11/Scampering in the pandemonium《2》
「いやっ、いやだっ、あ、助け――――」
懇願とともに伸ばされた空港職員の女の手をアルビスは掴む。その刹那、紫斑が浮かぶ顔面が破裂。肩、胸、腹――と破裂は連鎖するように続き、女の命は消し飛んだ。
残ったのは最後まで生きたいと願って伸ばされた肘から先だけ。アルビスは返り血を浴びながら、その腕をそっと地面へと置いた。
アルビスは立ち尽くす。澪は血に汚れることも厭わずに、床に座り込んでいる。屍山血河のただなかで呆然と。
もはやターミナルの見渡せる範囲に、生きて動く人はいなかった。あれだけの賑わいを見せていた空の玄関に、今はただ無数の死が転がり、膨大な血が流れている。
アルビスと澪は誰一人として、救えなかったのだ。
不意に、
『第一ラウンドは、私の圧勝ねぇ。後輩クン』
「まだ続ける気か……」
『ウフフ、当たり前よ。貴方には、盾突いたことをもっと深く後悔してもらわないと』
ジェリーは愉悦と優越に浸りながら言う。
この
もちろんこの第三ターミナルでの悲劇は既にニイバネの内外に知れ渡っているだろう。当然、緊急避難が行われているだろうし、
『さて、避難が完了するまえに次にいくわよ。さぁ、今度は一人でも救えたらいいわね。もちろん、貴方たちがもてばの話だけれど』
「がふっ……」
突然に澪が血を吐く。首筋や頬に紫斑が浮かび、紅潮した顔で荒い呼吸を繰り返している。アルビスの鼻からも一筋の赤が滴り、左眼からは赤の涙がどろりと垂れた。視線を落として確認すれば血の海に沈む死者と揃いの、紫斑がアルビスの腕にも浮かんでいた。
ジェリーが撒き散らし続けた毒――その正体は、考えるまでもなかった。
「やはりエボラか」
『さすがね。とは言え、一般的なエボラウイルスじゃなく、出血性と即効性に重きを置いた
アルビスはにわかに起きた発熱に意識を朦朧とさせながら、よろめく足腰に力を込める。
直接、触手によってウイルスを流し込まれたわけではないとしても、夥しい数の返り血を浴び続けたのだ。生身である澪はもちろん、
「時間の問題だな……」
ジェリーと対峙するにあたり、宅間の身体を流れていたマイコトキシンの例もある以上、アルビスも毒物の可能性は想定していた。だがどんな毒物を使ってくるかまでを読み切ることは難しく、ましてそれが公になっていない生物兵器となれば対処の施しようがないのも当然だった。
アルビスは天井付近を漂っている触手を見上げる。もう先ほどのような尋常ではない数の触手はなかったが、十分にアルビスたちを縊り殺せるだけの本数は残っている。
そもそも四肢が無数に分岐すること自体、知らなかった。さらに、ターミナル一つ分に隈なく張り巡らすことのできるほどの展開も、これまで目にしてはいない。
つまり最初の邂逅も、ホテルや立体駐車場での戦いも、ジェリーは全力でなど戦っていなかったのだ。こちらが死力を尽くして挑んでくるのを侮っては嘲笑い、あるいは哀れみさえ抱きながら、遊んでいたに過ぎないのだ。
絶望的なまでの彼我の戦力差。
ジェリーが突き付ける通り、アルビスは無力だった。
最強などと謳われてきた。確かに体格には恵まれ、傭兵としての豊富な戦闘経験から瞬時の判断力にも優れている。
確かにアルビスは強いだろう。そこらの解薬士や、兵士、格闘家などと戦ってもまず負けることはない。
だが、それで最強だろうか。
少なくともアルビスは一度たりとも自分をそう思ったことはなかったし、また度重なって襲い来る事件が、アルビスが所詮はただの人に過ぎないことを突き付けてくる。
貴様は弱いのだ、と。
幾度となく死に瀕し、今もまたこうして死にかけているのが何よりの証左だ。だが――
「そんなことは、知っている」
今に始まったことではない。事実、解薬士として自分を凌ぐ才能を、アルビスは日々目の当たりにしているのだ。だが
ならばアルビスが、あるいは公龍が、何をもってして最強とされるのか。
答えは
「ジェリー=ハニー」
アルビスは氷柱のような声で無線越しの敵の名を呼んだ。不遜に、不敵に、圧倒的な強者さえをも見下すような鋭い表情。それはたとえ無数の犠牲を背負おうと、決して止まることも折れることもない
「貴様は噛みつく相手を間違えた」
『ウフフ、威勢もこの状況じゃ滑稽よ。もう貴方は終わり。無力を噛み締めて、私たちに盾突いたことを後悔して、惨めに死ぬのよ』
ジェリーが醸すのは当然の余裕。だがアルビスは動じなかった。
「貴様が噛みついたのは私じゃない。――――私たちだ」
『ウフフ、強がるのもいい加げ――――』
ジェリーがアルビスを嘲笑う刹那、耳を劈くような鋭い風切り音が走って通信が断ち切れた。
†
死角からの一閃は見事にジェリーの首を、手首の
血の刃も不意打ちならば機能するのか、あるいは単に自分の能力が高まったのか、少し考えてやっぱり止めた。どちらでもいいことだし、今はこいつを斬れるという事実だけが重要だった。
「よぉ、アルビス。やたらとご機嫌に死にそうだな。時間稼ぎご苦労さん」
『…………。場所は』
「北4ブロック一階、第三貨物庫」
『すぐに向かう』
「無理すんな。お前が来るまでもねえよ、死にぞこない」
『死にぞこないは貴様だろう。……病院にとんぼ返りしなくて済むよう、せいぜい逃げ回っておけ』
再会を、復活を、喜ぶ言葉も労う言葉もない。あるのはいつも通りの軽薄な罵り合い。それで十分だった。言葉など、必要ない。
「……おのれ……どうしてここに……」
ジェリーは切り落とされた頭を再生させながら、刃を肩に担ぐ人影を睨む。公龍は獰猛に白い歯を剥き、眼鏡のつるを指で押し上げて応じる。
「それは、ベッドで寝込んでるはずだろって意味か? それとも、何だ、どうやっててめえの居場所を突き止めたってぇ意味か?」
公龍は血刀を握っていないほうの手の指を噛み切る。迸った鮮血は螺旋を描いてかたちを結び、もう一振りの――禍々しく反り返った大振りの刃を形成した。
だが公龍が打ち込んだのは
「二刀流ってやつだ。男の憧れだろ、これ」
公龍は二刀を構えて腰を落とし、ジェリーが再生しきるより先に地面を蹴った。
ジェリーは即座に後退。しかし既に
「なんで起きたのかは、俺も知らねえんだわっ! だけどなぁ、死ぬほど寝たせいか、前の俺とはちょっと違うぜっ! ――うらぁぁっ!」
公龍は獣のように吼え、笑みさえ浮かべながらジェリーへと襲い掛かる。ジェリーは肉体を削がれ、斬り飛ばされるたびに再生を試みるが、それを凌ぐ圧倒的な手数と速度で公龍の剣閃が縦横無尽に走り続ける。
「力が漲るってのはこういうことなんだなぁっ! マンガみてえだっ!」
公龍の突き立てた血の
公龍は追い縋ってきた触手を無造作に斬り払い、血の刀の切っ先をジェリーへと向ける。
「んでもっててめえの居場所を突き止めた方法だけどよ。エボラに罹って脳味噌まで溶けたか? あんだけ無線LAN経由でハッキング仕掛けてりゃ、逆探知してくれって言ってるようなもんだろうがよ」
公龍の登場はジェリーにとって完全に想定外だったのだろう。再生を終えた半透明の顔貌には忸怩たる表情が過ぎる。
「さぁ、パーティだ。派手にぶちかますぜ」
公龍が踏み込む。一直線にコンテナまで跳び上がり、二刀の鮮血を振るう。ジェリーは触手を高速で射出し、真っ直ぐに公龍を穿つ。
「舐めないでちょうだい!」
「舐めてんのはてめえだろうがっ!」
公龍は曲刀でジェリーの触手を斬り払う。さらに一歩踏み込み、対の刃で逆袈裟の一閃。腹から背中までが見事に断ち切られ、腰から下に別れを告げたジェリーの上半身が宙を舞う。だが人外の異形はこの程度では死なない。
「いくら力が増そうと、そんな玩具では死なないわよ」
宙を舞いながら、ジェリーによって触手が放たれる。触れればエボラ実験種に感染し、出血と激痛をもたらす必殺の攻撃。
「だったら死ぬまで斬ってやるよっ!」
公龍はやはり真正面から触手を斬り捨て、宙を舞うジェリーへ向けて跳躍。刃をその胸へと突き立て、そのまま天井に縫い留める。だがジェリーは即座に肉体を水へと帰して地面へと逃れると同時、天井に刀を突き刺したまま留まっている公龍の背後を取る。
「あれ……やば」
「馬鹿ね――」
すぐさま元のかたちを得て反撃に移ろうとするジェリーが公龍を嘲る。しかしその背後から再生したばかりの後頭部へ、強烈な打撃が見舞われた。
「――馬鹿は貴様だ」
頭の吹き飛んだジェリーは慌てて退避。やはり顔がないと目が見えないのか、勢い余って積んであった段ボール箱を突き崩す。
ようやく天井から刀を抜いた公龍が地面へ降り立つ。既に銀灰色のスーツは血塗れで、端整な容姿が台無しとなった相棒に、にやにやと笑みを向ける。
「よう、アルビス。逃げたんじゃねえの?」
「馬鹿がもう一人いたな。大味なだけで攻撃にまるでセンスがない」
アルビスは挑発するように肩を竦める。公龍には一見いつも通りの振る舞いに見えたが、久々に顔を見た相棒は、やはり表情に乏しいせいで蓄積しているダメージの多寡が分かりづらい。
「ウイルスは平気なのか?」
「
「あの何でもワクチンか。……またえらい高い
「キティ・ザ・スウェッティとの戦いから得た教訓だ。そして金遣いについて、貴様にだけはとやかく言われる筋合いはない」
「けっ、せっかく死の淵から戻ったってのに、てめえと肩並べて戦わなきゃなんねえとか、俺が不憫で仕方がねえよ」
「だったら大人しく死んでおけ。そして世界が平和に一歩近づく」
「言ってろ」
公龍は腰を落として二刀を構え、アルビスも悠然と両腕を構える。頭部を再生させるジェリーは
「油断するなよ、公龍」
「てめえこそ死なずについてこいよ、アルビス」
ジェリーが引き金を引くと同時、カチリと噛み合うアルビスと公龍――二つの歯車の音。
間もなく、二人と一人は一斉に地面を蹴った。
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