12/Over the loathing《2》

 朦朧とする意識のなかにありながら、公龍は二つの解答を得ていた。

 一つ目は、目の前に立ちはだかり、公龍とアルビスを殺すことに異常な執念を燃やす異形の怪物、その正体――。

 姿かたちは大きく人を逸脱し、前に対峙したときは僅かに感じられた理性さえも失った復讐と怨嗟の権化のかつての名を、公龍は知って――いや正確には――思い出していた。


「あんた、棗シロウだろ」


 公龍が何の脈絡もなく放った言葉に、〝解薬士狩り〟はぴくりと肩を震わせる。一拍遅れてアルビスが驚いたように声を上げた。


「なんだと?」

「娘の復讐なんだろ?」


〝解薬士狩り〟は答えず――あるいはもはや答えるための言語を持たないのか、複眼を忙しなく動かし、鉛色の双眸で公龍を見据えているだけ。そして視線に滲む憎悪は対話ではなく、殺戮を求めているのは明白だった。


「……まあ聞けよ。俺は今でも過剰摂取者アディクトはクソだと思ってる。憎いのも変わんねえ。だからてめえの娘に間違ったことをしたとは思っちゃいねえよ。もちろんやり過ぎたのは認めるけどな」


 棗シロウという男を、怪物へと変えたのは他でもない自分だ。それは姿形の話ではない。過去の憎悪に憑りつかれ、その魂を怨嗟で染め上げるきっかけとなったのは、かつての公龍が押さえきれなかった憎悪なのだ。

 憎しみの連鎖を、今ここで終着させる。


「てめえの復讐は止めねえよ。気持ちは分かる。事実、俺がてめえの娘をああなるまでぶっ潰したのは過剰摂取者アディクトへの憎しみみてえなもんをぶつけただけだったしよ。それに今だってぶっ潰してえ奴は大勢いるぜ? 復讐してえ奴なんざ、上げりゃキリがねえ。過剰摂取者アディクトはクソったれだが、この社会はもっとクソだ。だから止めねえ。てめえはな、少し前までの俺によく似てる。だからこそ、俺はここでてめえを超えていく」


 一歩前へと進み出た公龍はハンティングベストから取り出したアンプルを、回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターの弾倉へと装填。首筋の医薬機孔メディホールへと差し込む。

〝解薬士狩り〟が復讐を望んでここに立つならば、公龍はそれを己の全てをもって受け止め、そして超えていかなければならない。

 それがきっと、真の意味で桜華の死を乗り越えることになる。桜華と生まれてくるはずだった子供と、そしてクロエに恥じぬ己になるための第一歩となる。


「……口上は済んだか?」

「ああ。アルビス、また少し迷惑かけんぞ」

「いつものことだろう。今更気味が悪い。……だが、長くはもたないぞ」

「ああ。さっさと帰ろうぜ。待ってる奴がいる」


 公龍は口の端を吊り上げ、引き金を引く。流し込まれるのは燃えるような緋色クリムゾンをした原初の特殊調合薬オリジン・カクテル。人体への考慮など度外視し、ただ薬効だけを貪欲に追い求め続けた現代薬学の結晶にして禁忌が、公龍の身体を蹂躙した。


「うおおおおおおおおおあああああああああああああああああっ!」


 叫びとともに公龍の全身に血管が浮き上がり爆ぜる。沸騰したように全身の細胞が騒めき、宙へと拡散された公龍の血は螺旋を描きながら公龍の肢体を包んでいく。


「――――ィィィィイイイイアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」


〝解薬士狩り〟が雄叫びを上げて跳躍からの疾走。瞬きさえも許さぬ一瞬で一〇〇メートル近くあった間合いが詰まり、爪牙が閃く。

 凄絶な破壊音が響き、大量の血飛沫が舞う。

 肉体に別れを告げて宙を舞ったのは、赤黒く染まった〝解薬士狩り〟の右腕。

 収束――そして着装。

 血赤の鎧が顕現すると同時、右掌のなかでかたちを結んだ刃が〝解薬士狩り〟の腕を切り落としていた。

〝解薬士狩り〟は怯むことなく応戦。残る左腕をも振るい、公龍の喉元へと爪牙を突き立てる。しかし横から繰り出される無駄のない肘打ちがたなびく銀の疾風となって〝解薬士狩り〟の側頭へ。衝撃に頭蓋が凹み、頸椎が軋む。

 アルビスが肘打ちの重心移動そのままに、身を翻しながら〝解薬士狩り〟の懐へと潜り込む。不自然かつ不合理な体勢。しかし加えられた捻転によりそれをカバー。握った拳を真っ直ぐに突き上げる。それはまるで逆さ雷のように、アルビスの拳と〝解薬士狩り〟のあぎと――その双方が砕け散る大音声を響かせる。


「――公龍っ!」


 空中に打ち上げられた〝解薬士狩り〟が無防備を晒す。アルビスが呼ぶより先に、公龍の手には血が描く螺旋――結ばれる一条の長槍。


「うぉぉおおおおおおううううらぁぁああああああああっ!」


 公龍が地面を蹴る。長槍を抱えたままの爆発的な突撃。砕け散ったアスファルトを置き去りにして、赤い閃光が〝解薬士狩り〟の胸郭を穿つ。


「――ィィィイイイイギギギィィイイイイイッ!」


 吹き飛びながら、〝解薬士狩り〟は左腕で公龍の顔貌を抉る。吹き飛んだ頬から鮮血が迸り、瞬く間に血赤の鎧がそれを覆う。

 二人はそのまま旅客機の横っ腹に激突。大音声を響かせ、全長七〇メートル、重さにして一五〇トンを超える旅客機がくの字に拉げた。

 公龍は〝解薬士狩り〟を血の長槍で縫い留めたまま離脱。着地するや世界が一回転するほどの眩暈に見舞われて膝をつく。血赤の鎧は黒く渇いて表面から剥がれ落ちていく。傍らには全身から止めどなく血を流し、白皙の鉄仮面にいっそうの青ざめた白さを滲ませているアルビス。

 自らの命を大幅に削っての戦いも、もうお互いに限界を超えていた。二人が今ここに辛うじて立っているのは、精神力以外の何ものでもない。

 だが、そんな決死の覚悟を嘲笑うように、〝解薬士狩り〟の怨嗟が響き渡る。


「――ィィィィイイイイアアアアアアアアアアッ!」


 手から生え出た繊維によるかまいたちが旅客機を粉々に切断。胸に突き刺さった血の長槍を強引に圧し折って引き抜く。胸の穴も折れた首も斬り落とされた右腕も、異常な細胞分裂によって瞬く間に修復されていく。

 公龍の眼前に、絶望が立ちはだかる。

 それは首の皮一枚で辛うじて繋ぎ止めていた戦意を圧し折るのに十分だった。

 視界が歪む。もう手足の感覚はない。身体の芯が凍えるように冷たく、臓腑は燃えるように熱を発していた。頬から下を覆い、全身を絶えず循環している血赤の鎧に溺れるように、意識ごと沈んでいくようだった。

 もし二人が万全の状態だったならば、と意味のない妄想を思い浮かべては破って捨てる。

 差し迫るの感覚に、どんな現実逃避をしようとも身体は動かず、決して逃げることは叶わなかった。

 だが。


「……立て」


 青ざめた顔で直立し、やはり表情一つ動かさないアルビスが言う。張り付く喉を強引に抉じ開けて吐き出したような声は、ひどく掠れている。だがそれでも、朦朧と汚泥に沈んでいく公龍の意識にはっきりと響く。


「まだ、終わっていない。……立て」


 公龍はアルビスを見上げる。死にそうな顔だった。いや、もう一周回って何回か死んでいるのかもしれないとさえ思えた。だが、それなのに、目の前の相棒の薄青の双眸は、輝きを失ってはいなかった。その意志は折れてはいなかった。


「……終わらせはしない。超えるぞ。貴様と、私で」

「…………ったく、俺に、指図すんじゃ、ねえよ」


 差し伸べられた手を取る。

 てめえだって、俺を引っ張り起こすだけでふらついてるじゃねえか。そのくせに偉そうなこと言いやがって。

 心のなかでそう毒づき、立ち上がった公龍は再び前を向く。

 視線の先には再生を終え、死にぞこないの怨敵にトドメを刺さんと濁った息を吐く〝解薬士狩り〟の、棗シロウの異形。今度こそ殺すという凶暴極まる妄執を突き付けるように、その体躯が筋力を増して隆起する。

 泣いても笑っても、次の交錯が最後だ。

 公龍はもはやボロ雑巾よりもずたずたであろう肉体に鞭を打つ。血管が、毛細血管にいたるまで鮮明に鋭い痛みを発した。筋肉は火にくべられたように熱を持ち、骨は万力に掛けられたように軋む。

 だがそれでも、終わらせはしない。ここで怨嗟を、超えてみせる。


「ううううううううううらああああああああああああああああああっ!」


 皮膚を、血赤の鎧を食い千切るように公龍のなかから迸る血の螺旋。公龍の雄叫びに呼応するように、〝解薬士狩り〟――棗シロウも怨嗟の絶叫を響かせる。


「――――ィィィィイイイイイイイイイイイアアアアアアアアアアッ!」


 空気がギチギチと震え、孕む緊迫と鋭利な殺意が肌を刺した。


「――行くぞ」


 三者同時に地面を蹴る。全身が悲鳴を上げる。音が遠退き、匂いが消える。もう世界にはこの三人しかいなくなったのだとでも言うように、遍くを置き去りにして紡いだ螺旋に全てを懸けた。

 棗シロウが放つかまいたちが接敵より早く公龍へと襲い掛かる。構わない――。全身の血液を繊維が振り下ろされた右肩へと結集。肉に食い込む鋭利な斬撃を食い止めつつ、右の五指に生成した血の弾丸を放って進路を限定。

 振り抜かれた爪牙をアルビスが受ける。衝撃を相殺せんとする掌底。しかし掌から左下腕の半ばにまで棗の爪牙が食い込む。

 鮮血を散らしながら、アルビスの縦拳が胸を穿って肋骨を折り、続く踏み込みで頭突き――棗の顔面を粉砕。牙が折れ、涎混じりの血が飛散する。

 公龍も遅れを取ることなく踏み込み、振り抜いた拳で仰け反る棗の顔面を強打。そのまま地面へと叩きつける。

 確かな手ごたえ。だがまだだ。

 頭の半分をアスファルトに埋めながら、棗が四肢を絡めて公龍の腕を取る。あまりに軽い音とともに、いとも容易く骨が折れる。だがそれに飽き足らず、棗はさらに捻転。折れた骨が皮膚を突き破り、腕が捩じ切れる。血が噴き出す。血赤の鎧がどろどろと崩れていく。

 公龍の右腕を捩じ切った棗はその反動で反転して起き上がる。すかさずアルビスが隙を突いて掌底を繰り出すが、捩じ切った腕を投げて盾にしつつ棗は離脱。アルビスの一打は公龍の腕を圧し折って吹き飛ばす。


「――――ィィィィイイイイイイッ!」


 棗がアルビスの側面に回り込む。まるで頭突きの意趣返しとでも言わんばかり、頭からアルビスへと突っ込み、一本だけになった牙でアルビスの肩口を食い千切る。

 その様は人を超えた捕食者プレデターそのもの。根源的な恐怖を呷り、その存在だけで戦意を挫く異形。

 だがアルビスは退かない。普通の人間ならば、あるいは生命ならば、必ず後退りしてしまうような状況で、目の前に広がる死地のさらに奥へと踏み込んでいく。ついてこれるかと、その背で公龍を挑発するように。

 激痛を押し殺して繰り出すアルビスの手刀が棗の喉元を突く。たたらを踏んでえづく棗との距離をすかさず詰め、裏拳からの上段蹴り。カウンターに繰り出される爪牙を既に使い物にはならない左肩で受けつつ、アルビスは腰を落としてさらに踏み込む。


「はぁぁあああっ!」


 掌底が棗の左胸を捉える。貫く衝撃は背から棗の身体を食い破り、反動に耐え兼ねたアルビスの腕もまた肘から折れて血に濡れた白骨を露出する。

 だが棗が繰り出した爪牙もまたアルビスの腹を貫いている。背から突き出した禍々しく光る爪が血に濡れ、引き千切った広背筋の破片を握り潰す。

 苦鳴はない。この期に及んでそんなものを漏らせるほど、もう何もアルビスのなかには残っていない。

 だが全てを絞り出すことと引き換えに繋いだ好機。

 既に再生を始める棗の背後――。既に半分以上溶けた血赤の鎧をまとい、露出した左手に一振りの刃を握る公龍が踏み込む。

 荒々しく、全てを蹂躙する嵐のような激闘の結末は――――静寂。

 気迫漲る声もなく、満身創痍の肉体を奮い立たせる雄叫びもなく、あるいは怨嗟の叫びも世界を呪う断末魔もなく、ただ静かに、爆ぜて中身を露出した棗の背――肋骨と背骨の影で蠢く心臓へ、血の刃が振り下ろされる。

 三つの影が重なり、ふつと潰える命の気配が一つ。

 狂気と憎悪を超えた先に見えるのは、言い知れぬ虚無をおいて他になかった。


   †


 長い、長い静寂を経て。

 アルビスの腹から棗の腕が力なくずると抜ける。背から心臓を通り、胸を貫いていた刃は既に血へと還りかたちはなく。頭の重さにぐらりと揺れて骸となった棗シロウが頽れる。

 向かい合うかたちとなったアルビスと公龍は、互いの死にそうな顔を見て微かに口元を歪める。

 交わす言葉はない。

 ただ、どちらからともなく軽く握った拳を突き出し、相手の拳にこつと重ねる。

 それだけで、十分だった。

 瞬間、二人の身体はほぼ同時に揺らぎ、そのまま天を仰ぐようにしてゆっくりと、今度こそ訪れる闘争の終幕を願うように穏やかに、意識ごと砕けた地面へと沈んでいった。


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