06/Restart《1》

 ほのかに香る薬品の臭い。規則正しく明滅するライトと滴り落ちる点滴薬。ほとんど白に近い淡いグリーンに彩られた狭い部屋で、公龍くりゅうとアルビスは並んで横たわっていた。


「まったく、運び込まれたなんて言うから心配したじゃない」


 公龍が寝ている廊下側のベッドの脇で、桜華が溜息を吐いて額を抑えた。


「全然怪我なんかしてねえし、そもそも見舞いなんて頼んだ覚えはない」


 公龍はそう強がってみせるが、左腕から肩を冗談みたいな大きさのギブスでがっしり固められている姿ではどんな説得力も皆無だった。しかし桜華も大した心配はしてないと嘯く。まさに売り言葉に買い言葉である。


「そうね。でも、貴方に死なれたなら私の治療費誰が払うのって話」

「保険金がたんまり下りるだろ」

解薬士げやくしみたいな危ない仕事の人間と契約する保険会社がどこにあるのよ」

「職業差別だ」

「区別よ。保険会社だって慈善事業じゃないの。あれはれっきとしたビジネスよ」

「誰のおかげで解薬士がこうやって戦う羽目になってると思ってんだ」

「《リンドウ・アークス》の野放図な研究者どもだって言いたそうな顔だけど、ただの僻みにしか聞こえないわ。そもそも研究者は立派にやってるわ。悪いのはそれを受け取る側の貧弱なリテラシーじゃない」


 桜華は冷たく突き放すように言う。彼女の言が正論だと分かっているので、公龍は何も言い返すことができずそっぽを向く。

 アルビスはそんな二人のやり取りを眺めながら、素直じゃないな、と心中で独り言ちる。

 アルビス自身は感情に乏しく、自分でもそのことは自覚しているつもりだ。しかし客観的に人間関係を眺めるとなれば、それは観察や分析の問題になる。言葉選び、会話の間、目線、表情……そういう様々な情報の断片がアルビスに対してその人間の内面を曝け出していく。だからアルビスが望むか否かに関わらず、公龍と桜華が互いにある種の意地を張っていることなど手に取るように分かってしまった。

 仲が悪いわけでもない。互いを憎んでいるわけでもない。ただ、一緒にいられないという思い込みにも等しい意地と感情とが二人の関係を奇妙に遠ざけているのだ。


「私、そろそろ帰るわよ。これでも忙しいの。前に話したでしょ? 高架道路による都市開発計画。第二次都市計画ミルキーウェイズ・プロジェクトの話」

「ああ。そうだっけか? まあ、何でもいいけど早く帰れよ。あんま病院って居心地のいい場所じゃあねえだろ」

「そうね。でも女って男ほど過去を引き摺らないわ。悪いけど」


 桜華は悪戯っぽく笑って言った。その笑顔がどこかぎこちなく、無理をしているように見えたのはアルビスだけだろうか。

 部屋を出ていく間際、桜華がアルビスの方を向いた。


「アーベントさん、でしたよね? うちの……もううちのじゃないですね。こんな性格ですから、きっと公龍がご迷惑をお掛けしていると思います。でも、見放さないでやってください。アーベントさんの存在が、きっとこの人の支えになってると思いますので」


 桜華がぺこりと頭を下げる。メディアで報道されている通りの人物像。いや、それ以上だ。美麗で、謙虚で、凛とした強さと温かみを兼ね備える女性。何故こんな女性が公龍に惹かれたのかますます分からない。


「んなわけあるか。こいつとは仕方なく組んでるだけだ。むしろ俺の方が迷惑被ってるくらいだってのによ。第一、こいつはな――」

「貴方は静かにしてて」


 公龍が口を噤み、アルビスが会話に入って肩を竦める。


「この通り。私たちは互いを支えるような馴れ合う関係じゃない」

「そうみたいですね。でもきっと、貴方は公龍にとって最高の相棒のはずです」


 桜華は軽く会釈をして、病室を後にした。

 二人きりになった病室で、ふと思い出したように公龍が呟いた。


「そういや、クロエはどこ行ったんだ?」

「気づいてないのか?」

「は?」


 首を傾げる公龍のベッドを、アルビスは指差した。公龍の腰のあたりの掛け布団がやけに盛り上がっている。


「なるほど。こりゃ気づかなかった」


 公龍が言って掛け布団を剥ぐと、公龍の腰のあたりに縋るように丸くなって寝息を立てるクロエの姿があった。


「お前のことを心配していたらしい。手術中も離れなくて大変だったとドクターかぼやいていた」

「そりゃ悪いことしたな」


 公龍が手元のリモコンでリクライニングベッドを起こし、伸ばした手で眠るクロエの髪を撫でた。アルビスが、獰猛な狂犬じみた男が見せる優しげな表情に驚いていると、視線に気づいた公龍が顔を上げて嫌味っぽく笑った。アルビスがクロエから敬遠されていることを知っての笑みであることは言うまでもない。


「子供は苦手だ」


 冷静沈着な鉄仮面が漏らすささやかな弱音に、粗暴な相棒は優越の笑みを深くした。


   †


 しばらくして、クロエが目を覚ます。

 いくらアルビスが子供嫌いでも放っておくことのできないことがある。そしてクロエもまた、現実に向き合い自らの道を選択せねばならない。

 時刻は午前二時を過ぎたところだった。夜の病院にありがちな、張り詰めるような沈黙のなかに時計の針の音が規則的に響く。

 クロエは公龍のベッドに腰かけ、備え付けの机に向かってペンと紙を握っている。アルビスはいつも通りの無表情を保ちながらクロエに対面している。公龍はいい加減に眠いのか、噛み殺せない欠伸を漏らして目を擦る。


「――というわけだ。何か質問は?」


 お姉ちゃんを助けて、とほんの二日前にクロエが綴った悲痛な叫びは、一つの結末を迎えた。

 クロエの血縁者である空木朱音――お姉ちゃんと呼ばれたその人は無惨に殺された。アルビスはその事実を謝罪とともに伝え終えたのだった。

 しばらくの間、クロエは俯いていた。言葉こそ喋ることができないが、彼女は決して愚かではない。むしろ廃区出身とは思えないほど年並以上には知能があり、物事を判断する力にも長けている。もちろん〝赤帽子カーディナル〟の残忍極まりない手口については話さなかったが、クロエならきっと空木朱音が迎えた凄惨な死の在り様を想像していたかもしれない。


「悪いな、クロエ。仇だったのに、俺たち、あいつらを取り逃がしちまった」


 公龍が項垂れる。空の拳を力いっぱい握り込む。

 クロエがようやく顔を上げ、そして堰を切ったように紙に言葉を綴った。アルビスはそこに罵倒と侮蔑の数々が連ねられたとしても受け入れるつもりでいた。

 しかし、クロエが掲げる紙片に綴られたのはどんな罵詈雑言でもなかった。あろうことか、そこに刻まれたのはたった五文字の感謝の想いだった。

 唖然とするアルビスに、クロエはへらと口の端を歪める。


「どうして、君は笑うんだ……」


 胸のうちに滾る憎悪も、心を抉り取るような哀しみも、幸せだった過去が駆け巡る痛みも、全てを呑み込んでクロエは微笑む。

 違う、そうじゃない、とアルビスは首を横に振る。何もできなかったのだ。それどころか、切迫した状況を察しながら何もしようとさえしていなかった。

 公龍が堪らずクロエを抱き締めた。そこでようやくクロエの瞳から涙が溢れた。声はなく、公龍の体温に触れ、氷が解けるかのように頬に筋をつくった。

 もはや見ていることなどできず、アルビスは顔を背けて俯いた。

 どれくらいそうしていただろうか。

 クロエが泣き止み、少しだけ恥ずかしそうに顔を赤らめてはにかむ。公龍は抱擁を解き、アルビスも顔を上げる。二人の覚悟は決まっていた。

 公龍曰く、〝赤帽子カーディナル〟はクロエを標的にしていた。狂気の殺し屋が喋ることもままならない少女を執拗に狙う意味は分からなかったが、奴らがすんなりと獲物を諦めるとも思えない。つまり〝赤帽子カーディナル〟は再度襲撃を仕掛けてくるに違いない。

 次こそクロエを守り切るためには、それ相応の備えが必要だ。

 ちらつくのはパパスが口にした〝脳男ブレイン〟の存在。これまで手に入れた情報の断片が、尋常ならざる脅威の影をちらつかせる。

 だがせめてもの償いに明らかにせねばならない。なぜ空木朱音が死なねばならず、なぜクロエが狙われ、脅かされねばならないのか。

 すべきことは整った。求めるべきことも見定まった。


「クロエ」


 アルビスは少女の名を読んだ。緊張を孕んだ声音と冷徹な眼差しに、クロエが心なしか背筋を伸ばして座り直した。


「私たちは、コードαの規定集第七条第四項目に基づき、君を事態の収拾まで証人兼依頼人として保護下に置くことを提案する。もちろんそれには君の許諾がいる。君のを辱しめ、君の命さえも脅かす強敵に抗う意志。痛みを負いながらも前へ進もうとする生への渇望。君は私たちにそれを示す必要がある」


 アルビスは自らの決意を示すように、あえて硬質で仰々しい言葉を選ぶ。あるいは心のなかに未だ残っている迷いを切り捨てるためかもしれない。

 そういう意味では、相棒は頼もしい。良くも悪くも選んだ道を迷わない。たとえ途中で折られても、その折れ口を再び研ぎ澄まして強引に道を拓いていく。解薬士としての相棒を探していたアルビスの目に、公龍が止まったのもそういう理由かもしれない。

 そして、その相棒と同様にクロエにも迷いはなかった。

 力強い頷きに、アルビスは確かな意志を感じ取る。


「いいだろう。ウロボロス解薬士事務所は空木黒慧うつぎくろえを依頼人兼保護証人とし、その全力をもって守り抜くことを誓おう」

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