08/Recapture & departure《1》
第二一区を南進し、第一三区を折り返しとして北上を始めた光点は再び湾岸地区へと入り、バーウィックの殺害現場付近を通り、さらに北へ進み、二一区を抜けてなお北上を続けた。追手を警戒しての迂回なのか、あるいは単に逃避行を楽しんでいるだけなのか、アルビスたちには分からなかったが、日没が迫ったころ、ようやくある一点で止まった。
《東都》東端に位置する湾岸の倉庫群――通称ポンプ。輸出入の基点であり、《東都》における物流の起点。桜華が社長を務める《イーストアクセル》によって管理運営され、そのほとんどをドローンとシステムによって自動化されている。《東都》ではこうして様々な企業や団体の物資の流通を《イーストアクセル》に一任することで、市場での商品飽和を防ぎ、最も無駄のない効率的な流通を可能にしている。これは効率化だけではなく、
追跡の光点が止まったのは、そんなポンプの一角――《平和製薬》という中堅製薬会社が借り受ける倉庫だった。
既に平和製薬の本社と執行役員の自宅には令状を持った警察が押し寄せているはずだ。平和製薬に〝
為すべきは、実に簡潔だった。
〝
そうすることで全ての危機は排除され、公龍という粗暴で喧嘩っ早いクソみたいな相棒とともに
最低だが悪くはない。どんな高みも大願も、目の前の階段を一段一段踏みしめていく以外に到達する方法はないのだから。
ただ一つだけ、アルビスたちの元へとクロエを送り込んだ人物の存在だけが依然として謎のままだった。もちろんクロエはその人物について何も知らず、どういう経緯で事務所に辿り着いたのかも判然としなかった。
おそらくその人物はクロエが〝
誰だかも分からない人間の描いた脚本通りに動かされていることだけが癪だったが、それはそれだ。全てが終わり、勝利を収めたあとに見つけ出して文句の一つでも言ってやればいい。
アルビスは今、澪が運転する車の後部座席に公龍と並んで座っていた。間には微妙な空間が置かれ、見えない壁となって二人を隔てている。
「……本当にお二人だけで大丈夫ですか?」
バックミラー越しに、頭に包帯を巻いた澪の顔が見える。
「ああ。SATのような洗練されたチームとの連携は私たちが二人で戦う限りにおいて、むしろ互いに反作用しか生まない。私たちは二人で戦闘するように最適化されている」
「そうですか。ではわたしたち警察は少し離れた場所で待機します。お二方に逮捕権はありませんので、制圧完了後に突入します」
「よろしく頼む。……公龍、行くぞ」
「へいへい」
アルビスは扉を開けて外へと出る。春の夜の冷たい風が銀髪を靡かせる。西の空はまだほんの少しだけ赤紫色をしている。日没は近かった。公龍も反対側の扉から外へと出る。
クロエが攫われて以来、公龍はほとんど一言も口をきいていない。爛々とした憎悪を双眸に宿らせ、ぼんやりと周囲を眺めているだけだ。
精神状態は極めて不安定と言えた。だが落ち着いてはいるし、集中力を欠いてもいない。むしろこれまでに見たことがないほどにまで公龍の意識は研ぎ澄まされている。アルビスは相棒の胆力を信頼し、特別に声を掛けたりはしない。
アルビスは
目当ての倉庫は五ブロック先にあった。距離にしておよそ三キロ弱。ここからは気配を殺し、忍び寄るように接近していく。
「公龍、用心しておけ。奇襲したと思って、飛び込んだ先が罠である可能性もある。奴らが仕込んだ発信機に気づいていない保証はない」
公龍は何も答えることなく、駆け出した。先行する公龍にアルビスも続く。
足音も立てずに走りながら、アルビスは
公龍を抱えて跳躍。トタン屋根に着地。公龍を下ろして再び疾駆。疾駆。疾駆。跳躍。疾駆。
三キロの道のりを一〇分とかからずに走破する。間もなく目的の倉庫が見える。アルビスと公龍はほとんど同時に、
突如として溢れ出した情報の波に、脳の処理が追いつかずに疼痛が走る――敵の気配はない。テロリストたちの隠れ処であるという可能性があるのに、まるで倉庫の周囲にはまるで人の気配がない。
倉庫の内部構造は把握していた。一階は古くなった創薬機材や出荷の近い薬品を一時的に保管しておく場所とドローンのメンテナンススペースに区分けされ、階段かシャフトで上に上った二階にはいくつもの小部屋に古い資料や段ボール詰めされた薬品、あるいは比較的小さな機材や道具の保管場所になっている。
アルビスは屋根から身を投げ、絶妙なタイミングでその縁を掴み、靴の踵で窓ガラスを割った。思いの外大きな音が響いたが、すぐさま波濤に掻き消され、倉庫内に動きは見られない。
掴まった屋根の淵を支点にして、身体を前後に揺さぶって破った窓から倉庫内へと侵入する。
侵入後すぐの迎撃も覚悟していたが、用途が不明の道具が乱雑に押し込められた段ボール箱の並ぶ室内は、気味が悪いほどに静かで暗いだった。
続いて公龍も窓から部屋へと入ってくる。着地して第一声。
「静かなもんだな」
「ああ、おそらくは気づかれているとみて間違いない。きっと奴らが仕掛けてくる」
「どっちにしろ、ぶっ飛ばすだけだ」
二人は強化された五感を張り巡らせながら、入り口へと歩を進める。
部屋は月光が指す以外はほとんど暗闇なので、アルビスは
扉の脇に身体を寄せる。気配を確認――異常なし。極限まで高められた感覚能力は壁を隔てた通路の気配さえも感じ取っていた。
公龍へ目線を送ってドアノブに手をかける。音を立てないようにゆっくりと回し、そして勢いよく、身体で押し込むように扉を開く。
通路に出た途端、動体検知器と連動していたライトが灯り、アルビスの瞼を突き刺す。
「……環境ホログラム」
眼鏡に内蔵される流体フィルムによって光量の自動調整が為されるおかげで公龍には目晦ましが効かない。故に現れた景色の正体を看破するのも一瞬だ。
すぐさま結んだアルビスの焦点が示すのは、絢爛な内装。壁は悠久の時間を超えてきたことを語るような石造り。等間隔で壁に備え付けられた真鍮の蝋燭台に、床に敷き詰められた毛足の長い深紅の絨毯。公龍の呟きが無ければ、中世の城内か何かに迷い込んだと錯覚しただろう。
もちろん古めかしくも絢爛なこのホログラムの内装は、元から倉庫二階の廊下に設置されていたわけではない。間違いなくテロリストたちの隠れ処とされた以降に設置されたものだ。〝
罠に嵌ったのだと自覚したときには既に遅かった。
金切り音を立てて、空間が歪んでいく。蝋燭台が異様に大きくなり無数に分裂し、壁と天井を覆う。深紅の絨毯が波打つ。壁は遠近感をなくして眼前に迫ってくる。
猛烈な眩暈と吐き気。たたらを踏むも、揺れる壁には手を付けず、波打つ床に足を彷徨わせる。
もちろんフロアそのもの、空間そのものが歪んでいるわけではない。精巧に作られたホログラムが意図的にクラックされ、歪曲した環境ホログラムが投影されているにすぎない。
しかし視覚を欺瞞して娯楽を提供する技術が環境ホログラムである。その渦中にいるアルビスたちに投影されるホログラムを看破する術はない。
そして前方から迫る不規則な足音。蝋燭台の影からアルビスへと腕が伸びた。腕の先にはナイフが握られる。銀閃が迫るが、間一髪で仰け反って躱す。
襲撃者は〝
「公龍っ!
目まぐるしく回転し歪む視界のなかで、アルビスは叫んだ。
ぱしゅ、という気の抜ける音。獣が唸るような筋肉の咆哮が聞こえた。アルビスは再度迫っていたナイフを紙一重でいなし、落下に備える。
刹那、強烈な斬撃音。波打っていた絨毯に一筋の亀裂が入り、ノイズが広がった。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
雄叫びとともにもう一筋の剣閃が走る。亀裂が深くなり、歪んだ視界が傾いだ。
床が崩落していく轟音に、環境ホログラムが掻き消されていく。アルビスは崩れる床を足場にして跳躍。振り上げる脚が目の前で横ばいに落ちていく男の意識を抉り取る。瓦礫を蹴って横に飛び退き、崩落に巻き込まれるのを防ぐ。床を転がりすぐに立ち上がる。
公龍は積まれたコンテナの上に立っていた。瓦礫を免れて左右から迫るテロリストに向けて血赤の一閃。胸が切り裂かれ、男たちが吹き飛ぶ。段ボール箱の壁に激突し、そのまま意識ごと段ボール箱に埋まっていく。
残りの二人に関しては、アルビスたちがどうこうするまでもなく瓦礫に埋もれて倒れていた。
乾いた拍手が鳴った。
品のない笑い声が響いた。
「床を斬るとはお見事なのだよ」
「かはは。だからあいつらじゃ無理だと言っただろ、ばぁかっ!」
積まれたコンテナの上に腰かけ、脚を組んでいるアイアンスキナーと、そこから少し離れた資材運搬車の運転席で退屈そうにハンドルを足蹴にしているキティ・ザ・スウェッティ。
赤いキャップを被る生物兵器女が口汚く罵った先は、黒光りする伊達男ではなかった。
アイアンスキナーの背後に立つ幽鬼のような人影。顔は肥大化した脳のような不気味な仮面に覆われている。さらには引き摺るほどの長外套を纏っているせいで外見ではそれが人かどうかを判別することさえ難しい。
だがアルビスにはそれが何か、予想ができた。
「「「お初にお目にかかる。九重公龍、アルビス・アーベント。まずはここまで辿り着いたことを称賛させてもらおうか」」」
老若男女問わず、無数の人間の声を重ねたような不愉快な合成音声。奇妙な抑揚は機械が喋っているようでもありながら、どこか生々しい調子を帯びる。
「「「私の名は〝
〝
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