07/Wrapping in smoke《1》
謎と陰謀の影だけが散りばめられ、
退院から四日。〝
アルビスたちも独自に情報を集める傍ら、再びの襲撃に備えて警戒する日々を送っている。
クロエは幾分か事務所での生活にも慣れたようだたった。外出は控えているが、テレビや
そして五日目の朝、事務所のソファで公龍がいつも通り寝ぼけていると、澪から連絡が入った。
既に出勤し、事務所の清掃に取り掛かっていたアルビスが頭に三角巾を巻き、はたき片手に三角からの通信に応じた。
澪の報告を受け、二、三度頷いて通信を切ったアルビスが公龍を一瞥する。
「〝
アルビスがどうすると聞くのは、クロエを捜査に連れ回すことに対して公龍が文句を言ったからだ。捜査への同行が危険を伴うのは当然の懸念材料だ。もちろん解薬士が二人一組の単位で行動することが原則であり、いつ〝
「どうするって、行くしかねえだろ」
「なら三分で準備しろ」
起き抜けの人間には無茶苦茶な要求だったが、言われた通り三分で準備して公龍はビルの前に路駐されているアルビスの車へと向かう。寝ぼけたままのクロエを抱きかかえ、後部座席に乗り込むとアルビスが既に運転席で待っていた。
「三二秒の遅刻」
「あまり細かいと女にモテねえぞ」
「時間にルーズなお前が悪い」
「秒刻みのスケジュールなら予めそこまで指定しとくんだな」
「公龍、貴様は面倒な性格だな」
「お前にだけは言われたくねえよ」
経路設定された車が動き出す。公龍は後部座席からカーナビを覗きこむ。どうやら向かう先は隣接する二一区のようだった。
二〇から二二区までの東京湾に接するコーストベルトと呼ばれるエリアは治安が良くないことで知られる。中でもその中心である二一区は賢政会と鴻田組という二つ新興の暴力団が覇権を競っており、廃区では抗争が繰り広げられていたりもする。なぜ二一区かという問題はごく単純で、東京湾に面するこのエリアを支配できれば人身や麻薬の国外取引に大きなアドバンテージを握ることができるからだ。ともかく震災以前は高級住宅街としての地位を確立し、超高層マンションが乱立していたという湾岸地区は今や見る影もない。
しかし目的地のピンが立っているのは、抗争の只中である廃区とは無関係そうな住宅街だった。
車を法定速度で走らせること十数分。連絡を受けてからおよそ三〇分弱で現場へと到着した二人を澪が出迎える。クロエは車に寝かせたままにし、澪の指示で警官数名が護衛として配置される。
「被害者は?」
ドローン相手に免許証のIDを翳したアルビスが、長い脚でテープを跨ぎながら訊いた。澪は同じテープを潜りながら答える。
「例のごとく頭部がないので現状では遺留品での判断になりますが、被害者はジョナサン・バーウィック。都市社会学を研究してるアメリカ国籍の学者です。震災以後、《東都》に興味をもってこっちに住居を移して、研究の傍ら私立大学の教授をやっていたようです」
「なるほど。つい先日、彼の論文を読んだ。確かテーマは……」
「『
「よくご存知で」
「四年前の論文だ。俺はリアルタイムで読んでるんだよね。当時は目新しさも何もない論文だったけど、最近じゃ
「驚きました。てっきり脳味噌までアルコールに侵されているとばかり」
「酷くない? 澪ちゃんってば。俺って実は天才なんだよ?」
三人はバーウィックの自宅である一軒家へと入る。殺害現場はリビングらしく、玄関のすぐ脇で若い刑事が嗚咽を漏らしていた。
「……こりゃだいぶ派手にやったな」
部屋中が銃痕やら打撃痕やら刺突痕やらで埋め尽くされていて、家具は滅茶苦茶に破壊されている。まるで巨大な暴風に晒されたような有様に加え、部屋中に撒き散らされている糞尿が異様な臭いを醸す。澪曰く、異臭がするという近隣住民の報告で、家主の死が明らかになったらしい。リビングの壁には例のごとく首のない死体が立て掛けられていて、白を基調としていた壁には血と脳漿で派手に描かれた〝
「明らかな挑発だな」
「ああ。あの糞野郎。ぶっ飛ばしてやる」
公龍はパキリと拳を鳴らす。
静かに闘志を燃やす二人に気圧されながらも、澪は事件の説明を再開した。
「死因はアセトアミノフェンの多量投与による急性肝不全。バーウィック氏は数年前からアルコール性脂肪肝を患っていたようです。死んだあとに頭蓋を割られ、脳みそをペンキ代わりに使われた」
アルビスは死体の足元に落ちていた小瓶を拾い上げる。
「鎮痛剤か」
「そうですね。バーウィックは相当に拷問されたようです。奴らのいつも通りのやり口です」
公龍とアルビスは死体を検分していく。もちろん検視官が既に検分し終えているだろうが、それでも自分の目で確かめておくことが重要だった。
肉や皮膚を出血がひどくならないギリギリの深さで削ぎ落とした傷痕。焼いたナイフに貫かれたと思われる手の甲の焦げた傷。太い血管を避けながら、的確に施された拷問。そして至る所がわざとらしく乱雑に縫合されている。
「死後だいぶ経過しているようだけど?」
「部屋には暖房がかけられていました。そのせいで腐敗が進んでいるだけです。殺されたのは昨日の一四時から二〇時の間とみて間違いないと思います」
「なるほど。近隣住民で物音を聞いたりとかは?」
「います。ですが日ごろから休みの日は昼間から酒浸りで暴れたりもしたようで。触らぬ神に祟りなしということですね」
「日頃の行いが自らの首を絞めるいい例というわけだ」
「なんで俺を見んだよ! 嫌味飛ばしてる暇あんならさっさと済ませろ。臭くて敵わねえ」
公龍は鼻を摘まんで声を荒げる。腐敗した死体に対面するのは別に初めてではないが、この臭いに慣れることはない。まして今回は汚物とのダブルパンチだ。あまりに――。
「なあ、澪ちゃんよ。通報者の身元って分かってんのか?」
鼻を摘まんだまま、公龍は訊ねた。
「匿名のはずです。警官が駆けつけたときには、とっくに野次馬だらけでした」
「そうか」
公龍は顎に手を当てて考え込んだ。
なぜ死体を腐敗させておいたのか。どうして汚物をばら撒いておいたのか。この二つは今までの〝
「ん?」
鼻を塞ぐことを忘れた公龍の嗅細胞を、暴力的な腐敗臭と汚物の臭気が刺激する。そのなかに微かに混ざる、魚のような生臭さ。
頭の中で一つの答えが結ぶと同時、公龍は叫んでいた。
「――死体から離れろっ!」
驚いて尻もちをついた澪を引き摺り、窓を突き破る。死体のすぐそばにしゃがみ込んでいたアルビスも弾かれたように床を蹴った。
刹那。
死体の腹が膨らみ、腐った体組織を突き破って火炎が上がった。轟音が轟き、視界が赤く染まる。猛り狂う炎は、一瞬にして部屋を呑み込んだ。
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