10/The dusk of glory《1》

 投げつけられた機関銃を、横っ飛びで躱す。しかし躱した先にはダガーナイフを逆手に握るキティ・ザ・スウェッティが距離を詰めて待ち構える。

 踵で急ブレーキをかけ、上体を仰け反らせて一閃を再び回避。そのまま背中のバネを使ってバク転で後退。

 キティ・ザ・スウェッティの動きのキレはつい数日前に対峙したときよりも遥かに増していた。そしてそれは計算された理性的な殺意を込めた攻撃というより、空腹に猛り狂った猛獣のような本能的で実に危うい猛攻だった。

 距離を取った先から、キティ・ザ・スウェッティが迫る。

 動作の一〇割が攻撃に割り振られ、一切の迷いも防御もない。もともと桁外れだった戦闘力が常軌を逸したインフレを起こしていた。

 かたや公龍と言えば、手負いで、おまけに戦闘装備の特殊調合薬カクテルは先日の祭りの残りだ。キティ・ザ・スウェッティの神経毒を無効化する瑠璃色ラピスラズリのアンプルは既になく、その他のアンプルもそう多くは残っていない。

 まずは桜華の身柄を確保してから、と考えていたのが仇になった。あれほど追い詰めたのだからすぐには動けないだろうと高を括っていたが、既にアルビスが退院し、職務に復帰している以上、同じような超科学で生かされる〝赤帽子カーディナル〟が動けないはずがなかった。

 身を捩って、一瞬にして順手に持ち替えられたナイフの刺突を躱す。地面を転がり、体勢を立て直しきる前に跳躍。振り下ろされたナイフが右腕を掠めて赤い糸を引く。


「れめえ、ここここころおおおおおおおおおおおっっっっっす!」


 前のめりになった姿勢から、キティ・ザ・スウェッティが九〇度の方向転換を加えた跳躍。凄まじい脚力のせいで間合いが詰まりすぎ、振るったナイフは掠りもせず、代わりにキティ・ザ・スウェッティの肘が公龍の首を打った。公龍はそのまま強引に薙ぎ払われて、視界が反転。地面に擦って顔の半分が血に染まる。

 キティ・ザ・スウェッティは普通なら三挙動くらいを必要とする動きをたった一手でやってくる。まるでチートだ。ゲームなどやらないが、公龍とキティ・ザ・スウェッティでは操作に必要なコントローラーの使用が三世代くらい違う気がする。

 捻じれた眼鏡を指で押し上げ、体勢を立て直す。柱の側面に着地すると同時、公龍へ向けて再度跳躍していたキティ・ザ・スウェッティが既に眼前に迫っている。

 もはや回避の猶予もない。

 公龍はナイフの刺突を、僅かにずらした身体で受け止めた。


「ぐっ」


 ナイフは既に血が滲む右肩を抉るように突き刺さっている。しかしキティ・ザ・スウェッティの腕を公龍の手が捉えていた。もう一方の手には回転式拳銃型注射器ピュリフィケイター。その鋭く尖った針が鈍く光る。

 キティ・ザ・スウェッティとて、その異質な武器が生み出す悪夢を忘れたわけではない。強引にナイフを引き抜こうと、バックステップで後ろへ重心をずらす。

 しかし公龍も簡単に逃がすわけにはいかない。黒塗りのナイフは肉を切らせるどころかちゃっかりと骨まで砕いているのだ。一発くらい返さなければ割に合わない。

 キティ・ザ・スウェッティが空いているほうの手で背中に手を回す。スリングから外されたのは、手榴弾。しかも既にピンは抜かれている。

 悪夢のなかに放り込まれるくらいなら、一緒に粉微塵になってやると言わんばかり。


「なっ……くそっ!」


 動揺から公龍の握力が緩み、拘束を振り解かれる。手榴弾を手放したキティ・ザ・スウェッティが驚異的な脚力で後退していくが、公龍に同じ芸当はできない。

 公龍は脚を振り上げて手榴弾を蹴り上げる。しかし地下駐車場の天井如きでは高さが足りない。軸足だけで踏み込んで、横に飛び退く。

 刹那、爆発。

 爆炎が押し寄せ、背中が熱に切り裂かれる。

 公龍は吹き飛びながらも体勢を立て直し、黒煙を利用してキティ・ザ・スウェッティの視界から一瞬だけ外れることに成功。すぐさま適当な車の影に回り込んだ。


「ちくしょう……心中相手にしちゃ最悪だぜ」


 押し殺すように言って、回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターに装填されるアンプルを確認。弾倉を一つ回して首筋の医薬機孔メディホールに針を刺す。

 まずは鉄灰色アイアングレーのアンプル。細胞分裂を促進して、受けた損傷を応急処置。

 次に檸檬色ビビッドイエローのアンプル。痛覚の遮断。攻撃こそ最大の防御であるという意志表示。

 そして珊瑚色コーラルレッドのアンプルと唐紅色カメリヤのアンプル。手の甲から迸った鮮血が一振りの刀を形作り、指先には血の弾丸が蓄えられる。

 身体はとっくに限界だった。まともな治療どころか、最低限の休息さえ取れていない。桜華を守らなければという強迫的な執念だけで、身体を突き動かしているも同然だった。

 そしてそれはキティ・ザ・スウェッティも同じ。

 奴は公龍への復讐というただ一点に縋って活動している。

 ならばあとは気力と気力のぶつかり合いだ。

 黒煙が晴れていく。向かいにある車の車体越し、キティ・ザ・スウェッティの姿が見えた。そして当然だが向こうにも公龍の姿は見えている。

 何かが破裂するように、互いが同時に駆け出す。

 身体は動く。いや動かさなければならない。

 アスファルトに揺らめく炎のなかを疾走し、キティ・ザ・スウェッティが跳躍。ボンネットからボンネットへと飛び移りながら、怪物じみた七二口径の巨銃を連射。

 公龍は低い姿勢のまま駆け抜け、銃弾の嵐を掻い潜る。キティ・ザ・スウェッティの立つ車のボンネットへと血の刃を振り下ろす。キティ・ザ・スウェッティは他の車に飛び移って回避。巨銃を放つ。拉げた車を強引に自分の前へ引っ張り出して盾に。エンジンオイルに引火。爆発が巻き起こる前に公龍は既に退避している。

 キティ・ザ・スウェッティは炎に焼かれて地面を転がる。べろりと右側の皮膚が剥がれたが、さして気にしていない様子。薬漬けにされたせいで、痛覚どころかまともな感覚さえ侵されていた。

 爆発の轟音を切り裂きながら、黒煙へ飛び込む公龍。視界は、辛うじて右側だけ生き残っていた眼鏡の流体フィルムがレーダー視界へと視野を切り替えることで確保。肌を抉るような熱を感じながらキティ・ザ・スウェッティの目の前に跳び出す。

 そして一閃。

 しかし躱された斬撃は陽動。キティ・ザ・スウェッティの懐に潜り込ませた左手から、五条の赤い弾丸が放たれる。

 パァン、と乾いた音がして、手応え。

 しかし同時に訪れる、下腹部に感じる不快な温かさ。そして冷たさ。

 キティ・ザ・スウェッティの身体は血の弾丸貫通の衝撃で吹き飛び、地面に大きく跳ねたあと柱に激突。

 公龍はたたらを踏む。確認するまでもなく、鋭利なダガーナイフが腹深くに突き刺さっていた。

 ナイフを引き抜き捨てる。血が溢れる。傷口が煙を上げて、再生される。しかし鉄灰色アイアングレーのアンプルによって即効の治癒ができるのは外側の怪我が中心で、破れた内臓までは治すにはそれなりの時間が必要だった。

 がふ、と公龍が血を吐く。膝に力を込めて倒れるのをなんとか堪える。


「うそ、……だろ」


 ゆらりと立ち上がるキティ・ザ・スウェッティ。見て明らかなほど完全に、首の骨が折れているにも関わらず彼女は動いていた。復讐と妄執に動かされる怪物は、虚ろな双眸に昏い憎悪の光だけを湛えて巨銃を構える。七二口径の漆黒が正面から公龍を覗いていた。


「ほぉぉぉごぁぁぁ…………、ご、ご、ごのれ、ぼろ、ず」


 キティ・ザ・スウェッティが泡立つ血とともに吐き出した声は三流ホラー映画のゾンビのように、低く響いた。

 動けなかった。肺がしゃくりを上げ、全身に力が入らなくなる。

 神経毒。キティ・ザ・スウェッティの体内で生成され、汗として振り撒かれる致死性の劇物。

 ゆっくりと撃鉄が起こされ、乾いた音を立てるのを霞んだ視界で見つめていた。

 キティ・ザ・スウェッティが引き金を引いた。放たれた弾丸は、大きく逸れて公龍の遥か横を過ぎていく。首が傾いたことで照準の勝手が狂っただけのようで、再び巨銃が据えられる。


「ぎぃぃあぁぁっ! ら、あ、が、うがっ!」


 歯ぎしりなのか発声なのか分からない曖昧な呻き声。両目から血なのか涙なのか、赤黒い液体がどろりと垂れて鼻梁と頬を汚す。その執念は、公龍さえも恐怖させる。

 そして発砲。

 しかし。

 かちり、と間抜けな音が痛々しい破壊の刻まれた駐車場に響く。――弾切れ。

 キティ・ザ・スウェッティが苛立ちまぎれに、あるいは運命の悪戯を踏み躙るように、巨銃を捨てる。地面を落ちた巨銃が鈍い音を立てて、転がった。しかしもう片方の手に握られる新たなダガーナイフが鈍い光を放っている。

 公龍は力なく地面に倒れる。呼吸さえ満足にできず、身体のなかの至る所を蟲にでも掻き回されているような激痛が襲う。檸檬色ビビッドイエローのアンプルのおかげで痛みに喘ぐことはなかったが、そのせいで自分の身体がズタズタになっていく様を冷静に理解させられる。

 致死性の神経毒を喰らっても、息ができない程度で済み即死を免れているのは、体内の異物に反応した医薬機孔メディホールが中和剤を生成しているからだ。もちろん天常汐謹製の瑠璃色ラピスラズリのアンプルほどの効果はなくとも、身体をぎりぎりのところで生かすくらいのことはできた。

 キティ・ザ・スウェッティはゆっくりと歩いてくる。足取りは酩酊したそれよりも遥かに覚束ない。風が吹けば、煽られて倒れそうな不安定さ。しかし確実に、握るダガーナイフをちらつかせながらキティ・ザ・スウェッティは公龍へと近づく。

 頸椎が折れているのだから、普通なら歩けるはずなどなかったが、この怪物に普通を期待することが間違いだった。

 思考が拡散していく。脳味噌が白い膜にでも覆われたように、何も考えられなくなってくる。考えてもすぐに霧散し、何一つとしてまとまらなかった。

 分かるのは、このままだと死ぬ、ということだった。

 左脚に激痛、という理解。いつの間にかダガーナイフが突き刺さっていた。キティ・ザ・スウェッティは悦楽の笑みを浮かべ、ダガーナイフの捻じ込むように左右に回した。肉が千切れ、骨が削れる。ただでは殺さないと、狂気の顔貌が語る。

 だが残念なことに公龍の痛覚は一切遮断されていた。脳が痛みを感じない以上、それは単なる認識以外の何ものでもなく、苦痛らしい苦痛は全く感じられなかった。だが表情筋が動く限りにおいて苦しそうな顔はしておく。

 続いて右腕。掌に突き立てられたナイフはそのまま真っ直ぐに手首、下腕と通り、上腕へと上ってくる。手首のところで太い血管を、肘のあたりで重要な神経を傷つけたらしく、まるで腕が無くなったように感じられ、秒刻みで血だまりが大きくなっていく。

 キティ・ザ・スウェッティはいつの間にか馬乗りになっていた。女に乗られるというのは悪くないが、あまりガツガツしている女はタイプじゃない。

 その点、桜華は最高だった。いつもはやり手の敏腕社長でも、ベッドではおしとやかで子猫みたいだった。できることならもう一度――。

 過去の想起と妄想に虚しくなりながら、公龍は必死に思考を紡いでいた。そうやって気力で意識を保っていないと、今すぐにでも意識を失いそうだった。

 キティ・ザ・スウェッティの復讐は、左腕へと移っていた。右腕同様に掌から切り裂かれ、膨大な量の血が溢れる。ついでに親指と人差し指も斬り落とされていた。何故その二本なのかと考え、全く思考がまとまらないことを再確認。あまりの多量出血で、脳どころか全身の至る所に血が巡っていない。

 公龍は口角を僅かに綻ばせる。その意味をキティ・ザ・スウェッティが推し量ることはない。

 刹那、電気が走ったかのように公龍の指先が微かに動き、そして血塗れの腕を振り上げる。飛び散った血は完全にキティ・ザ・スウェッティの意表を突き、その視界を深紅で塗り潰す。

 公龍は体内の神経毒が出血とともに体外へ放出されるのを待っていた。

 痺れこそ残り、呼吸も浅いが動くことができた。大量の血を失い、四肢のうち三つが取り返しのつかないレベルで欠損していたが生きていた。

 公龍は力任せにキティ・ザ・スウェッティを押し倒して形勢を逆転する。その際にダガーナイフを弾いておくことも抜け目ない。ズボンのポケットから適当なアンプルを掴めるだけ掴みだし、目潰しを喰らってもがくキティ・ザ・スウェッティの口腔に腕ごと突っ込んだ。


「――っ、――っ、――っ!」


 食い千切ろうと顎に力を込める。多重服用していた特殊調合薬カクテルも、血と神経毒と一緒に流れ出ているため途轍もない激痛が右腕を始めとする全身を襲ったが、この千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかなかった。

 感覚の乏しい指先で奥歯を探り当て、アンプルをそこに置いて腕を引き抜く。ガチン、と歯が噛み合い強烈な咀嚼力がアンプルを噛み砕いた。

 キティ・ザ・スウェッティが抵抗し、馬乗りになっていた公龍を殴りつけて蹴飛ばす。公龍は大した対処もできずに顔から地面へ転がった。起き上がる力さえ残っていない。

 あとは賭けだった。

 公龍が強引に嚥下させたそれが何色のアンプルなのかは、もはや神のみぞ知る。それどころか経口摂取でどれくらいの劇的な効果を生むのかさえ未知数だった。

 果たして、公龍は賭けに勝利した。

 地面に転がるダガーナイフを拾い上げようと伸ばした右腕が不自然に隆起し、関節とは逆方向に曲がって爆ぜる。もう一方の腕は雑巾さながらに絞り上げられ、骨肉が破壊される歪な音を奏でた。肩回りが異常に膨らみ、破裂した血管が血の霧を吹き上げる。筋を浮き立たせた太腿は途中でくの字に折れる。しかし隆起する筋肉に呑み込まれ、血や折れた骨は露わにはならない。


「――――ぇぇっ、ぎ、あ、あ、ぐ、な、あ、あ、あ、ああああああああああああああああ――」


 筋肉だるまと化したキティ・ザ・スウェッティの肉体が、強靭すぎる筋肉の伸縮によって破壊されていく。

 呑み込ませたのは鉄灰色アイアングレーのアンプル。注射による注入を前提としている天常謹製の劇薬は、経口摂取でもその効果を存分に発揮していた。

 やがて治癒を通り越して膨張しきった筋肉によって身体を支える骨のほとんどを砕かれたキティ・ザ・スウェッティが頽れる。そして動くことも、呻くこともなくなる。

 駐車場に静寂が落ちる。

 公龍は生きていた。死んでいたところで何の不思議さもない損傷だったが、辛くも生き残っていた。出血は多くの細胞の死滅と引き換えに、神経毒を流しきっていた。

 天井を仰ぐ。

 殺風景な灰色だけが鮮明に見えた。


「…………まだ。……まだだ」


 公龍はもう一度血を吐いて、呟いた。

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