04/Fall in the rain《3》

 夜へ向けてにわかに活気づき始める廃区の街並みに背を向け、向かう先はこの廃区のなかでも滅多に人が立ち入ることのないエリア。震災での液状化現象が進んだこの場所は不快な潮の臭いが漂い、足元のアスファルトには薄っすらと滲み出した海水が張っている。

 先に銀と花を護衛しながらアルビスが情報の精査を行っているセーフハウスがある地下迷路街というのは、復興を完全に放棄された挙句、存在自体がなかったことになっている区画だ。

 それだけ聞くと廃区とは地上か地下かの違いしかないように思えるが、この二つは根本的に違う。

 医薬至上主義を掲げた都市部に対する必要悪として存在する廃区と異なり、地下迷路街は完全に《東都》からは切り離されている。廃区などは比にならないほどの暴力と狂気の巣窟であり、深部に至っては一般人など皆無とされ、薬物中毒者に凶悪犯罪者、過剰摂取者アディクトなどが日々殺し合いに興じているなどという噂もある。

 そんな狂気を狂気によって煮詰めたような地下迷路街は、場所によって海水による腐食が進み、またそうでなくても常に崩落と増築が繰り返されており《リンドウ・アークス》ですらその全貌は把握しきれていない。

 よって――もちろんクロエのような少女を近づけたい場所ではないのだが――一時的に身を潜め、体勢を整える場所としてはうってつけと言える。

 公龍は放棄された地下鉄メトロの廃駅に続く階段の前で、はたと足を止める。ついさっきまでクロエと談笑していた和やかな空気はなく、公龍の全身から針のように鋭利で獣のように獰猛な気配が滲む。


「クロエ、ちょっと下ろすぞ」


 クロエをぬかるんだ地面へと下ろし、街灯もない暗闇へと目を凝らす。公龍の眼鏡に内蔵される流体フィルムによって乏しい光量が調整されるや、暗闇にあってもなお黒い、幽鬼のようなシルエットが浮かび上がる。

 距離はまだ二〇〇メートル以上ある。だが公龍は迷うことなく回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターを抜いた。珊瑚色コーラルレッド深緑色エバーグリーンのアンプルを立て続けに打ち込み、血の刃を生成。アドレナリンの過剰分泌で研ぎ澄まされた感覚とともに、臨戦態勢を整える。


「ったく、今日はなんて日だ」


 公龍は喉を鳴らすように独り言ちる。

 雑巾のような外套の下から滲み出る、周囲の温度が数度下がったとさえ思えるような、冷ややかで濃密な殺意。空気の分子運動が停止したように粘性を帯び、吸った息は喉に張り付いた。

 奴は一体何だ――。

 公龍は自分の手が小刻みに震えていることに気づく。

 これほど明確で、強烈な憎悪と殺意を、向けられた経験がなかった。

 距離が一三〇にまで縮まる。もう光量調節などなくとも、互いの姿をはっきりと視認できる距離だった。

 刹那、目深に被った外套のフードの奥で、三つの目が血潮を思わせる赤で揺らめいた。


「――――ミ、ツ、ケ、タァ……」


 粘着質な声とともに、パァンと小さく弾ける音。相手が一〇〇メートル以上もの距離をものともせず、真っ直ぐに踏み込んできたのだと理解したときには、既に目の前でボロ外套がはためいている。


「――なっ」


 空気を裂いて腕が振るわれる。公龍は辛うじて前に出した刃で打撃を受け止める。刃が軋み、骨が哭く。衝撃で右の肘と肩の関節が外れ、公龍は吹き飛ぶ。


「ミ、ツ、ケ、ダァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 

 咆哮。

 それはもう人でもなく、獣でもない。地獄に落ち損ねた怨霊から迸る、怨嗟そのもの。

 公龍は地面を転がりながら体勢を立て直し、外れた関節を即座に嵌め込む。しかし既にボロ外套の追撃が迫り、突き出された腕が公龍の首を鷲掴みにする。今度は全く反応できな――


「――かはっ!」


 公龍は地面へと叩きつけられる。アスファルトが砕けるほどの衝撃に、肺の空気が全て搾り取られ、目の前の景色が白む。

 その一瞬にも満たない僅かな時間で、フードから覗く相手の顔貌を垣間見た。

 夥しい血を浴び、それが乾き切ったような死を醸す赤黒い皮膚。鉛玉を埋め込んだような、光のない暗く落ち込んだ双眸。頬より下を覆う灰を塗ったような穢れた銀の髭と、そこから突き出す禍々しい形状の牙が一対。眉間に並ぶ三つの赤い目はそれ自体が別の生物であるかのように、忙しなく蠢いた。

 ジェリーやメルティ、あるいは〝赤帽子カーディナル〟とも異なる、対峙するだけで催さざるを得ない戦慄を感じる間もなく、公龍の体躯が宙を舞う。

 投げ飛ばされたと理解すると同時、既に跳躍して間を詰めた相手の爪牙が閃く。

 本能的な回避。しかし凄絶を極める一撃は公龍の脇腹を容赦なく抉り、肉を消し飛ばす。


「ぐぅぅううううああああああああっ!」


 苦鳴とともに吹き飛んで地面に落下。海水が公龍の血で染まる。右手に握る血の刀が形状を保てなくなり、ボロボロと崩れ落ちる。

 公龍は使い物にならない刃を放棄。回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターを抜き、鉄灰色アイアングレーのアンプルを投与。続き珊瑚色コーラルレッドのアンプルを二発、躊躇いなく打ち込む。

 全身に激痛。抉られた脇腹はこぼれかけた内臓を押し戻し、超速の細胞分裂により強引に傷を塞いでいく。迸る血は公龍の右腕で螺旋を描き、一条の長槍のかたちを結ぶ。


「おい、てめえ……あの半透明女の仲間か」

「ユ、ル、サ、ナ、イ、ッ、!」


 ガチンと打ち鳴らされる牙。機能を失った声帯を強引に引っ掻いているような、歪な怨嗟。

 相手が踏み込む。執拗な正面突撃。まるで最速最短で、公龍の命を摘むことだけを望んでいるとでも言いたげな。

 公龍は姿勢を落とす。ほぼ勘。おそらくは急所である喉、鳩尾、あるいは頭を狙ってくるだろうという直感。考えるよりも先に身体が反応していた。

 萌え滾る殺意と颶風が頭上を通り過ぎる。懐へと潜り込むように、長槍の刺突を繰り出す。至近距離では躱すことが困難な胴体部の中心を貫く、致命的な一閃。

 手応え。相手の背から槍が突き出し、血が噴き出す。だが異形は苦鳴を漏らすこともなく、口元を覆う髭の合間で罅割れた唇を愉悦に歪めた。

 やばい――。

 やはり直感。公龍はすぐさま長槍を解き、後方へと飛び退く。逆の手のうちに生み出した刃を水平に薙ぎ、不気味な顔のついた首を斬り落としにかかる。

 しかし胴体と離れて宙を舞ったのは公龍の左腕。何が起きたのか分からないまま、視界が回る。曇天の夜空をまるで星々の代わりと言わんばかりに彩る赤い水滴が、あたかも止まっているようにさえ見えた。


「イィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」


 轟く歓喜の咆哮。滲む怨嗟の旋律。

 公龍は意識とともに仰向けになって海水浸る暗い地面へと沈んだ。


   †


 左腕がひらひらと宙を舞い、手から離れた刀がくるくると回る。先に地面に落ちたのは腕のほうで、遅れてすぐ近くに赤い刃が突き刺さる。刀はすぐに形を失い、渇いた表面がぼろぼろと剥がれ落ちるように、地面を浸す海水に散っていく。

 胸に大きな穴を空け、ぼこぼこと溢れる血を気に止めもせずに立ち尽くしたまま、嗜虐と憎悪に異形の顔を歪める怪物。そして、その足元に広がった赤いヴェールの上で横たわる、片腕の公龍。ぴくりとさえ動くことはなく、まるで吹き荒れた嵐のような暴力の応酬が嘘のように、静かに眠っている。


「――――、――――、――――っ」


 クロエは地下鉄メトロの改札へと下る階段の陰で、必死になって叫んでいた。だが虚しく吐き出す空気が喉を通るだけで、どんな叫びも公龍には届かない。

 怪物が嗜虐的な笑みのまま、倒れる公龍の胸を踏み躙る。何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も、執拗に動かなくなった公龍を痛めつける。踏みつけにされるたび、公龍の両脚と右腕がびくんと跳ね、赤く染まった海水が跳ねた。

 クロエは手摺にしがみつきながら、がたがたと震えた。涙を流し、鼻水を垂らし、喉を切り裂くように声のない叫びを上げ続ける。

 何もできない。公龍が苦しんでいるのに。いつだって自分を守ってくれた公龍が傷ついているのに。自分には何もできることがない。

 尚も執拗な攻撃は続いた。踏み砕かれた肋骨が皮膚を突き破り、ぬらぬらと血に濡れて光りながら外気に頭を晒す。破裂した内臓から溢れ出た血は公龍のなかを逆流し、ぽっかりと開いた口や、目や鼻や耳から泡立って漏れた。

 あまりに惨い仕打ちだ。一体公龍が何をしたというのだ。どうして敗北して尚、無意味に辱しめられなければならないのだ。

 クロエは拳を握り、唇を噛む。切れた唇から一筋の血が流れ、顎を滴った。


 もうやめてあげて――。


 そう声なき叫びを上げると同時、クロエは公龍に向かって走り出していた。

 きっとあの怪物にとってはクロエなど羽虫同然なのだろう。そしてそれはその通りで、クロエができることは何度考えたって、何一つとして存在しない。

 でも、できることがないからと言って、何もしないでいいわけじゃない。

 きっと公龍なら、そんなとき迷わず進むはずだった。

 クロエは海水を蹴立てて走り、踏みつけにされる公龍の身体へと覆いかぶさる。公龍が買ってくれたお気に入りのTシャツが血で濡れた。構わなかった。

 このまま踏みつけにされることを覚悟していたが、いつまで経っても足は振り下ろされてはこなかった。

 代わり、見るだけで失禁しそうな五つ目が公龍を庇うクロエを見下ろしていた。

 何をするつもりなのか、あまりに顔貌が人間とかけ離れすぎていて分からなかった。クロエは今にも逃げ出したくなるのを堪え、血と海水で濡れた公龍の服を強く握る。


「……オ、ワ、リ。……モ、ウ、……ヒ、ト、リ」


 どれほど相対していただろうか。

 怪物がそう喉を鳴らし、踵を返す。捻り出された言葉の意味は分からなかった。

 現れたときと何一つ変わらない幽鬼のような足取りで、怪物が去っていく。クロエは歯を食いしばって全身の震えを抑え込みながら、怪物が見えなくなるまで必死に耐えた。

 怪物は完全に去り、廃区の奥地には再び静寂が取り戻される。

 クロエは泣いた。冷たくなった公龍にしがみつき、泣いた。もし声が出るならば、この世の全てを切り裂くような泣き声だったに違いない。

 やがて雨が降り出す。

 まるで二人の存在をなかったことにするように、静寂を雨音が掻き消していった。


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