04/Fall in the rain《2》

「……なら、まずは、その〝ふぁいる〟を、手に入れないと、ね?」


 ベッドから起き上がった花が二人に向けて呟く。銀が身体に電撃を走らせたように反応し、ベッドへと飛びつく。


「は、花ちゃん! 目が覚めたのかっ! 大丈夫? 痛いとこない? 気持ち悪かったりしない? あ、お腹減っただろ? おいゴルァ、アルビスッ! 客人に茶の一つも出さねえとは一体どういう了見してやがんだてめえっ!」


 ついさっきまで絶望的な状況に頭を抱えていた銀が急に威勢を取り戻す。面倒くさい奴だな、とアルビスは心中でぼやく。


「……お兄ぃ、うるさい、キモい」

「はぅっ、酷いぜ花ちゃん。俺ってば、すっごく心配してたんだぜ。もし花ちゃんの身に何かあったらどうしようって居ても立ってもいられな」

「気持ち悪い」

「あがっ……略されないほうが心に刺さるぜ……」


 銀が胸を抑え、ベッドの隣りで床に沈む。花は床で痙攣している銀に一瞥もくれず、掛布団に包まってアルビスへと向き直る。

 決して寒いはずはないが、青血障害の罹患者は基礎代謝が低く、体温が上がりづらい。救出した花がマフラーを巻いていたのも同じ理由だろう。


「どのあたりから起きていた?」

「……お兄ぃが、べらべら、うちらの情報、漏らす、途中から、なんと、なく」

「可愛い顔で漏らすとか言っちゃいけません!」

「そうか。なら状況は把握しているな」


 花がこくと頷く。アルビスと花は銀を完全に無視し、話を進める。


「まずはファイルを手に入れなければ話は始まらない。だがなるべくこちらの動きは勘づかれたくない。奴らが宅間のファイルを持っているのが私たちであると勘違いを続けてくれれば、私たちが先んじることもできる。最悪なのは――」

「……バケモノ、ペアに、ファイルを、奪われること」


 アルビスは頷く。

 やはり回転式拳銃型注射器ピュリフィケイター狙撃型モデル・スナイピングへと改造しただけのことはあるのか、頭の回転の速さと察しの良さは申し分ない。青血障害という大きなハンデを背負っていなければ、腕の立つ解薬士であったに違いないことが想像できた。


「……勝算、ある?」


 花がこくと首を横に傾ける。

 この疑問も実に的確だ。

 勘違いを放置したままにしておくということは、再びあの二人組から襲撃を受ける可能性があるということだ。今回は辛うじて逃げることに成功したが、次も同じ手が通用するほど甘い相手ではないだろう。

 花は次に襲われたとき、講じる手立てがあるのかと聞いているのだ。

 アルビスは珍しく言葉に詰まっていた。公龍ならばきっと、ンなもん気合いだ、などと雑な応答をするのだろう。だがいくら気合いを込めようと、いくら精神的に万全であっても死ぬときは死ぬ。重要なのは生き残るために、あるいは相手を殺すために講じることのできる策であり、戦術だ。

 そしてそれは現状、皆無と言っていい。

 公龍の話では、ジェリー=ハニーと名乗った半透明女には特殊調合薬カクテルも血の刃も無意味だった。脳があるべき頭を吹き飛ばしても数秒で再生したことからも、驚異的な再生能力を有していることが推測できる。

 死なない、という点ではメルティ=フレンドリィも匹敵する力を持っている。首を完全に圧し折っても死ななかった。加えて、おそらくはヤモリなどと同様の分子間力を利用した手足と強靭な膂力が生み出す立体的な機動。さらには自在に噴射の仕方を変えることのできる強力な強酸。

 どれも現状では対処のしようがない大きな脅威だ。

 考えるに、二人の身体構造は根本から常人と違うのだろう。だから首を圧し折ろうが、脳を吹き飛ばそうが死なない。

 二人を倒す策は、その身体構造を明らかにするところから、死と隣り合わせの戦闘のなかで見つけていかねばならないだろう。


「……そう。仕方、ない」


 花はアルビスの沈黙の意味を察し、案外とあっさり引き下がった。彼女もまた、ジェリーに対峙していることから、その存在の異常性を嫌というほど認識しているのだろう。


「……それと、あの、眼鏡の、人は?」


 花がきょろきょろと狭い室内を見回し、アルビスに向けてまた首を傾げる。


「うちの事務所には一匹、居候がいてな。そいつに餌をやりに事務所に戻っている。それに、こちらの面は割れているから、一人で事務所に置いておくこともできないだろう。あと数刻もすれば、ここに連れて戻ってくるはずだ。奴にも、守るべきものがあるということだ」


 アルビスは言ってちらと銀を見たあと、手元の腕時計型端末コミュレットに視線を落とす。少し時間が掛かり過ぎている。

 寄り道はするなときつく言い聞かせているし、この状況の危険さを理解できない公龍ではない。もちろん奴としても、クロエを危険に晒すなど以ての外だと心得ているだろう。

 加えて言えば、既に公龍はほぼ万全の状態にある。既にジェリーの毒に対する解毒は済ませてあるし、花に撃ち込まれた群青色コバルトブルーのアンプルの効果もさすがに抜けている。

 仮にジェリーたちの追撃があったとしても、逃げに徹すれば公龍ならば問題ない。そう判断し、アルビスたちは二手に分かれた。

 信頼ではない。単なる分析の結果だ。

 だからこそ、そこには過大な期待や願望が介在しないと、曖昧な要素がないと断言できる。

 だがアルビスは漠然と、不愉快な胸騒ぎを感じずにはいられなかった。


   †


 公龍が待つこと数分、小さなリュックに荷物を詰め終えたクロエがぱたぱたと駆けてくる。腰に手を当て、少し胸を張っているのは準備が整ったという意志表示だ。


「よし。んじゃぁ、しばらくこのボロ事務所ともお別れだ。だがな、次行くとこはもっとボロいんだよなぁ、これが。あいつはな、屋根がありゃそれは家だと思ってる節がある。イカれてんだろ? そうなんだ、あいつはイカれてやがるんだ」


 もちろんクロエは頷いたりしていない。公龍が一方的にアルビスへの悪口を並べ、彼女が言葉を返さないのをいいことに勝手にそのまま完結させているのだ。


 ――でも あーべんとさんは ちょっとへん


 クロエは首から下げたノートにペンで走り書き、それを公龍へと見せる。公龍はげらげらと腹を抱えて笑う。


「そうだな、あいつは変なんだ。そしてそれを、大人は〝イカれてる〟って言うんだ。だから今度な、チャンスがあったら言ってやれよ。〝てめえのおつむはイカれてる!〟ってな」


 あまりに声を上げて笑ったせいか、クロエは少し困ったように眉を寄せながら、さっきのページに何かを書き足す。〝へん〟と書いた部分に二重線が引かれ、代わりに〝こわい〟という言葉が小さく書き足されている。


「……そうかぁ。まあ怖えわな。アルビスの野郎、常に血に飢えた殺人者みてえな顔してるもんな」


 公龍が至極真面目にそう言うので、クロエはまた困った顔をする。公龍はそんなクロエの頭を骨張った掌で、優しく撫でる。


「あのクソ堅物の昔のことはさ、俺はよく知らねえんだけどよ。あの馬鹿はたぶん、知らねえんだ。楽しかった記憶とか、嬉しかった思い出とかさ。なんて言やぁいいんだろうな……きっと知らねえから分かんねえんだろうな。遊園地の楽しみ方も、クロエ。お前にどう接したらいいかとかもさ」


 それはきっと哀しいことだと、公龍は思う。

 生きていれば苦しいことも、辛いこともある。自分が死ぬよりもずっと耐え難い苦痛だって、そこら中に山ほど転がっている。

 だけど人が生きていけるのは、生きることがただ苦しいだけではないと分かっているから。誰かと愛を育んだり、他では得難いかけがえのない何かを経験したり。そういう眩しくて、温かい思い出があるから生きていけるのだ。

 だがきっと、アルビスにはそれがない。もしあったとしても、それらを塗り潰してしまうほどに深くて濃い闇に、アルビスは立っている。

 それが何なのかを、公龍は知らない。アルビスが語ろうとしない以上、無理に聞こうとも思わない。

 だけど公龍はそんなアルビスを、哀しく思う。

 少なくとも今、公龍自身が、こうやって生きていけるのはクロエと、そしてアルビスの存在があってこそなのだから。


「だからさ、仲良くしてやってくれ。ここは一つ、クロエが大人になってよ」


 公龍は言って、意地悪く笑う。クロエは力強く頷き、きらきらした丸い目で公龍を映す。


「よーし、偉いぞ。さすがクロエだ。お前はほんとに賢いガキンチョだーっ!」


 公龍がクロエを抱きかかえる。ふわりと持ち上がった視界にクロエが楽しそうな笑みを浮かべる。

 そのままクロエを肩に乗せ、公龍は事務所を出る。階段を降りる途中、何やら忙しそうにしている牙央興業の若い連中とすれ違う。

 既に日は暮れ、見上げる空の三分のニは紫色に染まっている。

 思えば長い一日だった。

 公龍は深く息を吐く。吐いた息には疲労が滲んだ。

 だがまだ何もかも始まったばかりだ。桜華を破滅させ、今なお《東都》の闇で暗躍する〝X〟に相応の報いを受けさせねばならない。

 にわかに殺気立ったのを感じたのか、クロエが不安そうに公龍を見下ろしていた。公龍は口の端を吊り上げて笑顔を作り、肩に乗るクロエの脇腹をくすぐる。クロエは笑い声を殺しながら身を捩り、落ちそうになる前に公龍はクロエを抱きかかえる。


「大丈夫だ。今の俺にはもう、お前がいる。二度と置いていったりしねえからよ」


 公龍の誓いにも似た言葉がクロエの不安を溶かし、つぶらな瞳に安堵が広がる。

 きっとこの安堵は、誓いは、歪だ。

 クロエは惨たらしく殺された唯一の母親の面影を公龍に見ている。そして公龍は《東都》の不条理な論理に絡め取られて死んだ桜華の――あるいは二人の間に生まれるはずだった名もない命の――残滓をクロエに感じている。

 巨大な喪失を知る二人だからこそ、こうして惹かれ合い、互いの心にある虚無を埋め合っている。

 それはきっと正しいとは言えない。

 だがいくら歪だとしても、クロエにとっての公龍は頼れる場所であり、公龍にとってのクロエは帰る理由だ。

〝X〟の悪徳を暴き、もしも現実がほんの少しだけ、今よりましになるときがくるならば。

 そのときはきっと、ちゃんとクロエを愛し、自分の喪失に向き合えるような、そんな気がしていた。

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