04/An emphemerality《2》

 あの日に戻ってきた――。

 公龍が開発した新薬〝チートマル〟は開発直後から様々な医療機関で用いられ、莫大な利益を上げていた。チートマルは筋収縮を促進することによる強力な止血剤で、最大のウリである即効性を高く評価され、救急医療の現場や災害救助など一刻の猶予を争う状況下での医療において重宝されていた。

 この日はその祝賀会だった。《リンドウ・アークス》では通例として新薬開発などが成功すると開発チームを囲んでのパーティが開かれる。開発チーム以外は取締役や取引先のお偉方、あとはマスコミがほとんどだったが、自分が主導した研究成果が認められて参加するのは初めてのことだったので、公龍は僅かに浮足立っていた。

 チームリーダーとしての挨拶を終え、檀上を下りる。

 拍手のなか迎えられ、これから個人的な挨拶周りに映る。

 これから研究者として出世にしていくために、こうした場で人脈を築いておくことは重要だった。

 大学病院の院長。厚生労働省の役人。海外の著名な研究者。医療ジャーナリスト。挙げればキリがないほどの人たちを相手に社交辞令の美辞麗句を並べる。


「桜華、大丈夫?」

「ちょっと疲れたわ。私、少し風に当たってくる」

「そうだな。付き合わせちゃって悪いな。気をつけてな」


 談笑中だったどこかの大学病院の救急センター長だという男に挨拶をし、桜華は大きなお腹を抱えながら歩いていく。公龍はすぐに視線を談笑相手へと戻し、男が語る今後の医療の展望にうんうんと適当な相槌を打つ。

 公龍は叫びたかった。行くな。そっちに行ったら駄目だ。戻ってこい。

 しかし桜華は遠ざかり、まして自分は桜華に背を向ける。

 今すぐ桜華を追い駆け、そしてその手を掴んで抱き寄せなければいけないのだ。

 そうしなければ。そうしなければ――。

 全て覚えている。

 本当なら、桜華は来なくてもいいはずだったのだ。出産が間近に迫っていたので母体に何かあってはいけないという配慮だった。

 だが桜華は私にとってもビジネスチャンスなのよ、という理屈を並べてパーティに出席していた。その理由が嘘でないことは確かだろうが、それ以上に公龍の晴れの姿を見たかったのだと思う。

 そんなくだらないことのために。これからいくらだって晴れ姿を見る機会なんてあったかもしれないのに。なのに。なのに。どうして――。

 頭のなかを〝あの時〟〝もしも〟と後悔が埋め尽くす。目の前では何食わぬ顔で救急医療の未来を語る男。


「だからね、ドクターヘリではダメなんだ。《東都》は超高層建築が乱立するジャングルだ。そこでだ、俺は思うのだよ。高架道路網を建設すれば迅速かつ的確な人とモノの移動が可能なんじゃないかってな。つまりは――」


 ガシャン。

 公龍の精神を蝕む焦燥が頂点へと達し、その胸の内から張り裂けるように。

 グラスが床に落ちて割れる音。

 そして一拍置いて、悲鳴。


「きゃあああああああああっ!」


 公龍は振り返る。しかしもう遅いのだ。絶望と破滅の時間は始まっている。

 会場の入り口。

 血塗れになった警備員の死体を引き摺って歩く、異形。

 隆起した全身の筋肉はまるで漫画に出てくるスーパーヒーローのようでありながら、憎悪と復讐に血走った双眸がその男がそんな存在でないことを示す。

 逃げ惑う人たち。腰が抜けて床に座り込む人たち。泣き喚き、助けを叫ぶ人たち。

 誰一人状況を理解していないなかで、公龍だけがやけに冷静にその患者の容体を観察できていた。


「これは、罰か」


 ぼそりと呟く。数秒前まで意気揚々と話していた男が公龍の腕を引っ張ったが、公龍はそれを払いのけた。

 異様な筋肥大。苛烈な憎悪。

 この二つが示す答えはたったの一つだった。

 副作用。

 チートマルと動物性たんぱく質を同時に摂取した際に稀に起きるとされていた現象。

 その患者が、どこからどうやってこの場所を突き止め、入って来たのかは分からなかった。だが自分を殺すために来たのだということは理解できた。

 公龍は、自分が致命的な過ちを犯していたのだということを知った。

 男は周囲を見回し、誰かを、きっと公龍を探していた。

 既に死者が出ている。事態の隠蔽は《リンドウ・アークス》をもってしても容易ではない。開発部長は、薬と症状の因果関係は立証できないと言っていたが、それも定かではないだろう。もし事実だったとしてもチートマルの危険性は大々的に報道されるはずだ。そうなれば公龍の身は破滅だった。今思えばこうなったときの保険のために開発部長は公龍にこの話をしたのだろうと思う。考えられうる最悪の状況で、一研究員を斬り捨てて会社を守るための方策。

 公龍は膝を折ることも、隠れることもしなかった。自分のキャリアも、命さえもどうでもよかった。逃げ惑う人々のなかにいるはずの桜華ともうすぐ生まれてくる娘の姿を懸命に探した。

 しかし異形の男が逃げ惑う人々のなかに公龍の姿を見つけるほうが早かった。

 ゆっくりと踏み出し、一歩ごとに加速していく。男が一歩踏み出すたび、盛り上がり過ぎた筋肉が過剰な収縮を起こし、骨を圧迫して砕いた。返り血かと思っていたそれは、破れた血管から流れる男自身の血だった。


「ぅが、あ、……ざが……っ」


 斜角筋や僧帽筋が肥大化し、喉を圧迫しているせいで発音も呼吸もままならない。しかしそれが公龍へと向けた憎悪であることは明らかだった。

 文字通り命を懸けて復讐にやってきたのだ。

 人々を大樹のような腕で払い、押しのけ、公龍に迫る。異形から絞り出される地獄の底から響いてくるような怨嗟の叫びが会場中を満たす。

 しかし異様な筋肥大は身体の自由さえを奪うらしく、骨が砕ける不気味な音とともに男は派手に転倒した。料理の乗るテーブルを倒し、床にぶちまける。

 男が倒れた場所の目と鼻の先に、公龍は探していた愛する人の姿を見つける。


「――桜華っ!」


 叫んだ。駆け出した。

 桜華は逃げる誰かに突き飛ばされたのか、お腹を押さえて蹲っている。バケモノがすぐ近くにいることさえ気づいているのか怪しかった。


「ぎぃぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」


 男が雄叫びを上げる。その体躯は会場に入ってきたときよりも確実に肥大化が進んでいた。皮膚が破れ、赤くぬらぬらした筋線維が剥き出しになる。身体の至るところから血が噴き出し、男を血霧で包み込んでいた。

 公龍は走った。生まれてこのかた、ろくに運動などしてこなかったことを呪った。走るなんて何年ぶりのことなのか、脚がもつれて顔面から転んだ。

 眼鏡が拉げ、床を滑る。

 ぼんやりと霞んだ視界のなかで、最愛の人へと手を伸ばす怪物を見ていた。

 声さえも出なかった。

 しかし男が桜華へと触れる直前、筋肥大の限界点が訪れた。

 メキメキと歪な音を立てて関節とは反対方向に軋み始めた身体は、大量の血と体液を撒き散らし、ものの数秒で巨大な肉塊と化した。

 男が絶命した周囲には血の雨が降り、桜華のオリーブ色のドレスを赤黒く濡らしていた。


        †


 公龍は振動する腕時計型端末に起こされる。

 昨日、久しぶりに桜華にあったせいか嫌な夢だった。身体は汗をべっとりとかいていて、コンクリートの床は汗で色が変わっていた。

 あの日の事件の後、公龍は予想通り全ての責任を押し付けられて解雇された。どっちにしろ自分で辞めるつもりだったのでどうでもいいことだった。

 逮捕されてもおかしくない事件だったが、チートマル開発責任者の名前は世間に公表すらされず公龍が捕まるようなこともなかった。

 だが、溢れていた幸福は全て消え去っていた。

 男の血を全身に浴びた桜華は皮膚から薬の成分を吸い込み、左半身に焼け爛れたような痕が残った。お腹にいたはずの子供はもちろん死に、桜華は薬と精神的ショックの影響で二度と子供を産めない身体になった。

 爛れた痕は仕事のことも考えて皮膚移植を施したが、同じ肌の色をした人間が誰一人としていないのでその手術痕はしっかりと桜華の顔に残っている。

 しかし同じように血の雨を浴びたはずの公龍にはどんな影響もなかった。

 耐薬体質。俗に言う薬が効きにくい体質らしく、皮膚からの吸収程度では影響が出なかったのだ。

 公龍は自分を憎んだ。桜華だけが傷つき、罪を犯した張本人である自分は法的に罰せられることも肉体的に罰せられることもなくのうのうと生きている。その事実と罪の重さに打ち震え、事件後何度も自殺を図った。

 当然薬物は駄目だった。その他に首吊り自殺と飛び降り自殺も試みたが、死ぬ一歩手前で桜華に助けられたり、たまたま生えていた木がクッションになったり、まるで運命が公龍の自死を拒むかのように、死ねなかった。

 公龍はしばらくして桜華と別れた。

 桜華は嫌だと言ったが、もうその痛々しい顔を見ていることができなかった。移植した皮膚は桜華の身体に馴染むものの、左半身に残った軽度の麻痺は定期的な治療が必要とされ、公龍は命続く限り治療費を払い続けることを約束させられた。

 きっとそれは桜華なりの罰という優しさだったのだろう。一大企業の社長である桜華が、その豪胆な性格の上からも、治療費ごときに騒ぎ立てるだけの理由はないのだから。

 桜華は今でも自分を愛してくれているのだろうか、と馬鹿なことを考える。

 そんなはずがない。全ての幸せを台無しにしてみせた自分のどこを、一体どう愛せるというのだろうか。

 憎まれこそすれ、愛されていいはずなどないのだ。

 鳴り続けている端末に視線を落とす。

 こうして公龍に連絡を寄越すのはアルビスくらいだ。

 アルビスとは廃区で飲んだくれているときに出会った。どこでどう調べたのか公龍が耐薬体質であることも知っていて、成り行きで……というかほぼ強制的に二人で解薬士事務所を開業することになった。馬が合わないし、小姑みたいに口煩いアルビスとの日々は鬱陶しいが、治療費を払わねばならない公龍に選択肢はなかったのだ。

 アルビスとの仲の悪さに加え、過剰摂取者(アディクト)と対峙するのは今でも嫌な気分になる。

 遺伝子変異をきたした異形の過剰摂取者(アディクト)たちは、否応なくあの日を思い出させるからだ。

 あの日もし、桜華の傍にずっとついていてやれたなら。

 あるいはもし、チートマルの危険性が判明した時点で発売を取り止めていたら。

 公龍は、決してあり得ることのない〝もしも〟を無為に積み重ねずにはいられないのだ。

 何度無視しても掛け直されてくるので、さすがに鬱陶しくなってきて公龍は通信を繋ごうとし、その前に最低限の身なりを整える。とは言っても、顔の汗を拭い、濡れた髪はヘッドバンドで適当に誤魔化す程度のことだが。

 悪夢に魘されていたというこの状況を、アルビスに少しでも勘繰られるのが癪だった。

 通信を繋ぐと、腕時計の盤面に四角いホロディスプレイが浮かび上がり、銀髪に碧眼のスーツ姿が映し出された。


「んだよ」


 アルビスは淡々と用件を告げ、一方的に集合場所を指定した。


「ああ、わかった。あと着替え持ってきてくれ」


 アルビスの淡白な了承の返事で通信が切れる。

 公龍はゴミ箱に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。解薬士が用いる特殊調合薬カクテルを含めたどんな薬よりもずっと、ふざけた悪夢がもたらす疲労感は公龍の身体を重くした。

 本当ならシャワーの一つでも浴びたいところだが、状況から鑑みるにそんな猶予はないだろう。

 失語症の少女、クロエ。

 儚げでありながら、力強く生きようとする少女の姿に、見たこともない娘の姿が重なる。

 彼女の痛みを、声のない叫びを、何としても拾い上げてやらなければいけない。

 それで罪が赦されるわけでも、後悔が消えるわけでもないことは分かっている。

 だが、クロエの声に耳を傾けることこそ、今の自分にできることだと公龍は確信していた。

 足取りは重かった。

 しかし確かな歩みで、暗い路地裏から陽光の差す方へと歩いていく。


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