07/Chaotic snow《1》

 アルビスはまだ感覚の希薄な身体をベッドの上で起こし、澪の報告へと耳を傾ける。

 見慣れた天常研究室の壁。嗅ぎ慣れた薬品と死体の腐乱臭。到底、人を癒すに適した場所とは思えないが、そんな常人の感覚など捻じ伏せるほどの医療技術が汐にはある。事実として、アスファルトと同化していたアルビスの無惨な身体は元に戻っているのだ。

 澪の話す内容はほとんど頭には入ってこなかった。もちろん身体に負ったダメージのせいだけではない。

 激闘から二日が経っていた。

 再生した肉体がアスファルトと癒着していたアルビスが汐の手による手術から目を覚ましたのが半日前。つまりアルビスは一日以上も眠っていたことになる。

 事件の命運を左右する戦いは結果から言えば敗北だった。いや戦いには勝ったと言ってもいいのかもしれない。だがスサーナの身柄を奪われた時点で、それはアルビスの力が及ばなかったことを意味する。

 その屈辱の光景は意識を失っていた間も薄れることはなく、今でも鮮明に思い出せる。


   †


 瓦礫の崩落でアルビスは左半身が潰れていた。大量の出血と肉体損壊によって直接摂取していた鉄灰色アイアングレーのアンプルの効果は薄れ、アルビスの意識は半ば狂気から戻りつつあったが動くことはできなかった。

 駆けつけた花が瓦礫の山のなかで銀を探す。アルビスにも銀がどこにいるのか、あるいは今も何とか生きているのか分からなかった。

 花の手が青みがかった血に塗れ、力なく座り込む。やがて離れた場所で大きな瓦礫が押しのけられて音を立てる。

 這い出てきたのはジェリー=ハニー。白皙の肢体はひどく傷つき、腕だけが半透明に伸びていた。肉体が水へと帰していたことが功を奏したのか、辛うじて立体駐車場の崩落による即死を免れたらしかった。

 そして現れたジェリーに、悲鳴が続いた。


「離してぇっ!」


 半透明の腕が泣き叫ぶスサーナを抱えていた。

 アルビスは身体を起こそうともがいた。だが無駄だった。


「助けてっ! 私を守るって言ったじゃないっ! ねえっ!」


 泣き叫ぶスサーナが手を伸ばす。アルビスにはその手を掴もうと、腕を上げることさえできない。

 ジェリーの逆の腕が伸び、隣りのビルの屋上の柵を掴む。ふわりと浮いたジェリーの身体が瓦礫の山から遠退いていく。


「いやぁっ、助けてぇっ! 助けてよっ!」


 スサーナの慟哭。間もなくジェリーとスサーナはビルの向こう側へと消えていく。

 姿が見えなくなって尚、その切実な叫びが耳にこびりつき、頭のなかで繰り返し響き続けていた。


   †


「――ミスター・アーベント……大丈夫ですか?」


 澪がアルビスの顔を覗きこむ。いつの間にか握っていた拳を解き、アルビスはかぶりを振る。どうやら思いの外疲れているらしい。張り詰めて、張り詰めて、張り詰めて、ついぞ伸び切ってしまったような、そんな感覚だった。


「……すまない。そのまま続けてくれ」


 アルビスはそんな内心を悟られぬよう、澪に先を促す。澪はしばらく黙した。何を言うべきか考えているようだった。


「思うところはあると思います。ですがメルティ=フレンドリィを撃破したというのは、誰が何を言おうと揺るぎ難い戦果です。少なくとも、ミスター・アーベント、あなたがあの場にいなければ被害はもっと広がっていたことは確実です」


 安い同情にならないように、感傷的になりすぎないように、澪の口調はアルビスの内心を慮ってか、事実だけを述べるような調子だった。

 アルビスは言葉を返さなかった。メルティを撃破したことと同様に、ジェリーに逃げられ、スサーナを奪われたことも事実なのだから。

 悔しさがないわけではない。だが後悔を感じられるほど、アルビスは感傷的ではなかった。ようやく整理がついてきた。ただ冷徹に、事態をどう収束させるべきか、ジェリー=ハニーという強敵をどう打ち滅ぼすべきかをこのとき既に思案していた。


「当然ですが、メルティ=フレンドリィは偽名でした。現在、回収した遺体を調べていますが、既に判明しているだけでも六人分の遺伝子情報が見つかっており、個人の特定に意味があるかは分かりません」

「まるでキメラだな」

「現在、科捜研で水鳥が検死にあたっていますが、普通の人間とは明らかに構造が違うようで詳細については少し時間が掛かっています」

「そうか。彼女なら問題なさそうだ。ジェリーの行方については、何か手掛かりがあったか?」


 澪は悔しそうに唇を歪めて首を横に振る。


「……そちらも不明です。誘拐された盛永スサーナ氏の安否も確認できません」

「まずはそこからか。ジェリーの目的は彼女が持つファイルだ。聞き出す必要がある以上、すぐに殺されはしないだろう。もちろん、一刻も早く救出すべきことに変わりはないが」

「それで、ミスター・アーベント」

「何だ?」


 改まった澪にアルビスは首を傾げる。澪はギブスで固定された腕を器用に使って腕時計端末コミュレットを操作する。盤面に浮かび上がった立体映像ホログラムをアルビスへと向ける。


「ジェリー=ハニーの身元か」

「はい。彼女はメルティ=フレンドリィと異なり、一人の人間でした。顔もとほとんど変わっていません」


 澪の言う通り、ジェリーは記録上の故人だった。

 本名はスーザン・アビゲイル。享年二七歳。父母ともに外国籍だが、母方の祖母が日本人らしく、震災の少し前に日本へ父母とともに移住してきた。かの震災では父母を失い、祖母は感染症に罹患。《東都》の成立と同時に息を引き取る。天涯孤独の身となったスーザンはその後――


「やはり解薬士か」

「ご存知だったんですね?」


 互助組織サークル無垢なる庭園イノセント・ガーデン》傘下のファグナー解薬社に属する中堅解薬士。それがスーザン・アビゲイルの持つ経歴だった。


「いいや。戦闘の最中、奴が回転式拳銃型注射器ピュリフィケイター特殊調合薬カクテルを使用していたんだ。だが、死んでいるというのは驚いたな。どういうことだ?」


 記録上、スーザン・アビゲイルは解薬士としてコードα遂行中にパートナーとともに死亡したことになっている。アルビスと公龍が事務所を開くより前の話だった。


「分かりません。ですが、《東都》の根幹を揺るがす事態に発展しかねないと、私は思います」


 澪の表情は険しい。

 だがそれもそのはずだ。。その事実がもたらす意味は、この《東都》においては殊更に大きい。

 特別復興指定都市になっている《東都》は追跡可能性トレーサビリティを突き詰めた社会――ある種の管理社会であると言える。

 たとえば物資の流通。必要な場所に必要な分だけの的確に物資を運搬していくための前提条件として、まずどの物資がどれだけどこに存在しているのか、を正確に把握していく必要がある。

 あるいは行方不明者の安否や、感染症の拡大経路に関する調査についても同様だ。誰がどこでどんな人間と接触したのか。どこへ向かってどんな手段で移動していたのか。そうした断片的な情報を統合し、捜査や対策にあたることで早期の発見や被害の縮小を目指す。

 つまり個人から物資の一つ至るまで、《東都》ではそれがどこからやって来てどこへ向かうものなのかが詳らかになっている。

 そして《東都》がそうした追跡可能性トレーサビリティを根幹に据える以上、それは誤りがあるものであってはならない。

 死んだと記録された人間が、実は生きているなど、あってはならないのだ。ましてそれが解薬士となれば、不可解さはさらに極まる。


「解薬士はもし殉職すれば肉体を徹底的に調べられるはずだ。別人の死体だとすれば、気付かないはずがない」

「それは存じています。ですが現場に残されていた細胞片からも、スーザン・アビゲイルと一致するDNAが検出されていますので、まず間違いありません」

「……〝X〟は人体の愚弄のみならず、《東都》の追跡可能性トレーサビリティさえ欺いてみせるか」

「一体、何者なんでしょう」


 澪は溜息を吐くように言う。だが現状では推測の言葉すら口にすることができなかった。組織か個人か、それすらも分からなかった。

 ただ一つ確実なのは、進んだ先――軌道の果てには必ず〝X〟が存在しているはずだということ。


「まずはスサーナとジェリーの行方だ。すぐに動きたい。銀と花は?」

「犬飼さんは既に動いてくれています。女部田さんも、ミスター・アーベントの数時間前に目を覚ましています。もうじき動けるようになるかと」

「もうじき、じゃねえ。今すぐ、だ」


 声が聞こえ、アルビスたちは同時に扉のほうを見る。隣りの別室で起きたらしい銀が、全身をガーゼで覆い、松葉杖を突きながら立っていた。


「生きていて何よりだ、銀」

「銀じゃねえシルバーだ」

「少し小さくなったか?」

「うっせえな。身体が三分の一溶けたんだ。てめえみたいに薬物でほいほいチートできる身体じゃなきゃ、こうなるのが当然なんだよ」


 解薬士は天賦の素質がものを言う。公龍やアルビスのようにどんな特殊調合薬カクテルに対しても高い適性を持つ者がいれば、銀はその逆。神経物質の制御中枢に作用する緑色系統の特殊調合薬カクテルにしか適性がないのだ。

 だが銀はよくやった方だろう。実力だけで考えれば、メルティに瞬殺されてもおかしくはなかった。もちろんアルビスはそうならないと踏んで、立体駐車場での戦闘を画策したわけだが、今もこうして三人の命があるのは各々が銀が果たした役割が大きいことは否めない。


「リハビリが必要か?」

「んなもん寝ながら済ました。無所属フリー舐めんなよ」


 銀は鼻を鳴らす。だが当然、それがやせ我慢の虚勢であることは分かっている。だが男がいけると言い張る以上、無暗な心配や温情は不必要だ。


「ならば以前言っていた通りに動いてくれ。政治ジャーナリストとホームレスだったな。スサーナの居場所、ジェリーの行方が必要だ。どんなに些細でも構わない。情報を掻き集めてくれ」

「あいよ、任せとけ」


 銀が親指を立てるサムズアップ。アルビスは冷たい眼差しで銀を見る。


「だが目的を忘れるな。お前は花を守るために動く。事件の解決は私と公龍の仕事だ」

「分かってるよ。これから調べる情報は、あくまでお前らへの依頼報酬」

「そういうことだ」


 アルビスは腕に刺さる点滴を抜いて立ち上がる。枕元の機材が警告音を鳴らしたのでコードを抜いて電源を落とす。


「ミス・アスカは引き続き捜査本部に加わって捜査を進めてくれ。できれば内通者の炙り出しを頼む」

「分かりました。何かあればすぐに連絡します」


 アルビスは病院着を脱ぎ、白磁のような肉体を露わにする。鍛え上げられた全身は筋肉の鎧と化すと同時、今日までの研磨と激闘の壮絶さを物語る無数の傷が刻まれている。佇まいからすら醸される凄絶に、澪と銀が息を呑んでいた。アルビスは黙々と畳んであったシャツとスーツに袖を通して着替えを終える。

 いつまで経っても消えていない気配に振り返れば、包帯から見え隠れする銀の口元が、不自然に弛んでいる。


「……どうした?」

「いいや。ふとさ、なんかチームっぽくていいなと思ってな」

「今さっき言っただろう。依頼主と解薬士。貴様らとの関係はそれだけだ」

「分かってんよ。でも、なんか、俺ぁこういうの久しぶりだからよ。ちったぁ嬉しいわけ」

「薄ら寒いから止めろ。全て終わればただの競合に戻るだけだ」

「へいへい。鉄仮面様は冷たいことで」


 銀は肩を竦める。松葉杖を突き、全身を引き摺りながら引き上げていく。

 着替えたアルビスはネクタイを緩く締め、最後に腕時計端末コミュレットを装着する。左半身の感覚もだいぶ取り戻されている。完全復調にはあと数日と言ったところだろうか。

 アルビスは左拳を強く握りしめる。

 敗北を喫した。辛酸を舐め、屈辱を味わった。肉体は崩れ、魂は狂気に侵された。相棒さえ唐突に失い、自らも生死の淵を彷徨った。辛うじて生き永らえはしたが、だがしかし精神は折れかけた。

 それでも――。

 それでも退くことはできなかった。

 それはまるで、自らに課した呪い。

 アルビスは戦い続けるという自らの軌道から、決して逃れることはできず。

 ただ破滅的な加速感に身を委ね、いつか行き着くだろう果てへ進むしかなかった。

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