05/Acceleration《2》

 汐からの一報を受け、アルビスと銀と花は帝邦医科大へと急行した。

 周囲の患者や医師たちがギョッとするような速度で院内を駆け抜けて集中治療室ICUへ。珍しく汚れた白衣ではなく、手術着を着ている天常汐の影に、涙と血と雨でぐしゃぐしゃになったままのクロエが見えた。

 汐はアルビスたちに気づくともたれかかっていた壁から身体を起こして、向き直る。いつも不健康そうな佇まいだが、今日は心身の疲労も相まって、墓荒らしにでもあった死人ような空気を漂わせている。


「ドクター。公龍は?」


 問うまでもなかった。公龍の名前を聞いたクロエが肩を震わせ、とうに枯れ果てるほど流したであろう涙を再び流し、静かな嗚咽を漏らす。問われた汐の表情も、何一つとして言葉を語ることなく公龍の容態を物語ろうとしている。

 逸らすように分厚いガラスの向こう側へ向けられた汐の視線をアルビスは追う。

 世界から切り離されたような薄暗い部屋に、変わり果てた相棒の姿が横たわっている。

 取り囲むように配置された各種の機械が公龍の灯火となった命を数値化し、無機質な明かりを瞬かせている。全身を隈なく覆う包帯と差し込まれた管は、まるで油断をすれば消えてしまう瀕死の公龍を強引にこの世に繋ぎ止める医療の業を具現化したよう。


「手は尽くした。辛うじて、奇跡的に、命だけは繋ぎ止めたという状態だよ。目覚める望みは捨てたほうがいいが、その逆はいつ起きてもおかしくない」


 汐はいつものように軽薄に言って、肩を竦めてみせる。だがその声はどうしようもなく震え、笑おうとして釣り上げた口元は引き攣っていた。


「まったく、これだから死にたがりは嫌なんだ。ボロ雑巾よりも酷い。おまけに片腕欠損じゃ、インテリアにも使えんよ。あまりに切り口が綺麗だったから、とりあえずは繋がっているがね」


 一度、堰を切った言葉はつらつらと溢れる。銀が汐のぞんざいな物言いに苛立ちを見せたが、アルビスが何も言わないのを見てか、あるいは汐の言葉の端々に垣間見える震えを敏感に嗅ぎ取ってか、何もしなかった。

 どんよりと暗い廊下に、汐の渇いた笑みと咽び泣くクロエの音、そして重苦しい沈黙が漂った。


「……僕は戻るよ。医者として、あと友人として、できることはした」

「……ああ。恩に着る」


 便所スリッパを引き摺りながら去っていく汐を顧みることなく、アルビスは小さく頭を下げた。

 汐が立ち去ってからも停滞した時間が続いた。やがて沈殿した空気を押しのけるように、銀が口を開く。


「アルビス……」

「分かっている」


 遮るように言った。

 何をすべきかは分かっていた。ここで立ち尽くしていても事態は変わらないことは分かっていた。

 だが、それでも――。

 すぐには動き出せなかった。公龍の昏睡という衝撃を、まだ心も体も受け止めきれてはいなかった。


「……一体、何があった」


 アルビスの思わず漏れた呟きは決して問いとして放たれたものではなかったが、後ろで咽び泣くクロエの肩を強張らせた。

 クロエは健気にもアルビスの呟きに応えようとペンとノートを手に持ち、だが思い出しては震える手ではどんな文字も書くことができなかった。

 だがアルビスは容赦なく、今度は明確に問いとして、クロエのほうへと振り返ってもう一度同じ言葉を口にする。


「一体、何があった」

「おい、アルビス。それはさすがに酷だろうよ」


 銀がアルビスたちの間に割って入る。だが感情を排した薄青の瞳は、ただ状況の打開だけを見据える冷徹な色を帯びている。


「クロエ。襲撃者は二人組――身体が半透明に透ける女と不気味な笑い声を上げる怪物で間違いないか?」


 アルビスは問い方を変えた。クロエへの気遣いなどではなく、ただ迅速かつ合理的に情報を聞き出すべく。

 クロエは首を横に振る。否定したことで光景が過ぎったのか、クロエはまた嗚咽を漏らし、呼吸を荒くする。すかさず花がクロエに寄り添い、震える手を握り、背中を擦る。


「そうか」

「新手だってのか」


 あの場にはいなかったジェリーたちの仲間なのか、あるいは全く新しい別の勢力なのか。公龍が襲われたのは単なる偶然か、あるいは何らかの狙いがある襲撃だったのか。まだ何一つとして検討さえつかない。現状が示すのは、たとえ予期せぬ襲撃とは言え、あの公龍を再起不能のレベルにまで追い込むことのできる規格外の相手であるということだけ。

 そしてそれは、考えうる限りで最悪と言ってもいい事実だ。


「……〝解薬士げやくし狩り〟、ではないでしょうか」


 言葉を失って沈黙する三人は揃って声の方向を見やる。鋭い視線を一斉に向けられ、にわかに姿勢を正した澪が会釈をする。


「こんにちは。警視庁刑事課、コードαを担当する飛鳥澪あすかみおです」


 澪は銀と花に向けてもう一度お辞儀をする。銀が自分と花の分を名乗り、簡単な挨拶を交わす。


「ミス・アスカ。それで、〝解薬士狩り〟というのは?」

「粟国桜華氏の事件以降、起きている解薬士を狙った連続殺人事件の犯人の通称です。私も確証があるわけではありませんし、あくまでその存在事態が都市伝説のような話ですが。金色や淡茶色など、明るい髪色の解薬士が被害に遭っているという共通点は、九重さんの場合も一致するかと」

「〝解薬士狩り〟か」


 初耳だった。警視庁の傘下にいるために、同業者との横の繋がりが薄いことが仇となったのかもしれない。


「ミスター・アーベントが知らないのも無理はありません。《リンドウ・アークス》はこの件について緘口令を敷いていますし、警視庁もそれに倣っています。一部の《組合サークル》では注意喚起が為されているようですが、私もつい先日初めて知りました」


 澪の推測通りならば〝解薬士狩り〟は全く新たな別勢力ということになる。いや別勢力どころか、宅間喜市の件にはまるで無関係な、盤面を掻き回すだけの第三者とでも言うべきだろうか。

 ジェリーたちは目的が明確な分、脅威とは言え対処のしようがあったが、〝解薬士狩り〟は目的が不明――もしくは解薬士を駆逐することだけが目的となればその厄介さは桁違いだ。

 澪の推測の全てを真に受けるには根拠が乏しかったが、邪推として退けるには重要度が高すぎた。


「あくまで噂程度に聞きかじったものですが、殺された解薬士の遺体には刃物で切られたとは考えづらい、綺麗すぎる切断面があったそうです」


 澪はアルビスたちの元へ歩み寄り、ガラス越しの公龍を目の当たりにして息を呑んだ。アルビスといくらか同様に、九重公龍という人間を知っているからこそ、その変わり果てた姿が理解できないのだろう。


「それで、用件は何だ?」


 アルビスは澪に訊く。もちろん突き放す冷徹な意味ではなく、たとえ付き合いのある澪と言えどおいそれとこの場に駆けつけるほど時間に余裕があるわけではないことを知っての言葉だった。


「純粋なお見舞いです、と言えれば良かったんですが、宅間氏の件で」


 澪は公龍から視線を外し、アルビスへと向き直った。そこには非情に徹してでも職務を遂行しようとする強い刑事の表情がある。だからアルビスも、それに応えるようにまだ整理しきれない感情を鉄面皮のうちに覆い隠す。


「彼――宅間喜市が《東都》で行方不明になるまでの足取りが分かりました」


 願ってもない、喉から手が出るほど欲しかった情報。そこは組織的な捜査能力を誇る警視庁を褒めるべきだろう。


「宅間喜市が《東都》に入ったのは一月前。偽造IDでの入都ですが、高架道路のスキャナに映像記録が残っていました。その後、入都に使用したIDとは別の偽造IDで都市内を移動。ある人物に接触していた記録が、やはり街頭スキャナで確認できました」

「ある人物?」

「はい。《ベルフォーレ製薬》前社長の娘、盛永もりながスサーナ」


 澪が腕時計端末コミュレットを操作し、盤面上に一枚の立体映像ホログラム――ドレスをまとう育ちの良さそうな金髪碧眼の令嬢のにこやかな表情が浮かび上がった。


「……《ベルフォーレ製薬》。医薬特区の加盟企業だな」

「はい。接触の理由までは定かではありませんが、一連の件と何らかの関係があると警視庁は睨んでいます。もしかすると宅間の手から、報告にあったファイルが盛永スサーナの元へと渡っている可能性もあるかと」

「とすると、そのご令嬢の身が危ないな」


 警視庁の捜査能力は伊達ではない。だが丹念に《東都》中の街頭スキャナの記録を洗うという人海戦術によって情報が手に入れられた以上、まだ全貌の分からない敵が同じ情報を得ていないとも限らない。


「既に私たちのほうで護衛を手配しています。ミスター・アーベントにも護衛に加わっていただき、ファイルの件について盛永スサーナから情報を引き出してもらいたく思っています」

「場所は?」

「第二区のアリストクラタ・ホテル。三七〇一五号室です」

「すぐに向かおう。同行を頼む」


 アルビスは二つ返事で了承し、澪はそれに頷く。


「俺たちも行くぞ?」


 隣りで銀が強引な頼もしさを演出して言ったが、アルビスは首を横に振った。視界の隅に花にもたれかかり、泣き疲れて微睡んでいるクロエの姿が映る。


「クロエを頼む。一人にはしておけない」

「わーったよ。安心した、お前もちゃんと人間だったな、アーベント」


 銀は冗談めかして言うが、到底笑う気分ではない。


「セーフハウスは好きに使ってくれていいが、あまり汚すな。それと、何かあれば逐一連絡を入れる。即座に動ける準備だけはしておいてくれ」

「任せとけ」


 銀は自分の胸を叩き、それから拳でアルビスの胸に触れた。

 最後にアルビスはもう一度、集中治療室で眠る公龍に視線を向け、それから澪とともにその場を後にした。

 一度走り出した以上、立ち止まることは許されない。どれほどの痛みと喪失を伴ったとしても、進み続けるよりほかにできることはない。

 それに何より、今はまだ他の解薬士とべったり組む気にはなれなかった。それではまるで、相棒である公龍が交換可能な部品だと言っているように思えてしまう。

 奴は必ず戻ってくる。それが限りなくゼロに近い可能性であっても、必ず。

 アルビスにできるのは、――それがたとえどれほど歯がゆく、途方もなく、己の無力を思い知ることであるとしても――不遜で不愉快な、だが唯一の相棒を信じて待つことだけだった。

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