11/Scampering in the pandemonium《1》

 新羽田空港ニイバネは一一区の海上――五本の大橋によって繋がれている。ホテルやモールを兼ね備えるターミナルの奥には、従来通りの広大な滑走路と最新鋭の輸送翼機トランスバードを運用するための巨大なタワー、止まり木ポータルが聳えている。

 アルビスたちが最も北側の橋であるグリーンラインを渡り、第三ターミナルに着いたころには、既に日が落ちかけていた。


「……ミスター・アーベント、今更ですが、どうジェリーを探し出すつもりで?」


 車を降りた澪がにわかに息を呑んで呟く。分かっていたことだが、こうも目の当たりにして抱く実感はほとんど絶望的と言って差し支えない。

 ニイバネの敷地面積はおよそ一五〇〇ヘクタール弱。震災期の地盤沈下や輸送翼機トランスバードの積極的な導入でかつてよりは面積が縮小されているらしいが、それでも広大な土地であることに変わりはない。

 加えて一日の利用者は平均しておよそ二万人。もちろんそれだけの人数がこの瞬間に一堂に会しているわけではないが、職員なども考慮すれば数千は下らない。

 そのなかから、半透明の肉体を持つ暗殺者を探さなければならない。

 もしジェリーが本気で身を潜め、機を伺って殺しに来ればアルビスたちの勝機は限りなく薄い。ここまで後手に回り続けている分、ジェリーを出し抜くための策を講じなければ圧倒的に不利な現状は覆せないだろう。

 そのために、車中ずっとニイバネを訪れたジェリーの意図を探っていたわけだが、ついぞ二人の間で納得できる推測には至らなかった。


「進みながら考えるしかないだろう。ただの感傷の旅ではないなら、奴は必ずどこかでこっちの動きを探ってくるはずだ」


 アルビスは回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターを取り出し、山吹色ブラッドオレンジのアンプルを打ち込む。五感が研ぎ澄まされ、まるで自分の指先や目や耳が、空気を伝って周囲へと行き渡っていくような感覚が訪れる。


「まずは管理室へ向かおう。ニイバネの詳細な図面が欲しい」

「分かりました」


 澪は頷き、自身も唯一の得物である拳銃を検める。たった一丁の拳銃、数発の銃弾ではジェリーを前にして玩具同然であることは理解しているだろうが、それでも立ち向かう意志を懐に抱えていることが重要だった。


「私の傍から離れるな。これより行動を開始する」


   †


 汐は走っていた。普段ならば決してあり得ないことだったが走っていた。

 便所サンダルが脱げて宙を舞う。楽で便利な履物だが、走るには邪魔なのでそのままもう片方も脱ぎ捨てる。露出した足の裏に、ひんやりとしたリノリウムの感触がした。

 警告音が近づいてくる。汐の登場にいち早く気づいた看護師が青ざめた表情で、一歩後退る。

 汐の向かった先は集中治療室ICU

 そう、他でもない公龍が眠っている場所である。


「……い、いった、い。なにが、おき、お、起きている……」


 普段全く運動しない――というより動かないせいか、全身が鉛のように重かった。急激に上昇した体温を下げるべく玉のような汗が噴き出し、胃やらと腹壁が擦れて脇腹が痛む。ボサボサの髪はさらに荒れ狂い、垂れ下がった前髪から覗いた落ち窪んだ眼窩に見据えられ、看護師がにわかに悲鳴を上げる。


「も、申し訳ございません、申し訳ございません、申し訳ございません」


 汐はただ聞いただけなのに、完全にパニックに陥った看護師は壊れたスピーカーよろしく、同じ言葉を繰り返す。目には涙を浮かべ、全身をガクガクと震わせていた。

 話にならん。

 毒づく余裕もなく、汐はふらふらとICUの中へ。中では破壊された機材が警告音を響かせていて、その間では先に駆けつけた看護師と医師が困惑した表情でを見つめている。

 公龍が消えた――。

 汐が、おそらく数年ぶりに、全力疾走するに至ったのはこれが理由だった。


「これは天常先生……」


 壮年の男性医師が汐に引き攣った顔を向ける。どいつもこいつも失礼過ぎるので、とりあえずあとで解剖して全員の口と肛門を繋いでやろうと決めた。


「あの、ドМイカレ、性犯罪者は、どこに……?」

「それが分かりません。一体、何が起きてるのやら。万が一、部外者の侵入の可能性も考慮して、今カメラの映像を調べてもらっています」


 男性医師は陳腐な応答を口にする。

 部外者の侵入などではないことは分かっている。そして誰かに連れ出されたのでなければ、公龍がここにいない理由は一つ。

 目覚めたのだ。

 汐はあり得ないとかぶりを振った。

 もちろん手術とその後の治療は完璧だった。欠損した腕も皮膚を突き破った肋骨も、元あった正しい状態へと汐が戻していた。

 だが公龍が目覚める気配はなかった。

 公龍の状態は世界の叡智である汐の手をもってしても命を繋ぐことが精いっぱいであり、一生昏睡状態にあることさえ想定せざるを得なかった。

 それなのに――。

 一体何があった?

 きっかけは何だ?

 何をどうすれば、瀕死状態で昏睡した人間が暴れ狂うほどの復活を遂げられるというのだ?

 汐はあらゆる学問を暇潰しに収め続け、世界最高頭脳と呼ばれるまでになった自らの前に突き付けられた未知に、にわかに恐怖を抱きながらも興奮していた。まだ何か、自分の知らない何かがこの世界にはあるのだという事実に、希望さえ抱いていた。

 だが同時に不愉快だった。

 一体何があった?

 繰り返す問いのなか、汐の思考は時間の流れを遡る。そして間もなく、一つの答えへと到達した。


「あの、メスガキか」


 汐は呟く。だが何が起きたのか、この場で理解することはついぞ叶わなかった。


   †


 ジェリーの目的は一体何か。

 宅間喜市の死に始まるジェリーの一連の行動には全て意味があった。だからこそ、一見すれば感傷的なジェリーの行動にも何か意図があるはずだとアルビスたちは踏んだ。あるいは何の意図もない感傷の旅だったとしてもいいように、あらゆる全てを想定していた。

 ――つもりだった。

 だが抜け落ちていた。巧妙に隠された陰謀に気を取られ、宅間もスサーナも常軌を逸するほどの猟奇的な方法で痛めつけられ、殺されていたことを。

 ジェリー=ハニーは、人の命など羽虫程度にしか思っていない、生粋の狂人なのだ。

 加えて自分たちはその狂人に真っ向から勝負を挑み、幾度となくその企てを妨害しようとしてきた。もはやファイルを持っているかどうかなど関係なく、アルビスたちは、奴らにとってれっきとした敵であって相違ない。

 アルビスは開いた自動ドアがターミナル内へと足を踏み入れ、そして息を呑んだ。慌てて澪を制止させる。不可解に思った澪は口を開きかけたが、アルビスの鋭い表情を見て言葉を呑む。アルビスは何事もないようにスーツケースを引きながらターミナル内を行き交う人々の姿を見回す。


「どう、しましたか……」

「……奴だ。既に仕掛けてきている。この空港中の人間を、人質に取ってな」

「な……」


 アルビスの拡張された五感だけが捉えられる光景。上下左右、あらゆる方向から錯綜する透明の触手が行き交う人々の周囲をたゆたっている。その触手の量はもはや数えようと思うことさえ愚かなほどに膨大に、ターミナルのなかを埋め尽くしている。

 アルビスの腕時計型端末コミュレットが振動。着信先は非通知。どうやらこのターミナル中を飛び交っている無線LANを通じてアルビスの端末にハッキングを仕掛けてきたらしい。現代傭兵ならばこの程度の電子戦は朝飯前というわけだ。アルビスはワンコールで着信に応答する。


「どういうつもりだ、貴様」


 ナイフよりも鋭い声でアルビスが問えば、妖艶な笑みが返ってくる。


『ウフフフ。随分と遅かったじゃない? 待ちくたびれたわよ、後輩クン』

「貴様の話を聞く気はない。どういうつもりだ?」

『見れば分かるでしょう? それと口の利き方には気を付けて。状況くらい、理解はできるでしょう?』


 アルビスは奥歯をギリと噛む。会話を続けつつ、ジェリーの姿を探したが目視はもちろん、五感で捉えることもできなかった。


「何が目的だ?」

『落とし前よ。散々邪魔をしてくれた貴方には罰が必要ってわけね。それがあの方の望みでもあるわ』

「……賢政会二代目会長、政岡白雪か」

『さあ、どうでしょう?』


 ジェリーは答えず、口のなかへ笑みを溢す。


『ウフフフ、優秀ね。男じゃなければパートナーにしたかったわ。あ、それともどうかしら? あのイカレボッチ野郎が死んで、席が空いてるの。貴方さえよければ、きっと迎え入れてくれるはず』

「寝言は寝てからにするんだな」


 アルビスは吐き捨てる。

 だがこれでジェリーには他の仲間がいることが確定した。さらに彼女が〝あの方〟と呼ぶ存在は明確な主従、あるいは序列関係を示している。


『そう、残念。それじゃあ、前夜祭を始めましょうか。誰も救えない、自分の無力を味わうといいわ』


 ジェリーの声音が鋭さを帯びる。たゆたう触手に緊張が走り、その先端が何も知らない人々を捉える。

 だが無辜の市民が触手の餌食となるより早く、ターミナル内に一発の銃声が響き渡る。澪が抜いた拳銃を頭上に構え、引き金を引いていた。

 ターミナル内を満たす静寂。人々は時が止まったように固まり、そしてアルビスたちが立つ扉の前へと視線を向ける。

 もう一発。一度は止めた時を、強引に蹴立てていくような。

 誰かが叫び、逃げ出す。悲鳴と恐怖は瞬く間に伝播し、人々は一斉に逃げ出す。

 澪はまるで羊を駆り立てる牧羊犬のように、人々との間を詰めては拳銃を放った。


「ミスター・アーベント。何となく事情は察しました。騒ぎが大きくなってすいません」

「いや、上出来だ」


 アルビスは澪に言って駆け出す。逃げ惑う人々の間を縫い、伸びる触手を辿る。


「ミス・アスカ! 撃ち続けるんだ」


 澪もアルビスに続いて並走。空になった弾倉に銃弾を再装填リロードし、頭上に掲げた拳銃で威嚇射撃を再開する。


「ぐあああああああああっ――――ぶべしっ」


 前方で断末魔。肌を紫色の発疹で埋めた男が悶えて破裂。血や肉片が飛び散って、あたりを汚す。

 続いて後方で。あるいは遠くの二階フロアで。男が、女が、子供が、老人が、旅行客が、職員が――。いかなる分別も存在しない、無差別の虐殺が始まる。


「いやぁぁぁぁっ!」


 人間の破裂という突然の悲劇が想起させるのは、まだ記憶に生々しく残る〝ラスティキック〟の人体錆化現象。人々はあっという間に先の銃弾など忘れ去ったような、狂乱と混沌に叩き落とされていく。

 アルビスは吹き飛んだ上半身を飛び越え、血溜まりを踏みつけながら触手を辿る。触手を掌底で破壊し、寸前のところで親子を守る。落ちていた鞄を触手に投げつけて蹲って震える老人を助ける。

 だが虐殺は造作もなく、恐ろしい速さで人々の命を摘み取っていく。

 誰も、有効な手立てを講じることはできなかった。

 為す術なく、およそろくに逃げ惑うことさえできずに触手に犯されて死んでいった。

 アルビスはただ、地獄と化したターミナルのなかで無力に等しい抵抗を繰り返すばかり。救おうと手を伸ばした先から、いとも簡単に命が零れ落ちていった。


「――――ジェェェェリィィィィイイイイッ!」


 混乱と狂気に追い縋るように、憤怒に満ちた咆哮が地獄の底で響き渡る。

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