲していただき、それをきっかけに組織の合法化を図ります。《東都》の医療を担う《リンドウ・アークス》と娯楽を担う
海燕とエルは予想だにしていない話の大きさに静かに息を呑む。だが全権を委任されていると言った以上、ここで尻込みすることはそのまま交渉の失敗を意味する。
「断った場合は?」
「そうですね……もちろん、例のファイルは公にさせていただきます。元は《リンドウ・アークス》も政府より《東都》を賜った身。追い出すことは容易いのです」
「そのファイルと《リンドウ・アークス》は無関係だ」
「いえ。これこそ《リンドウ・アークス》が無意味な血税の結晶である医薬特区を呑み込んだ理由ですもの。ほんの少し調べれば、虫けらにだって理解できること」
「戦争を起こす気か……」
「どうとって頂いても結構ですよ。ですが一点だけ。これは提案ではなく、あくまで脅迫だということをお忘れなく。貴方がたは断る立場になくってよ?」
白雪が微笑む。もはや交渉の余地がないことは明らかだった。
海燕とエルが電撃的に反応――机上の
しかし――。
「汚らわしい手でお嬢に触れるな」
一切の無駄なく、完全に虚を突いたはずの海燕とエルの反応を凌ぐ速さで動いたのは赤毛の男。白雪は襲われると分かっていながら、背後の護衛に全幅の信頼を置いているのか、微動だにせず。
「海燕――ッ!」
渾身の蹴りを片手で受け止められながらエルが叫ぶ。海燕の左胸から、鋭利に伸びた赤毛の男の人差し指が引き抜かれる。
「不覚……」
その巌のような顔貌に無念を滲ませ、海燕の巨躯が沈む。エルはぎりと奥歯を噛み締めた。
「貴様ァッ!」
掴まれた足を振り解いて後退。
「てめえらは、ここで殺しといてやるッ!」
「お嬢」
「許可します」
エルが床を蹴る。壁や天井を縦横無尽に駆け回る神速の立体機動。赤毛の男は目で追うことを諦め、
赤毛の男は振り返る。同時に振るった腕はいつの間にか一振りの刃へと姿を変え。
「――あッ」
エルの右腕が舞う。振り抜いたはずの拳は宙をきりきりと舞いながら壁に当たって床に落ちる。エルは肩の傷口を抑え、苦鳴を噛み殺しながら吐き捨てる。
「あ、あぁッ、クソファッキンだ!」
「言葉遣いが汚いのはよくない」
赤毛の男の、剣と化していた腕が再び変化。今度は手首から先がトカレフを模した拳銃へと変わる。
「グッナイベイベー」
引き金を引く。発射された銃弾は八発。余すことなくエルの額へと叩きこまれる。頬骨から上が吹き飛んだエルが崩れ落ちる。
ソファの上では白雪が欠伸をしながら大きく伸びをする。
「残念でした。そして退屈でした」
「全くです」
赤毛の男は恭しく白雪をエスコートする。
「外はどうなっていますか?」
「既にリッチが。仕上げにこの建物も処理させます」
「よろしくお願いします」
赤毛の男が扉を開け、白雪が歩いていく。静かな通路には白雪の足音だけが小気味よく響く。その足取りは今にもスキップしそうなほど軽やかで。
白雪が勢いよく《クラブ・パレス》の入り口を開け放つ。陽光が差し込み、目の前に広がるのは一面の焼け野原。そこにあったはずの建物も、人も、全てが灰となって吹き飛んでいる。
「さぁて、戦争、始めましょうか」
くるりと、セーラー服を翻して振り返った白雪の、恍惚とした年相応の無邪気な笑みは真っ白な頬を鮮やかな朱に染め上げていた。
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