09/A sudden turn《2》
アルビスはまるで踏み荒らすような足取りで、廊下の真ん中を突き進む。後ろでは落ち着けなどと宣いながらアルビスの進撃を止めようとする副総監。澪は副総監に睨まれながらも、アルビスとともに進むことを決めているようだった。
「おい、とまれっ! 今は来客があると言ってるのが聞こえんのか! いや、そうでなくとも一介の解毒屋風情が、アポイントもなく会えるような人ではないんだ――」
アルビスは振り返り、絶えない苦労のせいかすっかり太ってしまったという副総監を軽く払いのける。丸く膨らんだ身体はよろめき、風船のようにとはいかずとも鈍い音を立てて壁にぶつかる。
「形式にこだわるのは構わないが、事態は一刻を争っている。私は貴様らに付き合うつもりはないし、その姿勢が警察権力の現在における失墜を招いたことをもっと真摯に受け止めたほうがいい」
アルビスが振りかざした鉈より鋭く残酷な切れ味の正論に、副総監は言葉を失う。だが事実、あの震災の混乱した局面で政府や公的機関が対応にまごつく中、最も迅速に対処を始めたのがあの《リンドウ・アークス》なのだから、彼に反論の余地など微塵も存在しないのだ。
よって副総監は標的を変える。憮然とした銀髪の解毒屋よりも、自分よりも確実に立場が弱く、なおかつ女である澪に。
「あ、飛鳥警部! き、君もだ! だいたい担当者である君がしっかりと手綱を握っていないから――」
「失礼ですが、
澪もまた正論で真っ向から迎え撃った。副総監は反論に
「差し出がましいことを申し上げました。ですが、わたしは納得いくまで戦うことを止めたくありません。少なくとも、彼らと現場を共にするようになってから、わたしは彼らにそう学びました」
澪は副総監に敬礼。先に歩き出しているアルビスに小走りで追いつく。
「随分と言うようになったな。上司に噛みつくのは、この国の組織では御法度なのだろう?」
「時代ですよ。年長者への敬意は重要ですが、異を唱えることとそれとは別だと、もう多くの人が気づいています」
澪は肩を竦める。もう十分に分かっていることだが、飛鳥澪という刑事は単なる温室育ちの
そうこうしているうちに、アルビスたちは目的の警視総監室に到着する。頑健な扉を叩こうとすると、一瞬早く扉の方から先に開いた。
中から出てきたのは警視総監――ではなく、一組の男女。
男のほうは絵に描いたような金髪碧眼の白人。伊達男を気取っているつもりか、濃紺のストライプスーツに身を包んでいる。年齢はおそらくアルビスよりも一回り上、四〇手前程度だろう。
一方、女のほうはまだ若い。もし一〇代だと言われれば、そのまま納得できる。腰にかかるほどの烏の翼のような漆黒の髪に、冬景色さながらの白く透き通った肌。僅かに下がった目尻は温厚そうな雰囲気を醸してはいたが、瞳の奥に湛える光は鋭く、若さと美しさを凌ぐ凄みが感じられたのが強く脳裏に残る。
「ハァイ、コンニチワー」
男の方がすれ違うアルビスにひらひらと手を振る。アルビスは特に応じず、澪が小さく会釈をする。
知っているか、とアルビスは澪に視線を送ってみるものの、澪は首を横に振る。何かが引っかかり、アルビスは歩き去っていく男女の姿を振り返る。男の後ろ姿に
「いやぁ、待たせてしまったかな。すまなかったね。商談が長引いてしまって」
「商談……。貴様が言うとろくでもない響きだな」
アルビスは不遜に言い放つ。応接用のソファで紅茶の芳香を味わっている男が喉の奥でくつくつと笑った。
「確かにろくでもないかもしれんな。まあ、座り給え。そろそろ来るころだとは思っていた」
男は立ち上がって新しいカップを二つ用意し、アルビスたちの紅茶を注ぐ。香しい紅茶の芳香が部屋に広がっていくが、茶を楽しむような悠長な時間などあるはずもない。
†
「来ることを予期していたのなら、用件は分かっているな」
アルビスは座りもせず、紅茶を味わう屋船を見下ろす。貫いて見透かすような氷のような眼差しも、この男の前ではどんな意味も為さないらしく、屋船は優雅な所作で紅茶に角砂糖を落とす。
澪は部屋の扉の脇で直立していた。彼女にとって屋船は引き立ててくれた恩人でもあるので、さっきの副総監とはかなり勝手が違うらしい。
「
「分かっているなら話は早い。捜査権を取り返せ」
「無理だよ。相手は《リンドウ》。それに後ろには政府も控えている」
まるで世間話をするように、さらりと放たれた屋船の言葉に、アルビスはにわかに衝撃を受ける。普段は滅多に表情を表に出さない――出しても微々たるものでしかないアルビスが驚きを露わにしたのが面白いのか、屋船はまた喉の奥で笑い声を溢す。
「今回、どうやら
アルビスには屋船が何をどこまで知っているのかが分からなかった。だが今ここで屋船が明かさない以上、いかなる交渉術をもってしても隠された情報を引き出すことは不可能だった。
「ならば、貴様は、私たちに手を引けと言うつもりか」
アルビスは半歩身を乗り出して屋船を威圧する。もちろんどれだけ凄もうと、屋船が醸す余裕が突き崩れることはない。
「そうだね。そうなるね。加えて君は現在、
「警視総監、お言葉ですがわたしは――」
「分かっているとも。飛鳥君、君がその胸に抱く正義は何より尊い」
屋船の過保護な発言に澪が割り込むも、即座に制される。屋船は深く息を吐き、ゆったりと背もたれに屈強な身体を預ける。
「アーベント君、君はコードαの仕組みをどれくらい理解しているかね?」
「かつての
「……悪くないが、少し付け足そう。だがその民間開放にあって、治安維持の要である警察組織には一部捜査権限が残った。だが
アルビスは自ら話し、あるいは屋船の話を聞きつつもその真意を探った。投げかけられた問答のようにまどろっこしい会話に、一体どんな意図が隠されているのかを先読みする。たった一手でも読み遅れたり、読み間違えたりしてしまえば、また利用されるだけの駒に成り下がってしまう。
警視庁傘下の解薬士事務所は他の解薬士たちと異なり、表面上は業務委託のようなかたちを取る。《リンドウ・アークス》が発令するコードαを集約する受け皿として、警視庁が機能しているのだ。それは解薬士の界隈にあって、かなり変則的とも言える。
「なるほど。
「察しがよくて助かるよ。アーベント君、君と話すのは実に有意義だと思える」
屋船が頬に皺を刻む。後ろでは二人が至った納得に追いつけない澪が微かに困惑の表情を浮かべていた。
「つまりだ、ミス・アスカ。既にこの件に関して、私たちウロボロス解薬士所は警視庁より捜査権を委譲されている。だが今回の場合、政府や
「ということは、ミスター・アーベントはまだ捜査の権限を持っていると?」
澪が少なくとも結論だけは正確に理解して言った。最悪なことに、アルビスは屋船と同時に頷いてしまう。
「少々苦しい詭弁だがね。結局のところ、政府連中は理解不足なのだよ。《東都》の警察業務――特にコードαは既にその大部分が民間委譲されているという状況に、脳と制度が負いついていないのだ」
「貴様にとっては使い勝手のいい駒というわけだからな。もし上から文句を言われれば、独断と暴走によるものだと、いつでも切り捨てられる」
「できれば君のような優秀な駒は、切り捨てたくないものだね。アーベント君」
皮肉にしては些か棘のあり過ぎる言葉の応酬に空気が張り詰める。一瞬にして広がった硬質な沈黙を、すぐに屋船が咳払いで破った。
「そして飛鳥警部。抱えていたヤマが奪われ、君は暇になったというわけだ」
「……はい」
澪は苦虫を嚙み潰したような調子で肯定する。アルビス以上に
「そこで君に、僕の権限で特別休暇を与えることにした。日頃の研鑽と尽力に感謝、というわけだ」
「はい……?」
「当然だが休暇中、君がどこで何をしていようが不問だ。またいつかのように、たまたま事件を解決してくれたとして、僕は一向に構わない」
屋船が笑みを深くし、澪はそれに応えるように素早く手本のような敬礼をする。
アルビスは自分の捜査権が担保された時点である程度予測していた結果だったが、これで問題はクリアされた。
屋船はソファの上からアルビスと澪を交互に見上げる。視線はこちらが上なのに、まるで王が傅く兵に向けて命を言いつけているような錯覚を抱く。それほどに屋船有胤という男は読みがたく、捉えどころのない相手なのだ。
理知を湛えた眼差しが捉えているのは、いかなる結末か。
それを知るには、ただひたすらに突き進む他に道はない。
「さあ、存分にやってくれていい。どう転んでも君らは僕のお気に入りだ。くだらぬ火の粉は払っておく。この《東都》に巣食う闇を、暴こうじゃないか」
屋船はそう言って、やはりまたくつくつと笑っていた。
もう全て、手は打っている――。
屋船の笑みは底知れぬ深淵を覗かせながら、言外そう言っているようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます