07/Chaotic snow《2》

 温いコーヒーの匂いが立ち込める。応接室のソファに浅く腰かけたリュウト・ファグナーは大仰に肩を竦め、咥えていた煙草の火を灰皿で揉み消した。


「ああ、アビーね。そりゃ覚えてるさ。もう三年も前だけどね。解薬士と聞きゃぁ、あんたみたいにしこたま強いか、そうでなくても血の気の多い荒くれどもが目立つ。世間のイメージだってそんなもんだろう? だけど実際は医者とか薬剤師とかにゃなれなくて、仕方なくこっちに流れ着いてきたような奴がほとんどだ。端っから解薬士なんて命がいくつあっても足りないような稼業につく物好きは、そう多くねえってことだ」


 アルビスは黙って聞きながら、このファグナー解薬社のオーナーは話が長いタイプだなと思う。


「うちはね、そういう落第組が大多数だ。命の危険があるような仕事はまず断る。せっかく育てた人材も、死んだら金の無駄になるからね。だがアビーはちょっと違ったんだ。だからよーく覚えてるのさ。あの子はさ、何て言うのかな、一生懸命に抗ってた」


 ファグナーは新しい煙草に火を点ける。

 解薬士事務所のなかにはコードαを受けないという方針を持つ事務所も一定数存在する。そうした事務所の解薬士はコードαに関連する調査の下請けや、前線に立つ他事務所のサポートなどを担うことで生計を立てている。

 ファグナー解薬社もそうした方針の事務所のようだった。


「そりゃぁ、うちでそんながむしゃらなことをやっちまえば浮く。よくは思ってない奴も多かったよ。俺ぁ嫌いじゃなかったがね、ああいうタマは」

「それで、私が聞きたいのは彼女の人となりパーソナリティについてではない。殉職した当時の状況が知りたい」


 アルビスが痺れを切らして本題に切り込むと、ファグナーは一瞬だけ眉を顰めた。何か隠し事をしているわけではない。単純にアルビスの問いを訝しんでいる。


「三年も前のことをかい? そんなもん聞いてどうするんだい?」

「今、私が受けている依頼との類似点が見込まれる。直接的な関係性はないだろうが、それでも情報の精査をしておきたいんだ」


 多少苦しい言い訳だった。だがスーザン・アビゲイルがジェリー=ハニーと変貌して今も生きているというのは警視庁とアルビスたちしか知らない極秘だ。いくら昔の上司と言えど、素直に教えてやることはできない。


「そうかい。まあいいさ。そもそもあれは、誰かが死ぬような案件じゃぁなかったんだ――」


 ファグナー曰く、それは引き受けた当初はコードαではなかったという。

 廃区から都市部に流れ込んだ汚水の採取と内容物の検査。近隣住民の執拗な苦情から端を発した案件だった。

 だが蓋を開けてみればスーザン・アビゲイルとそのパートナーは殉職。

 連絡が途絶えたことを不自然に思った指導役メンターの解薬士が現場に向かったところ、問題となっている河川に浮かぶ二人の焼死体が発見されたそうだ。

 原因は不明。

 その後、当案件はコードαへと格上げされ、汚染水を流していた廃区で電気屋を営む男が拘束された。男には非認可薬物デザイナーズドラッグの使用歴が認められたことからそのまま《リンドウ・アークス》の管理する療養施設に輸送。コードαは収束した。

 ファグナーの話が終わり、アルビスは静かに呟く。


「確かに一見すると何でもない事件だが、不可解さは目立つな」

「そうなのさ。だがまあ三年も前の話だ。今更になって蒸し返そうって気もねえよ」


 ファグナーの表情に浮かぶのは巻き込んでくれるなよという警戒心。アルビスはそんなファグナーを薄情だとは思わない。

 三年も前の話だ。スーザン・アビゲイルが死んだあとも、ファグナーは事務所を経営し、多くの解薬士と市民を守ってきたのだ。多少の不可解さには目を瞑り、平穏を続けることを選んだ。アルビスはそのファグナーの選択を理解できずとも、否定したいとは思わない。


「だが有益な話だった。礼を言う」

「おお、そうか。役に立ったなら何よりだ」


 アルビスはファグナーと握手を交わす。すぐにファグナーの元を後にした。



 水場での焼死体。おそらく感電死だろう。だが普通の感電でないことは明らかだ。体組織が炭化し黒焦げになるほどに強力な電流を、資源の乏しい廃区で営まれる一介の電気屋風情が持ち合わせているわけはない。

 十中八九、別の何者かによる仕業だろう。そしてスーザン・アビゲイルは死んだことにされ、ジェリー=ハニーへと名を変え、新たな身体と能力を手に入れた。だがこの件の真実をこれ以上追及するつもりはない。スーザン・アビゲイルの死に不可解な点があったということが確認できれば、それで十分だった。

 それよりも問題はこれが三年前の話であること。医薬特区が《リンドウ・アークス》に呑み込まれて有名無実化したのがそのおよそ半年後であることを考えれば、時系列がおかしい。ジェリーたちの目的が医薬特区に関する重要な情報を暴き、何かを為すことだとするならば、医薬特区がまだ実態として存在していた時期ではなく、わざわざ二年以上も経った今になって行動を起こした理由が分からない。


「――なるほど。そういうことか」


 アルビスのなかで巨大な陰謀の全体図が輪郭を得ていく。確証はなかったが、そう考えればさしあたり全ての事実に整合性が保持される。

 登り続けてきた岩山の頂点に、指先がかかる感覚。あともう少し。だがまだピースが足りない。

 アルビスはタクシーを捕まえ、事務所のある二二区へと向かった。事務所の近くを通り過ぎ、比較的人気の多い西側の繁華街へ。アルビスは露店の間を抜けて路地裏に入った。


「教会にいないと思えば、教皇から占星術師にジョブチェンジか?」


 まだ明るいというのに光の差さない路地裏の一角。臙脂色の布が掛けられた机について座っている黒いローブの男。フードを被っている上に俯いているせいで顔は見えない。全く動かないので普通の通行人ならば誰かがいたずらでマネキンでも置いたものと勘違いするだろう。

 アルビスが話しかけると、ローブの男はゆっくりとフードを外して顔を上げた。

 禿げ上がった頭には杯とパンを象った刺青。ひどく小柄で、顔には漆黒のサングラス。にっと剥いた唇から覗いた歯は、悪趣味なことに全て金歯に置き換えられていた。

 思えばこうして対面するのは初めてだ。

 やがて男は聞き慣れた台詞を口にする。


「……〝はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない〟」

「〝だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから〟」


 予め取り決められた符牒。この場所が告解室でなくなった今、聖書に由来するその文句はどこか滑稽にも思えた。


「これはこれは、アーベントの旦那。お久しぶりですな。活躍は風の噂でかねがね……」

「パパス。社交辞令はいい。いくつか調べてほしいことがある」

「何やら飽きもせず、まぁた厄介事に巻き込まれているようですね」

「知っているなら話が早い」

「くかか。上顧客様の近況は握っておく。これ、商売事の鉄則なんですよ」


 ひどく掠れた声で肩を震わせるパパスの机に、アルビスはジャケットの内ポケットから取り出した札束を放る。まるで飢えた獣が数日ぶりの餌にありつくように、パパスはその枚数を一瞬のうちに数えて懐へとしまい込んだ。


「最近の廃区、もしくは地下迷路街の情勢が知りたい。急激に力を得た組織などはないか?」


 パパスはしばらく黙考する。やがて長細い舌を金歯の間からちろりと覗かせ、鼻の頭を舐める。


「急激に力を得たってわけでもないですがね。内部で大きな動きがあったといやぁ、賢政会でしょうかねぇ。名前くらいはアーベントの旦那もご存知でしょう」


 パパスの粘着質な声にアルビスは頷く。賢政会と言えば、ついこの前まで二一区の廃区にて広域指定暴力団である鴻田組と抗争を繰り広げていた反社会勢力である。抗争が既に過去形なのは、鴻田組幹部が皆殺しにされるという驚愕の結末をもって、既に終了しているからに他ならない。


「内部でというのは?」

「ええ。件の鴻田組との抗争。元々は密売ルートを巡ってのものだったらしいですがね。若いモンは拳銃チャカぶん回して息巻いてたようですが、上のほうじゃ既に話はついていたらしいですよ。元々あのあたりを仕切っていた鴻田組が六、新参の賢政会が四。おまけに上納金を納めるってぇ話でね」

「それで賢政会の連中は納得したのか?」

「くかか。するわきゃぁないでしょう。ですが、頭の言うこたぁ絶対なもんで。それに、賢政会がたったここ十数年で力をつけてきた背景には、会長である政岡賢十郎まさおかけんじゅうろうの世渡りの上手さが欠かせやせん。もちろん鴻田組との件も、時機じゃなかったから引いたんだろうと、もっぱらの話でしたから」

「ならば下が勝手に動いて鴻田組幹部を抹殺したのか?」


 アルビスは自分で言っておきながら違和感しかない言葉を、反語的に否定した。相手はヤクザの幹部だ。どんな手段であれ、殺すならばそれ相応の覚悟と準備が必要だ。あるいは、全てを凌駕してしまうような、規格外の力が――。


「外部から殺し屋を雇ったな」


 粟国桜華事件と同じだ。人外の力を宛がい、《東都》に混沌を呼び込む存在――〝X〟。そして今回もまた、奴に利用され、思惑通りに混沌を作り上げようとしている人物がいる。

 パパスがにやりと笑い、だが少し考えてからかぶりを振る。


「殺し屋……ちと惜しいですな、アーベントの旦那。あくまで噂ですがね、賢政会が雇い入れたのは凄腕の傭兵だってのが本筋の噂ですぜ。ここ二年、南アジアを拠点に活動していた戦闘集団。その名も〝六華りっか〟」

「傭兵集団、〝六華〟……」


 聞いたことはなかった。活動期間がここ二年ならば、アルビスが傭兵業を辞めたあとなので当然だろう。だが二年という数字は、スーザン・アビゲイルが死に、ジェリー=ハニーと生まれ変わった時期とも整合性が取れる。


「〝六華〟について詳しく教えてくれ」


 アルビスはもう一束、紙幣を懐から取り出す。しかしパパスは受け取らず、残念そうに溜息を吐いた。


「そりゃあ弾んでもらえるんでしたら、いくらでも喋るんですがね。こればかりはいくらあっしでも、全く分からない。〝六華〟っていうのも、現地の言葉で〝ヒマトック〟――〝雪が降るありえないこと〟と呼ばれていたことが由来で、何も本人たちが進んで名乗ってるわけじゃぁねえようで。人数から何から、いつごろ《東都こっち》に入ったのかも含めて、分からないことだらけの都市伝説みてえな存在っちゅうわけですわ」

「だが確実に存在はしている」

「ええ、じゃなけりゃ鴻田組を潰して裏社会を牛耳るなんてぇ所業、こんな短期間で達成できやしねえでしょう」


 だが外部から傭兵を取り込んだとして、マフィアの論理のもとでは下の人間が会長の意向に背けばただでは済まない。アルビスの脳裏に、パパスの最初の言葉――内部で大きな動き――が過ぎる。


「まさか政岡賢十郎も殺したのか……」

「ご明察で。表立っては病死と、されてますから声を大にはできませんがね。そんな話を真に受けてるような奴はぁいやしませんよ」

「〝六華〟の雇い主は誰だ?」


 アルビスの鋭い問いに、パパスはしゃがれた声をいっそう潜めた。


「賢政会の二代目会長、政岡白雪まさおかしらゆき。親父を殺し、鴻田組を潰し、今や《東都》裏社会で表立ってあの小娘に逆らえるモンはいやしねえですよ」


 アルビスはパパスの手に数枚の紙幣とメモを握らせる。礼は言わず、踵を返してその場から立ち去る。


「旦那、気ぃつけてくださいよ」


 アルビスは後ろ手を振り、繁華街の喧騒へと戻っていった。

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