11/Scampering in the pandemonium《3》

 不可視の触手が放つ打撃を、アルビスは拡張された五感で、公龍は動物じみた戦闘勘で、回避する。

 叩きつけられたコンテナが拉げ、あるいは地面が砕け、リフトカーが紙細工のように吹き飛ぶ。

 公龍は即座に左手の曲刀を流れる血液へと解き、回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターを抜く。抜く手も見せぬ早業で撃ち込まれるのは唐紅色カメリアのアンプル。五本の指先から血の弾丸が浮き上がり、公龍が腕を振るうやジェリー目がけて殺到する。

 ジェリーは触手を薙いで起こした豪風で血の銃弾を逸らす。逸らしきれなかった一発がジェリーへ迫って肩を貫くも、予想通り大したダメージは与えられない。

 間を置かず、触手の打撃を掻い潜ったアルビスが肉薄。左脇腹に掌底。衝撃がジェリーの柔い肉体を貫き、右脇腹が爆ぜる。しかし同時に放たれるジェリーの蹴りが鞭のように撓り、アルビスを打ち据える。アルビスは吹き飛び、出入り口のシャッターへ激突。注入されたウイルスも相まって口と目鼻から血を流す。


「効かない! 効かない! 効かないのよぉっ!」


 ジェリーが哄笑。地を這う触手がまだ立ち上がれないアルビスを狙う。


「させっかよっ!」


 アルビスの前に飛び込むのは公龍。血の弾丸を放ち、刀を振るい、触手を薙ぎ払う。だが――


「公龍!」


 アルビスの叫びは僅かに遅く。公龍の完全な死角から迫った触手が公龍の首筋へと食らいつく。公龍もすぐさま反応して食らいつく触手を切り落とすも、一瞬の接触で致死量のウイルスを流し込む触手との長すぎる接触は公龍の肉体に大きすぎるダメージを与える。


「ぐっ、がはっ」


 穴という穴からの膨大な出血。血の刀がかたちを保てずにどろりと崩れる。

 よろめく公龍にさらなる追い討ち。撓った触手が公龍を強かに打ち据える。吹き飛んだ公龍はコンテナに打ち上げられ、勢い余って地面へと転がり落ちる。


「ウフフフ……苦しみ悶え、後悔して死ぬのね。私たちに、あの方に歯向かったことを」


 ジェリーが恍惚とした表情で明後日の方向へ思いを馳せ、触手による鋭い打撃を放つ。

 今度は、アルビスはこれを紙一重で回避。まだ倒れたままの公龍を抱き起して跳躍。コンテナの影へと逃げ込んでジェリーの視認を避ける。しかし触手の一本一本が高感度なセンサーとして機能するのは先の虐殺からも明らか。この貨物庫のどこにも――いや、一五〇〇ヘクタールという広大な空港のどこにも、逃げ場はない。

 アルビスは逃げながら、自らの回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターで公龍に真天色スカイブルーのアンプルを投与。簡易的な万能解毒薬であるそれは細胞の活動を抑制することで炎症が広がることを抑える。無論それは一時しのぎでしかなく、根本的な解決には至らない。


「……く、そっ……てめえなんか、庇うんじゃ、なかったぜ」

「同感だ。慣れないことをするからこうなる」

「……うるせえな、がはっ」


 公龍が血を吐く。

 刹那、頭上から急降下してくる触手。アルビスは横っ飛びで回避。続いて左右から迫る別の触手を壁を蹴って躱す。空中で身動きの取れなくなったところを狙い撃つように、下から突き上げられた触手がアルビスを打ち抜く。

 二人は空中分解。別々に弾き飛ばされてそれぞれが床に転がる。


「ウフフ、さっきまでの威勢はどうしたのかしら? それとも、もう終わりなの?」


 ジェリーが狂気に爛々と光る双眸を剥く。吊り上げた口の端からこぼれた舌がじゅるりと涎を滴らせてアルビスたちを挑発する。アルビスたちにはもはや、その軽薄な挑発に軽口を返すだけの気力も残されてはいなかった。

 アルビスは思考する。この圧倒的な劣勢を覆すための方法を。

 打撃は効かない。アルビスの研鑽から生まれるあらゆる攻撃は、ジェリーを前には無意味だった。

 斬撃も効かない。どういうわけか、斬れなかったと言っていた公龍の血の刃はジェリーの肉体を切り裂くに至っている。だが打撃同様、圧倒的かつ無尽蔵な回復力の前では意味を為さない。

 ならば一体、何をもって倒せばいい。どう立ち回り、奴の触手を凌げばいい?

 明確な解答を得られないまま、時間だけがいたずらに過ぎ、アルビスたちの命をじわじわと奪っていく。こうなれば思いつく端から試すほかにない。

 考えている間にも、触手が襲い掛かる。アルビスは身を切って躱し、触手に手刀を叩きこむ。同時、痛覚を遮断する檸檬色ビビッドイエローと認知速度を上昇させる若竹色ペールグリーンのアンプルを立て続けに注入。朦朧とする意識を奮い立たせ、激痛と高熱を発する全身に鞭を打ち、コンテナの影から飛び出した。


「往生際が悪いわ」


 姿を再び晒したアルビスへ向けて触手が殺到。アルビスは辛うじて躱し切って再びコンテナの影へと飛び込む。

 時間がなかった。このまま戦いが長引けばアルビスも公龍もジェリーのウイルスにやられて昏倒するだろう。だがもはや間合いを詰め、寸前で触手の攻撃を見切りながら戦うだけの余力も残ってはいない。こうして距離を取り、相手の攻撃を予測した上でギリギリの回避を続けるのが精いっぱいだった。

 コンテナを突き破って触手が走る。アルビスは脚を取られて転倒。そのまま吊し上げられるも回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターの切っ先で強引に触手を切断。だが落下するより早く、撓った別の触手がアルビスを打ちつける。


「ぐっ……!」


 吹き飛んで壁に激突。肋骨が砕けるも檸檬色ビビッドイエローのアンプルの効果で痛みはない。肺から空気が絞り出されて喉がくぐもった苦鳴を漏らす。

 アルビスは追撃を転がりながら回避。見上げた視界――区画の一角に停車したトレーラーが目に入る。空輸されてきた貨物をここで積むか、あるいはこれから空輸する貨物を運んでくるかして、この騒動によって放置されたのだろう。何より、注目すべきはその中身だった。

 これしかない、とアルビスの直感が告げる。絶体絶命の窮地にあって、微かに見えた状況打破の光明。


「公龍っ! 生きているな?」

「るせえよ……誰に言ってんだ――あがっ」


 アルビスの叫びに公龍の声が返るも、触手に打たれ吹き飛ばされる音。もはや虚勢。強がりであることは明白だが、辛うじて意識ははっきりしている。問題は血液操作の能力が取り戻されているかだったが、強行以外の選択肢はない。アルビスは窓ガラスを叩き割ってトレーラーの扉を解錠。運転席へと乗り込む。


「何をしたって無駄よっ!」


 見えずともこちらの動きを把握しているジェリーの声。束ねられた触手が振るわれ、トレーラーのフロントガラスを打ち据える。ガラスが砕け、拉げた運転席が触手とともにアルビスを圧迫。アルビスは強引にアクセルを踏む。

 コンテナの間を抜けて加速。その間にも絡みつく触手が死のウイルスをアルビスへと流し込み続ける。

 吐血。薄青の瞳は赤く染まり、全身には紫斑が浮く。それでも尚、気力だけでアルビスはトレーラーを加速させる。

 間もなく、霞む視界にジェリーの朧げな姿を捉える。公龍は鈍色ガンメタルのアンプルで肉体を強化し、徒手空拳で迫る触手をいなしている。

 薙ぎ払われた触手による、横からの衝撃。トレーラーが傾いでそのまま横転。しかし乗った速度は殺しきれず、地面と車体の間に火花を散らしてジェリーに向けて迫る。

 しかしジェリーは触手を頭上へと伸ばし、その場からの離脱を図る。トレーラーは一瞬遅れて、ジェリーのいた空間を圧殺する。


「残念だったわねぇっ!」


 響く哄笑。


「抜かせ、残念なのは貴様だ――」


 横転の拍子に触手の拘束から逃れていたアルビスは運転席から飛び出して跳躍。ほんの一瞬にも満たない時間、公龍と交錯した視線だけで意図を伝えるには十分だった。


   †


 巻き付いた触手を、公龍は強化した膂力で強引に引き千切る。

 意識は既に朦朧としている。流し込まれたウイルスはとっくに致死量を超えている。

 だがそれでも、倒れなかった。負ける気もしなかった。

 拾い上げたこの命が、こんなところで尽きるなどあり得ない。

 けたたましいエンジン音とともにコンテナの影からトレーラーが躍り出る。運転席には血塗れのアルビスの姿が見えた。互いに既に満身創痍。その鬼気迫る姿から、これが最後の策であることを公龍も悟った。

 ジェリーの触手に打たれてトレーラーが横転。火花を散らしながら地面を滑り、勢いそのままにジェリーへと迫る。当然ジェリーは回避を選択。頭上に伸ばした触手で柱を掴み浮上。勝ち誇ったような歪な笑みが、光の屈折で浮き上がっていた。


「残念だったわねぇっ!」

「抜かせ、残念なのは貴様だ――」


 運転席から飛び出すアルビス。ほんの一瞬、視線が交錯。公龍はアルビスの意図を即座に理解する。引き抜いた回転式拳銃型注射器ピュリフィケイター唐紅色カメリアのアンプルを打ち込むや、両の五指に血の弾丸を生成――エボラウイルスの影響で崩れる先から強引に生成を繰り返す。


「うぉぉぉおおおうううっらぁぁぁあああっ!」


 咆哮とともに一斉放射。疾駆する血の弾丸はジェリーではなく、地面を擦るトレーラーの積み荷へ。


「……パーティーの締めくくりは、やっぱどデカい花火だろ」


 着弾。――同時に轟く爆音と凍えるような烈風が貨物庫内を蹂躙した。


   †


 凍えるような寒さに身震いをして、アルビスは目を覚ます。

 全身が鈍い激痛を発していた。爆発で吹き飛んだ鉄骨が太腿に突き刺さり、拉げたコンテナにもたれているアルビスを地面に縫い留めている。

 赤く染まった視界を拭って目を凝らせば、変わり果てた景色が広がっている。

 整然と並んでいたコンテナは一つ残らず大破。庫内は冷気に満たされてあらゆる場所に霜が降り、氷の間では僅かな爆炎が弱々しく揺らめいている。


「……てめえ、とんでも、ねえ、無茶苦茶、やりやがったな」


 掠れた声が聞こえた。見れば案外近い場所に仰向けになったまま天井を見上げている公龍がいた。


「生きていたか。狙いが外れた」

「るっせえよ……最後は、俺頼みだったくせに、態度、デケえぞ」

「私の機転で助かったんだ……泣いて感謝しろ」


 トレーラーの積み荷は液体窒素。沸点をマイナス一九六度とし、化学や工業分野において冷却材として重宝されるその物質は気化の瞬間、その体積を七〇〇倍に膨張させる。

 専用の特殊コンテナで密閉され、温度を保たれていた液体窒素は公龍の血の弾丸によって外気に触れ、急激に温度が上昇。気化の際に生じる体積の膨張を利用し、大爆発を引き起こしたのだった。

 自分たちさえ巻き込む捨て身の一手だったが、アルビスも、どうやら公龍も、紙一重で生きているらしい。残る問題はジェリー=ハニーの安否。だがどちらにせよ、もうアルビスたちに戦う力が残っていないのは明らかだった。

 ジェリーは中枢神経系を有する通常の哺乳類とは異なり、クラゲなどに近い散在神経系を有していた。そこにあの異常な再生能力が相まって、頭を吹き飛ばしても心臓を抉っても死なない驚異の兵士へとジェリーを仕立てていたのだ。

 部分的な破壊で倒せないならば、全てを同時に吹き飛ばす他ない。

 アルビスが絶体絶命のなかで導きだした結論だった。

 果たしてジェリーの不死は、アルビスの想定さえ遥かに凌駕していた。


「゛オ゛ノ゛レェエ……」


 庫内を満たす冷気のなかから響く怨嗟。白い靄の奥に、ぼんやりとジェリーの影が浮かぶ。


「……おい、マジか」


 公龍が驚愕を漏らす。だが一方でアルビスは落ち着いていた。


「コんな、ドごろデぇ……ワダ、わダヂが、ゴんナ…………」


 ゆらゆらと立ち上がったジェリーが歪な声を漏らす。右腕の触手が伸び――そして砕けた。踏み出した脚もまた砕け、ジェリーががくりと地面に沈む。

 液体窒素による瞬間凍結。身体のほとんどが水分であるジェリーを封じ込めるには、これ以上の方法は存在しないだろう。


「まだ、モッと、あノガダの、寵愛ヴォ……」


 間もなくジェリーの動きが完全に停止。半透明の肉体は氷の彫像と化してピクリとさえ動かなくなった。

 貨物庫に、冷ややかな静寂が訪れる。


「……終わった、のか」

「……ああ、ひとまずな」


 公龍が絞り出した呟きに、アルビスが答える。

 そう、まだ全てが終わったわけではない。医薬特区に関わる謎も、ジェリーとまだ見ぬ黒幕の目的も判明すらしていないのだ。

 だからまだ、アルビスたちは《東都》に落ちるこの巨大な陰謀を前にたった一矢を報いたに過ぎない。

 それでも今だけは、束の間の安堵と生き残ったことへの余韻を噛み締めていた。


   †


 新羽田空港ニイバネ一帯は大混乱をきたしていた。

 新型エボラウイルスが散布されたとの情報により、ニイバネへと繋がる五本の橋は完全封鎖。周辺を第四部門フォース・パワー他、動員された解薬士、警視庁、各種医療機関などが取り囲み、事態の詳細調査と収拾にあたっている。

 確実性が高い情報として判断されているのは被害の中心は第三ターミナルという情報のみ。現在、第三ターミナル内の状況確認のためドローンが送り込まれているらしいが、具体的な情報はまだ何一つとして判明してはいなかった。


「くそっ、中は一体どうなってやがんだよ」

「……お兄、きっと、あいつらなら、平気。殺しても、死なない、顔、してる」


 封鎖された橋の警備にあたりつつ、銀と花が言葉を交わす。

 歯がゆかった。自分たちが行ったところで何もできないのは分かっている。それどころか二人の戦いの邪魔にさえなりかねない。だが仮にも一時的な利害一致とは言え、組むと決めたが命を張って戦っているのを、こうして眺める他ないというのは耐えがたいことだ。


「畜生が」

「…………なんか、騒がしい?」


 苛立ちも露わに三角コーンを蹴り飛ばす銀をよそに、花は敏感に周囲の変化を感じ取る。花の視線を追えば、橋の中央に佇む影がゆっくりとバリケードに向かって歩いてきていた。

 もう決して涼しいとは言えない時期にも関わらず、影は長外套を着込んでいる。足取りと風貌だけなら酒に酔った浮浪者のようだが、銀も花もおよそ直感でそれがもっと異質な何かであることを悟った。


「ここは立ち入り禁止だ」


 第四部門フォース・パワーに所属する男が影に向かって進み出る。かなり威圧的な態度だが、影は気にも留めずに歩き続ける。


「おい、貴様聞いて――」


 瞬間、男の首が飛んだ。高々と宙を舞って地面に落ちる。熟れたトマトが潰れたように、割れた頭部からピンク色の脳味噌と赤い血がこぼれた。

 緊張が走り、解薬士たちは一斉に回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターを、警察関係者は拳銃を抜く。だがその場にいた誰が引き金を引くより早く、その場にいた全員の首が飛んだ。何が起きたのか理解もできないまま、身体に別れを告げさせられた頭が次々と地面に落ち、歪な音とともにアスファルトを汚していく。

 五〇名はいた警備がたったの一瞬で壊滅していた。中には名の通った解薬士もいたはずだった。それが何もできず、一瞬で殺された。


「……今の、なに」


 本能的に危険を察知し、応戦ではなく撤退を決め込んでいた銀は地面に伏せながら、呟く花の口を押さえる。生きていることが気取られれば何をされるか分からない。少なくとも、今しがた死んだ者たちよりもましなことになるとは思えなかった。

 銀はこの数日でメルティやジェリーという異形の怪物と対峙した。恐怖を克服し、全身全霊をもって戦うことを知った。

 だからこそ、理解できる。

 あの二人など、比べものにならないくらいに目の前の影が異質だということが。

 戦ってはいけない。

 理屈ではなかった。生き物として感じる当然の本能がそう告げていた。

 外套の影は向けられる敵意が消えたことを確認するや、再び歩き出す。

 銀はただ、祈るように地面に伏せたまま、存在感をひたすらに殺し、封鎖域を進んでいく背中を見送るしかなかった。

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