06/The chase & crash《4》
銀は縺れるように数歩進み、そして糸の切れた人形のように地面に崩れる。
もう指の一本だって動かせる気がしない。全身を苛む激痛さえ感じられないのは、きっと脳が本能的に銀の精神を守るべく痛覚を放棄したに違いない。
覚悟を決めた矢先でこれか。
銀はぼやけた意識で自分を冷笑する。
今なら、これからいくらだって強くなれる気がする。アルビスや公龍にも引けを取らず、もう花に狙撃銃なんて物騒なものを担がせることもないほどに、強く。
だがこの有様だ。
戦う覚悟を手に入れた代わりに、身体のあちこちが溶けて消えた。覚悟によって実力以上の力が出せたことは間違いないが、身体が無ければそもそも戦うことができない。花を守ることができない。なんとも皮肉な話だ。
意識が遠退く。初めての経験だがなんとなく分かる。もしここで意識の手綱を手放せば、それはもう二度と銀の手の中に戻ってくることはないのだろう。
それでも不思議と気持ちは穏やかだった。
やり切ったのだ。恐怖を克服し、全てを出し切り、人の身では到底敵うはずもないバケモノを倒した。銀の平凡な人生にしては、上々の終わり方じゃないか。
銀はとうとう意識の手綱を手放し、
「「…………ダチィィ」」
――それが完全に掻き消える寸前、紙一重で掴み直した。
立ち上がる気配。砂礫と化したアスファルトが落ちる不吉な音。荒い息遣いが聞こえ、滴る強酸が地面を溶かす、しゅうしゅうという音を響かせる。
そんな、あり得ない。
手応えは確かにあった。頭蓋を砕き、脳を抉り、衝撃は頸椎を圧し折った。それなのに。
花を守るという思い以外の全てを捨て、挑んだ決死の一撃でさえもその命には届かないと。
彼我の間に横たわる、天地よりも尚広いこの圧倒的な差は。
「「オトモダチィィ……」」
瀕死の銀に、無情な現実を告げる。
それは銀の無力を嘲笑うように、覆しがたい死を突き付ける。
†
降り注ぐ半透明の連撃を掻い潜り懐へ。繰り出した掌底が顎から上を吹き飛ばし、見舞う蹴りが腹を切り裂く。血の代わりに舞う水飛沫。既に頬骨まで再生した顔に刻まれる、にたりとした粘着質な笑み。
刹那、引き戻されていた右腕がアルビスの首を鷲掴み。鞭のように撓った左脚がアルビスの足を払い、首を支点にアルビスを押し倒す。突き刺す痛みと鈍い衝撃。アルビスはすぐさまジェリーの右腕を捩じ切って離脱。その右腕も、すぐに再生する。
「全身がトカゲの尻尾だな」
「失礼ね、あんな下等生物と一緒にしないでくれる?」
ジェリーの方から間合いを詰める。アルビスも応じて即座に踏み込む。
距離を取れば完全にジェリーの間合い。一方的な攻撃に晒されることは避けなければならない。だが、だからといってジェリーは接近戦において後れを取るわけではない。体格で勝るアルビスと互角以上の戦いを繰り広げている。
「遅いわ」
鋭く突き出された二本指が薄青の瞳を狙う。アルビスは手刀でその刺突を払いのけ、がら空きの頸椎に肘打ち。間を置かずに胸へ膝蹴りを見舞い、掌底で脇腹を穿つ。ジェリーも応戦し、伸展させたもう片方の腕を薙ぐ。アルビスは掲げた腕で防御。鋭い痛みが走り、再び彼我の距離が開く。
触腕が内包する刺胞によって、こちらは触れられるだけで致命打。しかしアルビスがいくら致命打を見舞おうと、渾身の一撃を繰り出そうと、ジェリーに肢体の前には意味を為さない。
実力は拮抗。だがダメージはアルビスにばかり蓄積し、戦局は一方的に傾いている。
「残念ね、踏み込みが甘くなってるのよ」
嗜虐的な笑み。アルビスはその意味を、公龍がもたらした情報によって知っている。
ジェリーが触れた部分を中心に全身へと広がる、焼けるような激痛。首元、腕、脇腹など至る所が焼け爛れ、赤く腫れあがっている。
たとえアルビスと言えど、全ての攻撃を躱し切ることはできない。本来、近接戦闘は受ける攻撃と躱す攻撃を一瞬の判断で選別しながら相手を倒すものなのだ。その点、触れさえすればいいジェリーは格闘術を極めたと言えるアルビスにとっては組みづらい敵だった。
「クラゲか」
「悪くないわね。海に浮かぶ月。儚くて、美しくて、清い。まさに私。……そしてそんな私はお前を倒し、あの腐れ売女を奪い、あの方の愛を手に入れるの」
ジェリーの恍惚。不可解に詩的な言動はアルビスの背筋に悪寒を走らせる。
狂的。乞うように、繰り返し友と叫び続けるメルティの狂気ばかりが目立っていたが、彼女もまた一つの狂気の――ことさらに深い業のただなかにあるのだ。
アルビスは冷静だった。狂気に対峙するのに必要なのは狂気。だがその手綱は決して離してはならない。深淵に覗かれ、深遠を覗く自己をあたかも他人のように覗く自己。
「分かっていないな。あの方とやらは貴様より、腐れ売女に執心なんだ。都合のいい道具が夢を見ることほど痛々しいことはない」
アルビスの挑発にも、ジェリーが見せる余裕の表情は崩れない。
愛されること――誰かの
愛情でも恋慕でもない。形容するなら極大の信仰とでも言うような、絶対的で一方的な信心がジェリーの根幹なのだと悟る。
「面白いこと言うのね。でもそろそろ、終わりにするわ。あの方が待ってるの」
嗤うジェリーに、アルビスの驚愕が続く。膨れ上がったジェリーの腹から得物が引き抜かれる。おそらくは追走劇でのショットガンなどもこの方法で収納されていたのだろう。
だが問題は引き抜いた得物そのもの。
銃口の代わり、鋭利な針が取り付けられた
見覚えのある武器。解薬士のみが持つことを許された一丁の拳銃。
「驚いた? 遊びはここまで。ここからがお仕事の時間よ、後輩くん」
答えは自明。だがアルビスの理解が追いつくより先に、ジェリーが引き金を引く。胸に突き立てたそれは半透明の身体に鈍色の薬液を注入。色は瞬く間に霧散し、半透明の肢体のなかへと紛れていく。
ジェリーの四肢が伸展と膨張。未だかつてない暴威。撓る大樹のごとき触腕は苛烈さを増す。
まるで荒れ狂う河川の水流が大地を削り取るように。車の鋼鉄を拉げさせ、アスファルトの柱を砕いていく。
アルビスは後退を余儀なくされる。しかし毒によって蓄積されたダメージが僅かなズレを生み、回避動作に致命的な隙を生じさせる。
死角からの一撃がアルビスを打った。吹き飛ばされて地面を転がり、落下防止のフェンスに激突。
追撃――大質量の触腕が振り下ろされる。
回避は叶わない。地面もろとも叩き伏せられたアルビスは瓦礫を引き連れて落下。すぐに立ち上がったアルビスの視界の隅に、強酸に塗れたまま地面に突っ伏す銀と、その銀に向けてゆっくりと進むメルティの姿が映る。
陥没した頭蓋からはみ出した脳味噌。眼球はこぼれ、頬の下のあたりでゆらゆらと揺れている。
「「オトモダチッ、オトモダチッ」」
メルティが顔を上げ、上の階から落ちてきたアルビスの存在に気づく。ジェリーは触腕をうねらせながら階下に現れ、アルビスを見下ろす。
二対一。銀は戦闘不能。花の狙撃支援は健在だが、規格外の強さをもつ異形の二人が相手ではあまりに分が悪い。
勝敗はもはや決していた。
アルビスはこの状況下だからこその冷静な思考で結論づける。
もしここから生き延びることを選ぶならば、取るべき手段は撤退の一手。奴らの第一目的がスサーナの身柄である以上、それさえ見限ればアルビスたちが助かる可能性はある。
だが同じ相手に二度までも、撤退するなどという不名誉は断じて許容できない。
まして公龍がいないなかでの失態などあってはならない。
ならば――。
アルビスは
迷いはなかった。
目には目を、歯には歯を。狂気には狂気を――。
自らの白磁の肌に突き刺した
流し込まれた
折れた骨が繋がり、歪な接合を施された部分が肥大化し、皮膚を突き破る。千切れた筋繊維は強固に結び直され、さらなる膨張を続けてはアルビスの肉体を一回り、二回りと覆っていく。理性は粉微塵に吹き飛び、アルビスは一匹の獣へと変貌する。
「ぐぅぅぅぅうううううううううがああああああああああああああああああっ!」
地面を蹴った。アスファルトが砕け散る爆発的膂力。反応さえ許さない一瞬でメルティへと肉薄。肘から生え出た骨でメルティの喉を突き刺す。酸膿が破れて強酸が噴き出す。アルビスは真正面からそれを浴びるが構わない。溶け出す先から肉体は再生していく。
強酸という武器を奪われたメルティは疣の浮く前脚でアルビスを掴む。
「うぐああああああっ!」
アルビスの咆哮。メルティの肩を力任せに鷲掴みにし、引き千切る。メルティの両肩から血が噴き出す。
「そっちも奥の手ってわけね!」
ジェリーの四肢が接近。容赦なく背中へと突き刺さるが、アルビスはこれさえ強引に引き千切り跳躍。手の甲を骨で覆われた拳を引き絞り、ジェリーの顔面へ。いかなる防御も意味はなさず、凄絶な衝撃にアルビスの拳もろともジェリーの首から上が吹き飛ぶ。
アルビスの拳は瞬く間に再生。ジェリーもぶくぶくと膨れ上がる水の身体が消失した頭を元に戻して――
「があああああああああああっ!」
アルビスはジェリーを掴んで地面へ。そしてジェリーの再生すら凌ぐ速度での連撃。拳が砕け、折れた腕の骨が肘を突き破る。再生と破壊を繰り返しながら、アルビスは一撃一撃が砲弾なみの威力をもった打撃でジェリーを磨り潰す。
アルビスの全身に、まだ頭の再生しきらないジェリーの触腕が巻き付く。刺胞で毒を打ち込み続け、同時に
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!」
アルビスの苦鳴。それは流し込まれる多量の毒によるものか、あるいは再生と破壊が絶えず続く自らの肉体によるものか。
拳を叩きつける。ジェリーの胴体もろとも地面が砕ける。全身に巻きつく触腕の拘束が解け、かたちを失い水へと変わる。
「「―――――ッ」」
喉が潰れ、声を失ったメルティが飛びかかる。アルビスは振り返りざまの裏拳。自らの肘から先を血と肉の霧と化す無造作な一撃は、メルティの胴体を分断。下半身は大きく痙攣して間もなく動かなくなり、上半身は吹き飛んで柱に埋まる。ぶら下がる背骨が浜に打ち上げられた魚よろしく、不規則に跳ねた。
「「――――ッ、――――ッ、――――ッ!」」
メルティの喉に空いた穴から強酸が溢れ出る。柱から地面に落ちたメルティはのたうち、強酸を撒き散らす。見苦しい抵抗。アルビスはトドメを刺すべく、駆け出し、そして――。
立体駐車場が崩落。
まるで全てを無に帰すように。
†
まさに急転直下だった。
度重なる衝撃と強酸による溶解。堅固につくられたアスファルトと鉄骨の塊は、アルビスらの凄絶極まる戦闘の衝撃に限界を迎えていた。
そしてアルビスの変貌とメルティが最後に撒き散らした強酸が決め手だったのだろう。限界をきたし、いつ崩れてもおかしくなかった立体駐車場はトドメを刺され、強引に戦いの幕を閉じたのだ。
花はスコープ越しに起きた出来事に唖然としていた。そして数秒のフリーズを経て、アルビスと銀が崩落に呑み込まれたことを思い出す。
一度思い出せば、居ても立っても居られなかった。
最初に見つけたのはアルビス。おそらくは崩れた瓦礫に半身を潰されたのだろう。絶えず再生を続ける狂った肉体はアスファルトを取り込み、左半身が完全に瓦礫と癒着している。
「……ア、アルビス、これ」
意識はあった。喋ることはできなかったが、光を失いつつある薄青の瞳が花を映して微かに揺れる。眼差しが花の心情を思いやり、銀を探せと言っていた。
花は瓦礫を退かす。崩落前の位置関係とアルビスの発見位置からおおよその銀の居場所にあたりをつける。しかし花のような少女の力で動かせる瓦礫は少なく、掌はすぐに傷ついて血塗れになった。
「……お兄っ、お兄っ!」
呼ぶ声にこたえる声はない。
花は乱暴に瓦礫を殴りつける。自分の手が痛んだだけで、瓦礫はびくともしなかった。
何をしていた。
銀は決死の覚悟でメルティに挑み、一撃を見舞って散った。
アルビスもまた深遠な狂気へと踏み込み、命を削って戦った。
花は――、見ていただけだった。何もしていなかった。
地面に沈んで動かなくなった銀に、メルティが近づいている瞬間。
アルビスが
できることはあった。
だが命を削り、血を散らし、魂さえも磨り潰すような激戦に、花は介入できなかった。
怖れたのだ。
アルビスも銀も、そしてメルティもジェリーも、抱える覚悟が違った。そのぶつかり合う戦場に花は無暗に立ち入る術をもたなかった。
もし立ち入ったとして、花にできることなど何もなかったかもしれない。だがそれでも、抗うことさえしようとしなかったのだ。
一瞬の躊躇が、恐怖が、取り返しのつかない事態を招いた。
「……お兄っ」
祈るように見上げた空は、星一つない無窮の闇を湛えている。
雨は上がっていた。
まるで涙を流す資格さえ、今の花にはないのだとでも言いたげに。
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