06/Restart《3》
何とか理由をつけて汐の元を後にしたアルビスは公龍たちと別れ、自動運転のタクシーへと乗り込み、退院したその足で第一区へと向かった。
かつては霞が関と呼ばれていた区画の一所に、聳えるように立つ城のような建造物。
警視庁本部庁舎である。
《東都》が《リンドウ・アークス》の企業城下町であるという性質に加え、特殊薬事案件/コードαの成立によって民間である解薬士が事件捜査に介入するなど、《東都》における警察権力の弱体化は著しい。だがそれでも事件捜査の初動を握り、今なお警察こそが治安の要であるという点は否定できない。
アルビスたちウロボロス解薬士事務所もまた、警視庁の傘下に入り、捜査情報などの優先提供を受ける契約を交わした事務所である。
普段の窓口は澪だったが、本庁を出入りするのも珍しいことではない。
しかしこの日、アルビスを出迎えたのは最も意外な人物だった。
撫で付けた白い髪。類まれなる知性を醸す切れ長の双眸。獰猛な獣のごとき豪胆さを滲ませる口元。制服の上からでも分かる鍛え上げた体躯。
警視総監、
面識がないわけではないが、そう滅多に会話をする相手でもない。そして何より、アルビスはこの男から得体の知れない威圧感を感じ取っている。
「肩の力を抜いてくれて構わんよ。飲むかね?」
「いえ」
「甘党でね。家内にも注意を受けているがこれだけは止められない」
有胤はエルメスのカップに注がれた紅茶に砂糖とミルクを二つずつ入れて口に運んだ。
「まず、こちらの要請を受けてくれたことに感謝を述べよう。君たちの実績は全て、飛鳥警部からよく聞いている」
アルビスは無言と無表情を意識的に保とうとする。どんな些細なものであっても、この男にこちらの情報を握らせるべきではないと、第六感が警鐘を鳴らす。
だがそんなアルビスを嘲笑うかのように、あるいは赤子でも愛でるかのように、有胤が微笑む。
「飛鳥警部の怪我は問題ない。数日もすれば現場復帰できる」
「そうか」
アルビスの返答に頷き、有胤は紅茶をもう一口含んで喉を潤す。
「それで、今日呼ばれた理由は何だ?」
「そう急くでない。少し話をしよう、アルビス・アーベント君」
有胤はカップを置き、顔の前で両の手を組む。鋭い双眸がアルビスを射貫くように見据えた。
「君は、この《東都》が健康だと思うかい?」
「どういう意味だ?」
都市の状態を表すには似つかわしくない言葉に、アルビスは首を傾げる。しかし有胤は質問に質問を重ねた。
「ハーバート・スペンサーを読んだことはあるかね?」
「いや。だが最低限の教養程度には知っている」
「読んでみるといい。あれは社会思想における金字塔的な名著だ」
既に会話は有胤のペースに乗っていた。だが時間が巻き戻せないのと同じレベルの必然性で、引き返すことはできない。アルビスは諦めて不可解な問答を続ける選択をする。
「都市は生き物だ。常に変化を求め、進化を繰り返していく。単純から複雑への分化。それこそがこの世界のあらゆるものに通底する第一原理というわけだ」
「社会進化論と都市の健康さに、どんな関係がある?」
「たとえばにわかに盛り上がっているナショナリズムへの回帰はこれに反する。複雑から単純への収束だからだ。スペンサーの言う通り、社会進化の到達点はリベラリズムでなければならない」
アルビスの問いに有胤は答えない。代わりに自らの思想を止めどなく展開する。
「《東都》は今、物凄い勢いで代謝を続けている。急速に変化し、その多くを篩にかけている。だがそれは、健全な発展と言えるだろうか? 廃区などと称し、そのうちに融和できない腫瘍を抱え込んだこの都市が」
「今はまだ、多様性を受け容れていくだけのキャパシティを持ち得ないだけだ。震災からまだたったの一〇年。人々の生活水準こそ元に戻りつつあるが、それだってギリギリのバランスで成り立っているにすぎない。廃区の人間が自分の生活にしか関心がないことと同様に、完全な復興へと邁進していく《東都》に廃区を気に掛ける余裕がないだけだ。それにスペンサーを引用するならば、廃区はただ単に適者生存できなかった人々の集落というにすぎないと思うが?」
「ほう……」
アルビスの反論に予想外の感心を得たらしい有胤が笑みを湛える。
「ならば君はこう考えるのか? 《東都》はいつか、廃区の人々を包摂していくのだ、と」
「廃区の人々がそれを望むなら。少なくとも都市は、それくらいの倫理観や憐れみを備えている」
有胤が組んだ手を解き、再びカップに手を伸ばす。ゆっくりと紅茶を飲み、深く息を吐く。
「くだらん模範解答だ」
「ならば貴方は何が言いたい?」
アルビスの薄青の怜悧な視線が有胤の鋼鉄の視線と交錯する。
「《東都》は実に不健康な状態にある。その歪みはいつか必ず是正されねばならない。僕はね、廃区は包摂されるのではないと考える。廃区のような汚染地域は徹底して浄化されて然るべきだとね。もちろんそれは今すぐにというわけではない。廃区は廃区として、然るべきときに最適なかたちで浄化される」
「随分と過激だな」
「オフレコで頼むよ」
「安心しろ。貴方の思想や主義に大した興味はない」
「ふはは、それは少し残念だ。もっと有意義な時間になると思っていたのだが」
有胤が声を上げて笑う。しかし笑ったのは声だけで、目は冷たい視線を湛えるままだった。
「ならば少し興味を持ってもらえる話をしようか。――〝
「知っているのか?」
そう思わず反応して、アルビスは口を噤む。喉から手が欲しい情報だが、欲しがる素振りを見せることは情報を引き出す手としては最も愚策だ。
有胤は自らの完全な優位を確信し、笑みを深くする。
「一年ほど前から公安がマークしている人物だ。一切尻尾を掴ませないがね」
「公安だと? ただの
「いや、ただの製造者ではないということか」
アルビスは仮定する。
「〝
「たったこれだけの断片的な情報でそこまで推測できるのは流石と言うべきかな」
有胤は肯定も否定もしない。だがこれがまるっきり的外れな推測とは思えない。何より有胤の表情が言外にそれが真実への近似値であると雄弁に語っている。
「アーベント君、そんな優秀な君にだから頼みがある。〝
「断ると言ったら?」
「何故だね?」
「それは解薬士の仕事ではない。それこそ公安の役目ではないのか? それに依頼人の利益が最優先だ。私たちはクロエの脅威を取り除くために動く」
「ふむ。あの娘のことか。まあいいだろう。どういう選択をするのであれ、君は常に混沌の只中に立たされることになる」
「随分と知った風な口を利くな」
「これはたぶん、そういう筋書きなんだよ」
そう言った有胤の表情が悪辣な笑みに歪んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます