10/The dusk of glory《3》

 薄ぼんやりと目を開ける。

 焦点を結ぶより先に、不快極まりない薬品の刺激臭と僅かに香る腐臭が鼻孔を蹂躙した。


「…………くっさ」


 公龍は嗚咽混じりに抗議の声を上げる。しかしこの伏魔殿の主に、そんな申し出が聞き入れられるはずもないことは重々理解していた。


「起きて早々なんだね君は。もっとユーモラスかつチャーミング、そして何よりデンジャラスな反応はできないのかね」

「頼むから黙ってくれ人格破綻者」


 普通の感覚を持つ人間ならば誰しも起き抜けに聞きたくない声ナンバーワンであろう天常汐の声に、公龍は悪態を返して起き上がる。刹那、全身を途轍もない激痛が走り抜け、悶絶して吐血。耐え切れずに再び横になった。


「おかしいな。脳細胞は辛うじて生き残っていたはずなんだが。あれだけの怪我を負って人に治させておいて、まさかもう動けるなんて考える思考回路がまるで不明だ。君は人類史上に類を見ない馬鹿か、空前絶後の狂人か?」

「……なあ、下半身の感覚がないんだが、変なもの繋げてないよな?」

「ん、ああ、すまない。今あるものだとダチョウの脚、それと牛の胎児の身体、あとは確か五六倍に肥大化させたアマガエルの脚なんかもあるが、どれが望みかね?」

「今すぐ全部捨てて来い」


 公龍は吐き捨てるように言って、首だけをなんとか起こして自らの全身を確認した。見た目は見覚えのある自分の身体のままだった。全裸だったのは多少驚いたが、腕や脚の傷は縫合痕さえ見せずに塞がれている。

 そこで初めて、自分が生きているのだという実感が訪れた。


「…………助かった。礼を言う」


 頭を倒して公龍は言った。見上げる天井にはゆらゆらと揺れる裸電球がぶら下がっている。どうやらここは帝邦医科大学病院の離れではなく、汐がセーフハウスとして用いる傍ら闇医者的な稼業を暇潰しに営んでいるあばら屋らしい。

 無論、世界最高峰の医療技術と薬学知識を持つ彼女が闇医者稼業を営むのは〝闇医者ならばニシキヘビの皮膚を全身に移植したところで文句は言われないし、適当な人体実験し放題だろう?〟という理屈のためだ。

 汐は何かを書く手を止めた。きっと人体の解剖図面かカルテのどちらかだが、おそらくは前者だろう。


「なに、君と僕のなかじゃないか。それに手術のときに君の内臓はたっぷり舐め回させてもらった。十分な対価は支払われている」

「あ、やべ……めちゃくちゃ調子悪くなってきた。死にそう」

「そうか。ならばぜひ死んで医学発展の糧になってくれ」


 ほんの数秒前、この医療悪魔に本気で感謝してしまった自分を殺したくなってくる。どこまでが冗談でどこからが本気なのかが分からない。そして往々にして全てが本気で事実という可能性さえあるから恐ろしい。


「とりあえず今は安静にしておけ。調子が悪いのは本当だろう。体感では数週間くらいに感じているかもしれないが、実際はまだ半日程度しか立っていない。そもそも目覚めたことが奇跡だ。だが手足の神経に関してはまだ繋がって間もないし、十二指腸に脾臓、腎臓は縫合こそしてあるが機能低下は著しい。加えて言えば、全身で四二箇所の骨に罅。完全に折れるか砕けるかしている骨が、右の肋骨弓や左の上腕骨を含めて全部で一三箇所あった。もし仮に、死という状態に程度があるならば君は限りなく死んでいると言っていい。いくら君が常人離れした愚か者でも身体は生物のそれだ。そんな状態からの治癒には時間を必要とする」


 少なくともこれが真面目な話だとは判断できる程度に汐は医者で、公龍は患者だった。だが公龍には時間などなかった。


「何日だ」

「そうだね。普通なら三カ月。異常な君なら一カ月というところだろうね」

「それじゃだめだ。もっと早く治してくれ。いや、今すぐに――」

「無茶を言うな。君の細胞は疲弊し切っている。そもそも前回の治療だってギリギリだ。おまけに右胸の傷。放置したせいで回りの組織が腐りかけだ。治してやったばかりだというのに。九重、君はかたちあるものは破壊せずにはいられない早漏の節操なしなのかね」

「後半は全くもって意味不明だ。断固、意義を唱える」


 謂れのない汐の暴言に反論しながらも、公龍は声のトーンを一段落として言う。


「桜華が危ないんだ」


 天音聖來が〝脳男ブレイン〟の手に落ちた以上、桜華もまたあの場所で囚われていると推測するのが当然だった。

 もちろん汐も桜華のことは知っている。以前に公龍とどういう関係にあったかまでだ。だから汐はしばらく沈黙したあとに呟いた。


「ほう」

「俺にはあいつを救う義務がある。時間がない。だから俺はアンタを頼った」


 公龍はキティ・ザ・スウェッティの戦闘を終えたあと、命からがら汐へと救助を要請するメールを送った。汐の気分次第で命が左右される状況が気に喰わないことは事実だったが、それ以外に方法がなかった。そして汐の気分が乗ったために公龍は助け出され、今ここでこうして命を繋ぐことができている。


「その選択は正解だが、僕も医者の端くれだ。死地に向かうと分かっている患者に無茶苦茶な付け焼刃の治療を施す趣味はない」


 人体実験の常習犯が一体何を言うかと叫びたくなる衝動を抑えながら、公龍は静かに続けた。


「桜華が俺の全てだとは言わない。だけど、彼女の夢や目標、描く理想はきっと本物なんだ。たとえどこかで何かを間違えていたせいで、今回のようなことになったとしても、桜華はそれを糧に進める。進みたいと思えるんだ。俺は、そんな桜華の魂を、少しでも支えてやりたい」

「それは驕りではないのかい? 彼女は君の支えなど必要としていないし、守ってくれとも思っていない。だとしても君は進むというのかね」

「そうだ。俺は、桜華を愛している。これは俺のエゴだ。俺が俺である以上、やり通さないといけないことなんだ。もしそれでこの身体が朽ちるとしても」


 しばらく汐は黙っていた。公龍も静かに返答を待っていた。


「よくそんな暑苦しい台詞、よく裸電球に向かって吐けるものだ。やはり君の精神構造は僕には到底理解できないね」

「な……」


 冷たく言い放つ汐の言葉に、公龍は絶句する。しかし公龍をよそに、汐は話し続ける。


「理解できない、これは僕にとってとても新鮮な感覚だ。大抵のことは理解できるし、そのせいで学問なんてくだらないものを納め過ぎた。だから一つの実験材料として、君の行く末を見届けておいてやる。……さ、起きろ」


 ぱちん、と太腿を叩かれた。瀕死の重傷を負っていた人間になんてことをするのかと思ったが、激痛を押し殺しながら公龍はゆっくりと起き上がった。上体を起こしただけで全身からは玉のような汗が噴き出した。

 汐はいつも通りの不健康で気だるげな表情で、椅子に浅く腰かけていた。その表情が訴える感情は実に複雑で、公龍は多少の申し訳なさを感じたが他に縋る術がない以上、謝りはしなかった。


「これから鉄灰色アイアングレー檸檬色ビビッドイエロー混合液剤スクランブルを投与する。効果の強度は特殊調合薬カクテルの連続使用や二重服用とは全く別物だ。それで数時間は動けるようになるはずだ。それと、万が一のときのため、切り札を渡しておく」

「まだ残ってるんだな、あれが」

「当たり前だ。人類史上最高の傑作を有象無象の命令如きでみすみす破棄するわけがないだろう。だが耐えられる人間がいなかったというのもまた事実で誰に渡るわけでもなかったがね」


 汐はデスクの下から分厚いジェラルミンケースを取り出す。バッテリー式の冷蔵保存装置付きの代物は、開けると白い冷気が溢れ出た。

 埋め込み式のロックを解除していくと空気が抜けるような音がして固定されていたシリンダーがケースからせり出してくる。

 シリンダーの中身は目が覚めるような緋色の液体だった。薄暗い室内でもその色がはっきりと分かるほどに鮮烈で、まるで太陽の光と熱を凝縮したような粘り気のある薬剤。

 それが何かを公龍は知っていた。

 原初の特殊調合薬オリジン・カクテルの一つ――緋色クリムゾンのアンプル。公龍が桜華と別れてアルビスとともに解薬士になる以前、まだ《リンドウ・アークス》の研究部に籍を置いていた桜華が開発した特殊調合薬カクテル。その強大な効果ゆえに、未だその効用を十分に発揮できたものがいない禁忌の秘薬。それどころか服用した者の肉体と精神が破壊されるという曰くつきの代物でもあり、《リンドウ・アークス》から研究資料の断片に至る全ての破棄が強制されていたはずの猛毒。

 汐はそんな悪魔の薬の入ったシリンダーをひょいと摘み上げ、公龍へと手渡す。怪我のせいでぎこちなくしか動かない手で、公龍はそれをしかと受け取る。


「どうせこんなことだろうと思って、既に君の心身に馴染みやすいように調整は済ませてある。オリジンだが、経口摂取ではなく医薬機孔メディホールを通して構わない。副作用で死んだ薬漬けの死体は僕の死体標本に加えたくないから、多少効用は薄まっているが副作用も起きにくいはずだ」


 汐は非常に真面目な口調で言う。闇医者稼業もそうだが、大学病院に籍を置く以上は患者と対面する臨床医としての顔も持っているはずなのだが、汐が患者とにこやかに会話をする姿が全く想像できなかった。もし担当された患者がいたならば、悪魔を見たと思って科学から宗教へと鞍替えするに違いない。


「重要なのは死に方だ。いいか? しこたま殴られたりするのは問題ない。どうせ皮膚なんて剥がして人工皮膚でも移植してしまえばいい。だが、あれは駄目だ、あれ。ナイフでぶすり。筋肉や骨に傷がつく。別で冷凍保存する内臓にも影響が出かねない」


 眩暈がしてきたのはきっと気のせいではないはずだ。

 汐は公龍の様子など気に掛けることもなく、気の済むまで死体愛や内臓愛を語ったあとに咳払い一つで何事もなかったかのように話を元へと戻す。


「だが、この特殊調合薬カクテルに関してだけはさすがの僕でも絶対の安全は保証できない。使わずに戦えるのならそれが一番。使うにしても奥の手だと思っておけ」

「ああ、恩に着る」

「やけに素直で気味が悪いな。頼むから死んでくれ」

「なんだよセンセ、俺に罵られるのが希望かよ」

「よく分かっているじゃないか。僕はこう見えても真性ドえ――――」

「分かった。分かったから黙れ。とりあえず黙れ。何がなんでも黙れ」


 睨みつける公龍に、汐は口元に笑みを浮かべる。柔らかで自然な、公龍でさえこれまで一度も見たことのない微笑。


「死体でも悪くはないが、やはり君と話せなくなるのは少しばかり味気ない。なんだかんだで僕は君と関わることで世界との繋がりを実感しているらしい。だから戻ってこい。僕はね、君が思っているよりも君に感謝をしているんだ」


 唯一の拠り所だった学術界から半ば追放され、それでも医薬の道以外に生きる術などないから厄介者として病院の片隅で世に出ることのない研究に明け暮れる。そんな世捨て人同然の自分を現実世界へ繋ぎ止めるのは、たとえ腐れ縁だと言ってはいても心から必要とし頼ってくれる公龍たちなのだと。過ぎた才能と頭脳によって社会に拒まれ打ちひしがれて、それでも尚こうして生きているのは君がいるからだと、汐の微笑みの意味の重さを悟る。


「そういうのはずりいぜ、センセ。それに買いかぶりすぎだ」


 公龍は軽く笑ってあしらうように言う。

 口元は引き攣り、視線はどこか遠くを映している。

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