05/Acceleration《1》

 降り続く冷たい長雨が、凝りもせずに車窓を叩いている。

 どこか懐かしくもあり、馴染み深い光景。本当ならばこのときはまだ、居心地が悪くて仕方がなかった自動運転オートドライビングの、仰々しい車の助手席。

 そうか、これは。

 夢か、あるいは走馬灯か――。

 公龍は夜の街並みを背景に、斜めに流れていく水滴を眺めながら、意味もなく舌を打つ。


「カルシウム不足だな」


 不愉快な冷たい声がして、公龍は助手席から運転席を睨む。


「うるせえ」


 大して整えてもいないだろうに、淡い光を帯びる艶やかな銀髪。氷のように透き通った薄青の双眸。鼻梁は高く、ほりは深く、まるで人工的に計算され尽くしたように整った横顔。

 アルビス・アーベント。

 公龍の前に突然現れ、酔いどれの浮浪者へと落ちぶれた公龍を解薬士に仕立てた男だ。


「概要は確認したな?」

「あ? 俺に指図するんじゃねえ」

「ただの確認だ。貴様が落ちぶれているから、私の物言いが見下ろされているように感じるだけだろう」

「……てめえ、そんなに張り倒されてえならそう言えよ」

「やめておけ。貴様のような手合いとじゃれるのは慣れている。つまらんことに時間は費やしたくない」

「吹かすなよ。ビビってるって正直に言やあ、勘弁してやってもいい」

「前から貴様は何かに似ていると思っていたんだがな。今やっとはっきりした。ラスベガスの路地裏で叩きのめした薬物中毒の野犬にそっくりだ」


 公龍は座席の前を思い切り蹴飛ばした。グローブボックスが見事に拉げた。


「貴様の報酬から修理費を差し引く」

「小せえことガタガタ抜かすんじゃねえよ。本当だったらてめえの脳味噌がこうなってたんだ」


 公龍は凄んだが、アルビスは相変わらず横顔を向けている。アルビスが腕時計端末コミュレットを操作すると、ダッシュボードに一枚のホログラム写真が投影される。


「対象は阿木戸啓あぎとひらく。最近、一〇代を中心にこのあたりで出回っている非認可薬物デザイナーズドラッグ〝カリテス〟の売り子ブローカーだ。警視庁としてはこいつをしょっ引き、製造組織摘発の足掛かりにしたいと考えているようだ」


 公龍はダッシュボードに浮かぶいかにも性根の腐っていそうな男の顔を見る。目つきは悪く、薄い無精ひげがどことなく胡散臭い雰囲気を醸す。写真はちょうど大口を開けて笑っているときのもので、ヤニで黄ばんだ歯が不気味だった。


「けっ、小悪党かよ。初仕事のくせにしょっぺえな」

「初仕事だからだ。それに舐めてかかるべきではない。痛い目を見るぞ」


 アルビスは冷たい声音で公龍を窘める。阿木戸の写真が消え、警視庁から渡されているデータ資料が代わりに浮かんだ。


「組対の話では相当用心深い男らしい。常に拳銃を携帯し、足取りはなかなか掴めない。月に一度、顧客の学生を集めて行うだけが、阿木戸が姿を見せる唯一の機会だそうだ」

「いい御身分だな。若い男女に混じってドラッグ・パーティーか」

「まずは未成年の身柄の安全を確保する。阿木戸の拘束はそれからだ」

拘束だろ? 結局は非認可薬物デザイナーズドラッグなんかに手を出しちまうクソどもだ」

「それを決めるのは私たちではない」


 公龍が好戦的に目を見開いて言えば、アルビスはかぶりを振って否定する。

 どいつもこいつもクソ野郎だ。薬なんかに溺れ、道を踏み外す。自分が傷つくだけならいい。だが薬物中毒は自分のみならず、周囲の人間をも傷つける。過剰摂取者アディクトに成り果てるという最悪の結果に辿り着いてしまえば、周りの人間に刻み付けられる傷の深さは測り知れない。

 だから、そうなる前に。

 全ての過剰摂取者アディクト非認可薬物デザイナーズドラッグを駆逐する。

 そこには慈悲も、正義も存在しない。

 奪われたから奪い返す。その命も、未来も、あらゆるものをもってして自らの行いを後悔させ、生まれたことを恥じるまで嬲る。

 皮膚の内側で燃え滾る憎悪こそが、公龍の原動力。そしてそれがあの日差し伸べられたアルビスの手を取った、どうしようもない理由だ。

 やがて自動運転の車が緩やかに減速。昔ながらのけばけばしいネオンに彩られたホテルが見えてくる。中世の城を模したような作りだが、やはり廃区のラブホテルとあって幽霊屋敷のような冷ややかな雰囲気を湛えている。

 垂れ下がるビニール製のヴェールを潜って駐車場へ。手近な空きスペースへと停車。アルビスは後部座席からジェラルミンケースを引っ張り出して下車する。公龍もハンティングベストに回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターやらアンプルやらを突っ込み、アルビスの後へと続く。


「なあ、重要なことに気づいたんだがよ」

「何だ?」

「これ、二人でフロント通るんだよな?」

「そうだが? 何か問題か?」

「問題ありありだろうが! ざっけんな、何が楽しくててめえとホテルにチェックインしなきゃなんねえんだよ!」

「ガキか、お前は」


 アルビスは吐き捨てる。表情に乏しいので分かりづらいが、その一瞬、確かに侮蔑の笑みが向けられたのを公龍は見逃さなかった。


「んだとコラッ!」


 公龍がアルビスの肩を掴み、拳を振り被った瞬間、耳を聾する破壊音が頭上で響き渡る。暴力の臭い。汚穢の気配。穢れた欲望に塗れた、人間の悪臭。

 辛うじて抑えていた荒々しい感情が、ぶわりと公龍の全身を内側から撫でる。まるで肉体を巡る血が沸騰したとでも言うように。


「……状況が変わったらしいな。――待て、公龍!」


 即座に、そして冷静に変化した状況を推測し、対処法を考えているであろうアルビスさえも置き去りにして。ホテルのエントランスへと殴り込んでいく公龍は、舌なめずりをした。


   †


「いやらぁっ! いやらぁっ!」


 裸同然の格好で制服を抱えながら、泣きじゃくる女が部屋から飛び出してくる。腕には注射針の痕。殴られたのか、額には青い痣が浮かんでいる。呂律が回っていないのは、ついたった今まで〝パーティー〟とやらを楽しんでいたからに違いない。

 開いた扉の奥から漏れ出てくるのは、麻薬特有の甘い匂いがした。


「おーおー、非認可薬物デザイナーズドラッグのみならずハッパもか。随分といい度胸してやがるな」

「ねえ、おねひゃい、らすけれ!」


 縋ってきた女を公龍は見下ろす。意識がぼやけていても向けられた殺意は感じるのか、女は喉の奥で引き攣った声を上げた。


「ヤク中はすっこんでろ」


 公龍は拳を握り、女の口へと突っ込む。女は勢いのまま壁に叩きつけられて嗚咽。砕けた歯と血、胃液と吐瀉物が床に撒き散らされる。泣き喚く女はもはや何が起きたのかさえ分かっていない様子で、げぇげぇとフロアの床を汚している。

 薬物などに手を出した馬鹿女は殺しても構わないと思ったが、そうしたらしたで後でアルビスが面倒そうだったから止めておく。代わりに公龍は、嗚咽する女に向けて黒く淀んだ蔑みを浴びせた。


「内臓まで全部吐いて、身体ン中きれいにしとけ。クソビッチが」


 公龍はパーティー会場である部屋へと入る。濃密さを増した欲望と暴力の臭いに眉を顰めれば、その根源が荒い息で立ち尽くしている。

 ミイラのように枯れた裸体を惜しげもなく露わにし、見開いた両の瞳からは黒ずんで濁った血の滂沱。口元からは黄ばんだ涎が溢れ続け、ガラスの破片を鷲掴みにして喉を鳴らす。

 どうやら姿態から察するに女らしい。パーティーを楽しんでいた女子高生の一人なのだろう。


「……過剰摂取者アディクト発見~。てめえじゃねえってぇのが皮肉だな」


 公龍は、ベッドの上で脇腹から内臓を溢している阿木戸を見下す。阿木戸は薬と負傷で既に虫の息で、公龍の言葉にどんな反応を示す気力も残っていないようだった。


「まあいい。何にせよ、汚物は処分決定だ」


 アルビスはミイラ女を見下し、ほくそ笑む。そして抜いた回転式拳銃型注射器ピュリフィケイター珊瑚色コーラルレッドのアンプルを打ち込む。

 解薬士が駆使する様々な特殊調合薬カクテルのなかにあって、使いこなすことが桁違いに困難であるとされる赤色系統のアンプル。公龍はその稀少な適性を持つ人間だ。

 昂る感情に煽られるように湧き立っていた全身の血が一定のリズムを刻む。その一滴に至るまでが公龍の意志と等しくあろうとしているのを、文字通りの細胞レベルで感覚できる。

 公龍は勢いよく親指の腹を食い破ると同時、空の手を引き絞って踏み込む。徒手空拳では明らかな間合いの外。だが迸る血は螺旋を描き、公龍の掌でイメージ通りのかたちを結ぶ。

 一振りの刀。刃も唾も柄も赤い、鮮血の刀。

 まさしく閃光のごとき斬撃。赤い軌跡を引きながら、公龍の一閃がミイラ女の腕を斬り飛ばす。勢いよく血が噴き出し、瞬く間に壁を汚す。苦鳴を叫んでよろめいたミイラ女の目に、公龍は容赦なく二本の指を突き立てる。


「ヒギャァァァッ」


 この世のものとは思えない、苦痛の叫び。公龍は指を眼窩に突っ込んだまま、ミイラ女を押し倒して床へと叩きつけた。

 無論、過剰摂取者アディクトはこの程度では死なない。強力な薬の過剰摂取によて遺伝子そのものを書き換えられた異形の命は、人間よりも遥かに図太く、だが無価値だ。

 そう、無価値。

 いや存在そのものが害悪。

 過剰摂取者アディクトは、そうなった時点で駆逐されるべき存在であり、決して許していい相手ではない。

 そう思うと、これまで辛うじて抑え込まれていたらしい黒い憎悪が一気に溢れ出して公龍の全てを支配していった。


「一丁前に痛がってんじゃねえよ、ゴミが」


 公龍がミイラ女の喉を浅く切り裂く。ぴゅっと血が噴き出し、叫び声が掠れて消える。代わり、空気だけが喉を抜けるような壮絶な音がミイラ女の口から響いた。

 執拗な蹂躙。過剰な暴力。

 解薬士の本来の役目が過剰摂取者アディクトへの解薬処置であることも忘れ、公龍は目の前の相手に向けて憎悪で研いだ刃を向けた。

 残る腕の筋を断ち、膝関節を踏み抜いて砕く。皮膚を薄く削いでいくように全身を斬りつける。


「生まれたことを後悔して逝け」


 公龍が血の刀を逆手で持ち替え、額目がけて振り下ろす。しかし刃がミイラ女を貫く寸前で、横から伸びた腕が刃を掴んで圧し留めていた。


「てめえ、どういうつもりだ? アルビス」

「それは私の台詞だ、公龍」


 冷酷な薄青の瞳と憎悪の滾る眼差しが交錯。公龍は舌打ちして刃を引き、その拍子に深く裂けたアルビスの掌からどっと血が溢れる。弾かれるように距離を取った二人の間で、静かに火花が散る。


過剰摂取者アディクトは殺す。てめえの大好きな仕事だよ、仕事」

「よく見ろ。彼女はフェード・イエロー。処分対象ではなく、処対象だ」

「どっちも同じだ。クズを生かしておく理由がねえ!」

「誰を生かし、誰を殺すか、決めるのは私たちではない」


 憤る公龍に、アルビスは淡々と正論を振りかざす。その態度がまた、公龍の神経を逆撫でする。

 だが二人の口論を好機とみたのはミイラ女。残る全ての力を振り絞るような凄絶な雄叫びを上げ、距離の近かったアルビスへと襲い掛かる。


「いいか? 貴様は間違っている」


 アルビスは公龍に向けて言い、刹那、身を翻してミイラ女の顔面に理想的で無駄のない回し蹴りを浴びせる。骨が粉微塵になる強烈な打撃音。勢いそのままに壁へと縫い付けられ、アルビスの脚と壁に挟まれた衝撃でミイラ女の脳味噌がシェイクされる。


「手本はこうだ」


 アルビスは脚を振り上げた姿勢のまま、抜いた回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターをミイラ女の胸へと突き刺して引き金を絞る。意識を鎮静化させる群青色コバルトブルーのアンプルが流し込まれ、ミイラ女はそのまま床へと沈む。

 ベッドのほうを振り向けば、既に虫の息である確保対象の阿木戸が、常軌を逸した二人の強さを前に抵抗などするはずもないとでも言いたげに、青ざめた顔で薄っすらと諦念の笑みを浮かべる。


二二四七ふたふたよんなな、対象確保。――依頼は完了だ」

「正義のヒーローが気取りてえなら、勝手にやれ」


 公龍はアルビスに向けて吐き捨てる。アルビスの冷たい眼差しが、真っ直ぐに公龍を見据えている。

 その眼差しはまるで暴力と憎悪に身を委ね、自らのうちにあるはずの虚無から目を背け続ける公龍を哀れむように。あるいは、そんな在り方でしか自分を保てなくなってしまった公龍の精神を心の底から案じるように。血と麻薬の香る室内で、ただ真っ直ぐに公龍へと向けられていた。


   †


 最初のコードα。

 過剰摂取者アディクトと化した女子高生も、確保対象だった阿木戸も、無事一命を取り留めた。当時の担当刑事からはこれだけ派手にやって余計な死者が出ていないのは奇跡だと白い目を向けられた。

 どうして今、こんなことを思い出すのかは分からなかった。何か意味があるのかもしれないし、意味などないのかもしれない。

 重要なのは、あのときから少しだけ、公龍が変われたということ。

 ただ空虚に憎悪を吐き出し、黒い怒りだけを原動力に力を振るっていたあのころとは少し。きっと、たぶん、今の公龍は少しだけ違う。

 何も見えない暗闇のなかでも、その笑顔だけははっきりと瞼に焼き付いている。

 何も感じられない虚無のなかでも、その温もりだけはしっかりと胸に抱いている。



 どこか遠くで降りしきる雨の音――ではない。

 公龍は朧げな意識のなかで、ぼんやりと明かりを捉える。

 雨だと思っていたそれはストレッチャーの音。あるいは周囲で走る人たちの踵が、リノリウムの床を鳴らす音。

 俺は、一体――。


「九重、死ぬなよ。いや、死なせないがね。精神論は嫌いだが、今だけは気持ちがものを言う。僕が救うまで、死ぬな――」


 死を司る魔女の声が降ってくる。

 同時、自らの喉を切り裂くような、切実な叫びが――声のない叫びが、生きて、と訴えているような気がした。

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