10/A ray of light, blaze in the dark《1》
泣く声が聞こえた。
そこで泣いているのは一体誰だろうか。
分からなかった。
手を伸ばせば届きそうだった。声を発すれば伝わりそうだった。
だがどれもできなかった。
公龍はただひたすらに、底も果てもない闇のなかを漂っていた。
もうどれくらいの時間、そうしているのかは覚えていなかった。心の中で時を数え、無限の闇に閉じ込められた自分はもう二度とここから出ることはないのではないかと恐怖した。気が狂う前に数えるのは止めた。
闇は虚無だ。
そこには何もない。全てを漆黒で呑み込み、消し去っていく。
おそらくは公龍も、やがては闇のなかで虚無へと帰っていくのだろう。これはそれまでの、束の間の平穏なのだ。
泣く声が聞こえた。
すすり泣くような、絞り出された泣き声だった。
やはり公龍は、その泣き声に対して何もできない。
だが悲痛な泣き声は公龍の胸を切り裂くように、どこからか響いていた。
純白のセットアップに赤い滲みを広げながら、ゆっくりと倒れていく桜華の姿が脳裏を過ぎる。
あるいは
いつだってそうだった。
公龍の伸ばした手は、桜華の哀しみに、苦しみに届かない。
守れなかった。救えなかった。
現実から目を背け、幸せの残骸を見えない場所へと隠し、逃げ続けてきた。
そのツケが、桜華を殺した。
遠大な理想を抱いていたが故に、道を誤った最愛の人。
犯した罪を共に背負い、もう一度生きていくと決めた、ただ一人の愛した女。
公龍は一度ならず、二度までも、桜華のことを守れなかったのだ。
悔しさも怒りもあった。
それはいつだって不条理で残酷な現実にであり、何より自分自身に対してだ。
だが悠久のごとき続く虚無はそれすらも溶かしているようで、もううまく、自分の感情を認識できなかった。
桜華の声が遠退いていった。
きっと死後の世界なんてものはなくて、やはりこの虚無こそが全ての人間の終着点なのだろうか。
泣く声が聞こえた。
無数に、そして乱雑に重なり合う声だった。
誰かは大声で咽び泣き、誰かは押し殺した声で泣いていた。
だがやはりどの涙にも、公龍が差し伸べられるものはなかった。
やがて重なる泣き声は互いに溶けあい、完全に一つへと近づいていく。時が巻き戻されるような錯覚を覚えた。
これが虚無へ還るということなのかもしれない。
公龍はそう思った。そう思って、身を委ねた。
桜華を失った公龍に、きっと生きる意味などなかったのだ。
間もなく一つになった泣き声は、男のものだった。
男の声は深い哀しみを湛えて響き、やがてそれが怒りと憎しみへと塗り替えられていく。
公龍はその泣き声を知っていた。
名前も知らない、その男の泣き声を記憶はちゃんと覚えている。
自らに突き付けられた怨嗟と慟哭が、よみがえっていく――。
†
公龍は胸座を掴まれ、壁にどすと叩きつけられる。
大した衝撃ではなかった。だが力だけでは語り得ない、重みがあるような気がした。
最初のコードα――その想起。
過剰摂取者との遭遇、処置が終了して間もなく、周囲は警視庁によって封鎖された。
解析用の無人機と鑑識官、コードαの担当刑事が到着。阿木戸は逮捕され、彼の元に集まっていた未成年者は一人を除き、保護の名目でセラピーへと連行された。
現場に取り残され、間もなく病院へと搬送された一人の例外とは言うまでもなく、
公龍によって瀕死の重傷を負った彼女は、一命こそ取り留めてはいるものの意識不明。もし意識が戻ったとしても、無惨に傷つけられた身体が元のように動くことはないだろう、というのが救急隊員の見立てだった。
そのせいだろう。
そもそも解薬士である公龍たちが事後処理まで残っている必要はなかったが、アルビスも公龍も帰ろうとはせず現場に残っていた。アルビスは事の顛末を警察に報告しているらしいが、事務的なことの一切を拒否している公龍が残っているべき理由は本当に微塵もない。だがもしここで公龍が先に帰れば、まるでこの空気から逃げたみたいな気がするので、少なくともアルビスが立ち去るまでは飯でも食いながら暇を潰すつもりだった。
だがどうしてか、公龍が冷たく見下ろす目の前には、白髪交じりの男がいる。アルビスが刑事に事情説明をするべく離れてすぐ、封鎖されているはずの現場に駆け込んできたこの男は公龍に掴みかかったのだ。
腰を折って俯いているので顔は見えない。肩で荒い息をし、流れ続ける涙と鼻水が地面にぼたぼたと垂れていた。
「……貴様っ、貴様っ!」
男は息も絶え絶えにそう繰り返していた。突如として突き付けられた悲劇を感情が処理しきれていないのだろう。
「痛えな。気安く触ってんじゃねえぞ」
公龍は胸座を掴む腕を振り払った。痩せて骨張った腕は大した力もなく、簡単に振り解けるどころか、解いた拍子に男はよろめいて尻もちを突いた。
男は公龍を睨み上げた。だが腕同様に痩せた顔貌では、凄みよりも弱々しさのほうが目立った。
「何見てんだ、このジジイ」
逆に公龍が凄んで睨みつければ、男は引き攣った悲鳴を上げる。だが目の前の公龍がどれほど怖くとも、男は歯を食いしばってそこに踏み止まらなければならなかった。
「……娘を……、娘を、返せッ!」
男は叫んだ。公龍は男が誰なのかをおおまかに理解した。その上で、容赦なく男の足蹴にした。
「何寝ぼけたこと言ってやがる。てめえの娘なんざ知らねえよ。それとも何だ? てめえの嫁は腹のなかからバケモノを生んだのか?」
「貴様っ!」
男が立ち上がって公龍に掴みかかる。公龍ははらりと身を躱し、勢い余った男はつんのめって顔から地面へと転がった。
「いいか、ジジイ。いいことを教えておいてやる。どんな事情があったか知らねえがな、薬に溺れるなんざ、ゴミクズのやることだ。てめえがセックスした勢いで生まれちまったゴミクズを、俺が代わりに掃除してやったんだ。てめえは俺に感謝はしても、恨みつらみをぶつける権利なんざ欠片もねえんだよ」
暴論と罵倒。
これが全く正しくないことは、今でこそ理解できる。もちろん
「何だ、そのツラは?」
公龍は地面に倒れ込んだままこちらを睨む男に詰め寄る。男は怯えていたが、その怯懦を憤怒と憎悪で塗りつぶし、公龍に対峙していた。
「許さないっ、許さないっ! 俺は貴様を許さないっ!」
震える声で男が怒鳴る。公龍は吐き出された男の激情を鼻で笑ってあしらって、顔を背けた。
公龍は男の表情をよく知っていた。
それは大切なものを守れなかった者の顔だった。
決して取り戻せない喪失に、身が引き裂かれるような後悔を感じている顔だった。
桜華が――この世でたった一人の愛した女が、身籠った子供を喪ったときに見せた、絶望の表情だった。
「貴様、何をしている」
背後から突然聞こえた声に振り返る。見れば報告を終えたアルビスが、最悪のタイミングで戻ってきていた。
「許さない、絶対に許さない、許さない、許さない、綾子を返せ、許さない……」
男は呪詛のように繰り返し唸っていた。地面を握りしめた指の爪が剥がれて、血の痕がついた。
アルビスは公龍たちの様子から状況を理解したのだろう。公龍に向けてあからさまな溜息を吐き、項垂れる男へと歩み寄った。
「私は彼同様、今回のコードαに対応した解薬士だ。娘さんの件は、私たちの力不足だった」
「あ?」
アルビスが根も葉もないことを抜かすので、公龍が詰め寄った。アルビスは目線で黙れと告げてくる。公龍は威嚇するように舌打ちをする。
「貴方の娘は非常に危険だった。殺す気で戦わねば、こちらがやられていた」
男が顔を上げた。今度は困惑の表情を浮かべていた。別にどんな気構えで戦おうと、公龍があの
「私たち解薬士は、どんな理由があろうとも
「でもぉっ! 悪いのはあの男だろうっ! それなのにどうして娘が、綾子が、こんな目に遭わなくちゃならないっ? 綾子はいい子だったんだ! 頭もよくて優しくて――――それを、あの男とお前たちが全部奪ったんだっ!」
男が喚き、アルビスへと掴みかかる。すぐに手刀でも見舞ってぶっ飛ばすかと思いきや、アルビスは無抵抗のまま男に殴られた。いい気味だが、公龍は何故か釈然としなかった。
騒ぎに気づいた警官たちが慌てて駆けつけ、すぐに男を取り押さえる。男は連行されながら、公龍たちに向かって呪詛を吐いた。
「覚えておけ! 絶対に許さない! 綾子にしたことを、絶対にお前たちにも思い知らせてやる! 絶対に許さないっ! 必ず、必ず殺してやるっ!」
公龍は男を威嚇するように、あるいは一瞬でも過ぎってしまった桜華の表情を掻き消すように、落ちていた空き缶を思い切り蹴飛ばす。そしてそれから、この程度のことは自分にとって何でもないことを確かめるべく、いつものようにアルビスに噛みついてみる。
「ダセえな。宥めに入って殴られてやがる」
「黙れ。全て貴様のせいだろう」
アルビスは嫌悪を露わに冷ややかな視線を向ける。公龍は目を見開き、口の端を吊り上げて挑発する。
「さっきはああ言っておくしかなかったが、今日の貴様の行いは完全に過剰防衛だ。解薬士として不適切――いや、人間として完全に不適合だから、三代前の受精卵からやり直せ。そして願わくば世界に誕生するな」
「なんだ、方便か。急に庇い出したりしやがるから、既に腐ってる脳味噌が全身に回ったのかと思ったぜ」
「貴様がああだと、私が迷惑なんだ。庇ったわけではない」
「へぇそうですかい。なんとまあお優しいことで」
公龍は肩を竦め、アルビスに背を向ける。
「何でもいいが、力の誇示などというケツ丸出しの猿みたいなこと、いい加減にやめておけ」
「そういうてめえは、そうやって何でも見下して生きててさぞ楽しいだろうな」
「自分が下だという自覚はあるんだな」
「ぶっ飛ばす」
安い挑発に乗り、公龍は振り返る。しかしさっきまでいた場所には既にアルビスの姿はなく、停めた車に向かって歩き出している。
「てめえ……」
「もうここに用はない。帰るついでだから車に乗せてやってもいいが、頭を垂れて土を食ってお願いしろ」
「消えろ。さっさと帰れ。そんでもって二度と目の前に現れんな」
公龍はアルビスの背に向けて中指を立てる。鋭い勘で、ちらとこちらを見たアルビスが横に伸ばした腕の先、握り込んだ掌から突き出した親指を地面に向ける。
「クソ野郎が」
公龍が吐き捨てたそれが、アルビスに向けたものなのか、それとも自分に向けられたものなのか、自分でも分からなかった。
†
泣く声が聞こえた。
男の声は遠退き、思い起こされた景色は褪せて消えていく。
泣く声が聞こえた。
だが、それは正確には声ではなかった。
声はなかった。
あるのは静寂だった。
だが公龍はその声を確かに聴き、その存在を確かに感じられた。
そしてそれはこの虚無の只中において初めて、存在そのものが綻んでいく公龍を繋ぎ止めようとする何かだった。
多くを失い、また多くを奪ってきた自分の人生で、唯一救うことのできたものであると同時に、折れる寸前だった公龍を救ったもの。
たとえそれが喪失を分かち合い――ともすれば傷を舐め合うような痛々しい愛情だとしても。
そして今もまた、その声は、静寂は、公龍に手を差し伸べようとしている。
公龍は相変わらず虚無を漂っている。
だが虚無のなかで微かに感じられた静寂は、まるで闇に差す一条の光明のように。
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