10/The dusk of glory《2》

 規則的に床を叩いて階段を上がってきていた革靴の音が背後で止まる。

 人体錆化の混乱のなかで一定のリズムの足音というのは、それだけで異質であり、故に言い知れぬ圧力のようなものがある。

 アルビスは意識を失ったクロエを腕に抱いたまま、振り返ることなく口を開く。


「何の用だ?」


 突き刺すような問いかけに、少し間を置いて応答が返ってくる。


「してやられたよ、全く。こればかりは完全に想定外の一手だ」

「まるでテロが起きることは知っていたような口ぶりだな、屋船警視総監」

「まさか。常に脅威に対する警戒を怠らないだけだよ」


 屋船は事務所内をゆっくりと歩き、アルビスの視線の先にあるソファの背もたれに寄り掛かる。抱かかえられたクロエを一瞥し、再びアルビスへと視線を戻す。


「安心するといい。その少女はまだ生きている。錆化で人を殺すには、最低でも三回のラスティキック服用が必要だ。彼女はせいぜい一度と言ったところだろう」


 屋船の指摘はすでにアルビスも理解している。だが身体の内部から起きた細胞の錆化を取り除く術が現代医学にあるとは思えない。加えて即死に必要なのは三度の服用だが、時間経過でゆっくりと命を奪うのであれば一度の服用で事足りる。

 汐ならば何か策を講じられるかもしれないが、混乱のせいか肝心の連絡がつかなくなっている。

 無為に時間だけが過ぎ、時はクロエの命を切り刻んでいる。彼女を救うためにアルビスに出来ることはなく、あるのは怒りを原動力に臨む弔い合戦だけだ。

 そんなやり切れない思いを見透かすように、屋船の怜悧な双眸がアルビスを見下ろす。


「絶望するのは些か早すぎると思うがね」

「どういう意味だ?」

「その少女を救う、もっと言えば多くの人々を、強いてはこの《東都》を救う術はまだあるということだよ。PCで確認するといい」


 アルビスはクロエを横たえ、執務机のPCへと向かう。屋船に指示されるがまま動画投稿サイトを立ち上げる。屋船が示そうとしているものは、急上昇動画のトップに上がっていた。

 動画タイトルは『敬愛なる《東都》市民諸君へ』。

 アルビスは動画の再生を始める。

 灰色のノイズが数秒流れた後、真っ白な壁を背景にして拘束された下着姿の女が画面中央に映る。顔には麻袋を被せられており、露出した肌にはまだらに錆が浮いていた。


「「「ごきげんよう、清浄なる《東都》市民諸君」」」


 声とともに長外套を纏う人影が現れる。首から上を覆う脳を模した仮面に、不気味な合成音声。

脳男ブレイン〟は拘束された女の隣りに立ち、カメラに対し僅かに左側を向いて正対する。


「「「私の名は〝脳男ブレイン〟。この《東都》を新たに創造する者だ」」」


脳男ブレイン〟が女の麻袋を剥ぎ取る。露わになるのは人気歌手、天音聖來の顔。しかしステージやテレビで見せるような溌剌とした表情はなく、額や頬にまで錆が浮かび、苦痛と恐怖の表情に染められている。口には猿轡が嵌められ、必死に叫ばれる悲鳴はくぐもった音となって意味を為さない。


「さて、贈り物は受け取って頂けただろうか? もちろん贈り物というのは今まさにこの《東都》に浮かび上がっている錆のことだ。新型の感染症、などと疑われているが、あれは〝ラスティキック〟という薬物の副作用だ。《東都》の歌姫、天音聖來の新曲に仕込まれた特定の音階を聞くことによって〝ラスティキック〟を服用することで体内に蓄積された塩化物イオンと鉄分子に化学反応が生じ、細胞までをも呑み込んだ酸化を起こさせる。もっとも、副作用というには可笑しな話だがね。なにせ今回のことを起こすために――要はこの《東都》を恐怖のどん底に叩き落とすために〝ラスティキック〟という薬は製造され、そして《東都》にばら撒かれてきたのだから」」」


 もし顔が見えていたならば、きっと〝脳男ブレイン〟は凶悪な笑みを浮かべていただろう。


「「「なぜそんなことをしたか? 問うまでもない。貴方たちが隅に追いやったつもりでいる廃区が、周縁などではないということを今一度理解してもらうためだ。廃区こそが人間の住む場所の象徴だ。お膳立てされた安全など、望まない。私たちは、檻のなかで管理されて生きるモルモットなどではないのだからね」」」


「「「さあ、壊そう。こんな優しい世の中を。こんな偽りの幸福に満ちた社会を。私の目的は、手始めに廃区排除の旗印である第二次都市計画ミルキーウェイズ・プロジェクトを頓挫させることにある。だからあの糞の掃き溜めのようなセレモニーを利用させてもらった。恐怖を焼きつけるがいい。あの混沌に満ちた無秩序な日々を思い出すがいい。あれこそ、私たち人間の本来の在り方なのだ」」」


脳男ブレイン〟の平手が天音聖來の頬を強かに打つ。衝撃で聖來の顔を覆う錆が砕け、宙を舞う。


「「「これは当然の報いなのだよ。横溢する薬に狂い、身も心も《リンドウ・アークス》が作った社会に汚染させた者たちへのね。私たちは目覚めねばならない。偽りの支配から脱し、真なる生を手に入れなければならない。私たちは既にここ、《イーストアクセル》のサーバーを手中に収め、都市中の車の遠隔操作を可能としている。逃げ場はない。どこに逃げようと、死のメロディから逃れることなどできないのだ。くはは、くははははははっ!」」」


 哄笑が響く。その悍ましさは画面越しであっても十二分に伝わってくる。


「「「私が招来する社会には、薬に依存し本来の生を放棄するような人間はいらない。つまりこれは新時代への淘汰に他ならない。だが、慈悲深き私は諸君らに救済を与える」」」


脳男ブレイン〟の手に一本の注射器が握られる。掌で弄ばれた注射器が聖來の首筋に挿入される。半透明の薬液が流し込まれ、聖來が苦痛に悶える。泣き叫び、失禁し、拘束具で身体が傷つくことも厭わずに暴れる。

 だが間もなくして、聖來の身体の半分近くに浮いていた錆がぼろぼろと剥がれ落ちていく。剥がれ落ちた場所には僅かな痕こそ残っているが、元あったのであろう綺麗な肌が覗く。


「「「これは錆を分解する、いわばワクチン。これより四八時間、自らの手を汚してまで新たな社会で生きることを欲する者にはワクチンを与える。救済の条件は発症者三人以上を殺すこと。権利は《東都》に住む全ての人間にある。友人、家族、恋人を救うもよし。自らの力によってその本能を証明するもよし。ぜひ、諸君らの生への渇望を見せてくれたまえ」」」



 動画はそこで終わった。およそ三分に満たない動画だった。

 痛烈な犯行声明。この混沌の根源は自分だと高らかに宣言してみせた。それはあたかも、人々が忘れつつある恐怖や非難、そして憎悪を廃区へと向けるためであるかのように。

 アルビスが顔を上げると、屋船が険しい表情をこちらに向けていた。


「つい二時間ほど前、東都アリーナの地下駐車場で特殊調合薬を投与されたと思わしき死体を発見した。検死の結果、死体はキティ・ザ・スウェッティのものと見て間違いない。そして現場には君の相棒、九重公龍の致死量に相当する血痕と、左手の指も発見されている。死体などは未確認だが、もし無事であっても動ける状態ではないだろうというのが見立てだ。……非常に残念だよ」


 屋船は言って、演技じみた大仰さで肩を落とす。アルビスは取り合わず、一度は停滞していた思考を再び回転させる。

 キティ・ザ・スウェッティの死体が発見された東都アリーナは、まさに混乱の渦中であるミルキーウェイズ・セレモニーが行われていた場所に他ならない。

 そんな場所で公龍が死闘を繰り広げていたという事実。アルビスとクロエの元を離れなければならなかったきっかけ。今しがた再生を終えた〝脳男ブレイン〟の犯行声明。

 それらが暗示することを推測するのは、腐っても相棒であるアルビスならば難しくはない。

 この都市で、あるいは公龍に、何が起きているのか。これまで断片でしかなかった情報が次々と組み合わされ、混沌の全貌を形作っていく。

 アルビスは向けられる眼差しに、鋭い視線を返した。


「粟国桜華の所在は?」

「こちらも現状では不明だ。だが天音聖來と一緒に護衛の車に乗り込んだことがアリーナの防犯カメラで確認されている。〝脳男ブレイン〟の手に落ちたと考えるのが自然だろうね」


 おそらく公龍はあのポンプでの戦いのあと〝脳男ブレイン〟と対峙した際に、第二次都市計画ミルキーウェイズ・プロジェクトが標的となるテロを予見したのだろう。そして桜華を救うためにアルビスたちの元を離れたのだ。

 そしてどれだけの重傷を負おうとも、桜華の身に危険が及んでいる限り奴は諦めなどしない。たとえその身が朽ち果てても、怨念だけで桜華を救おうとさえするだろう。


「そうか。つまり貴様は公龍がもはや当てにならないと踏み、わざわざ足を運んでまでして私を使おうとしていると」

「随分と角のある言い方だが、そういうことになる」

「言われなくても動くさ。〝脳男ブレイン〟の元にワクチンがあるというなら、私にもそれが必要だ」

「まさか三人殺そうというわけかい?」

「貴様が発症者でないことが本当に悔やまれるな」


 アルビスの冷たい怒気を孕んだ声に、屋船が軽妙に笑い声を溢す。まるで今《東都》で起きている全てを上から俯瞰しているような、当事者意識とは程遠い見透かした態度。


「《イーストアクセル》のメインシステムは完全な独立型スタンドアロンだ。つまりそれを掌握した奴らは《イーストアクセル》本社にいると考えて間違いない。この鬱陶しい音で発症者を出し続ける限りにおいて、奴らの優位性は保たれるのだからね。事実、武装した集団が確認されている。〝脳男ブレイン〟と〝赤帽子カーディナル〟の残り一人もそこにいるだろう。既にSATが出動、飛鳥警部も君と合流すべく現地へと向かっている。この際だ。二人一組の原則など無視して構わない。君のように優れた解薬士を遊ばせておく余裕はないからね」

「他の解薬士はどうした?」

「私たちで動かせる人員は既に暴動鎮圧に動員されている。この辺りはまだましだが、都市部なんかはまさに混沌だよ。一応〝脳男ブレイン〟の首には懸賞金が掛かっているが、望みは薄いだろう。それに〝赤帽子カーディナル〟の怪物相手だ。並の解薬士など束になったところで相手にすらならないだろう」


 屋船は肩を竦め、そして表情をより一層険しいものに変える。


「〝赤帽子カーディナル〟を討て。〝脳男ブレイン〟を殺せ。アルビス・アーベント。今はまだ、《東都》が廃区を失うわけにはいかない。この混沌に終止符を打ってくれ」


 屋船の思い通りに動かされているようで不愉快だったが、考えている余地はない。それに屋船が現れようと現れまいと、アルビスの為すべきことは既に決まっていたのだ。


「――いいだろう。貴様に乗ってやる」

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