04/An emphemerality《1》

 夢を見ていた。

 幸福という名の夢。

 夢だからこそ、それは儚く覚めていった。シャボン玉のように弾け、朝靄のように掻き消える。

 後に残ったのは、灰色の毎日。

 酒に溺れ、薬を貪り、興味のない女たち相手に心の虚空を紛らわす日々。

 公龍は朝陽のなかで微睡みながら、遠い夢に思いを馳せる。


『――ねえ、報告があるの』

 通話越しに桜華からそう言われたのは、公龍の新薬がマカクザルでの実験を終えて、ようやく市民から募った協力者での治験に入ったころだった。

 どうしても直接話したいと言われ、忙しいなかでも上手く時間を作って二人で初めて食事をしたレストランへと向かった。出会った当時はまだ公龍の収入が圧倒的に少なかったので、レストランと言っても庶民向けのチェーン店だったが、二人ともこの店を気に入っていた。

 店に入って名前を告げると、窓際の席へと案内された。

 泊まり込み続きで家に帰ることができず、三日ぶりに顔を見た桜華は照れ臭そうな笑みを浮かべて公龍の到着を迎えた。

「なんだよ、報告って」

 好物のハンバーグを一口大に切り分けながら公龍が訊いた。桜華はなんだかよく分からない貝が盛り付けられたパスタを食べていた。フォークで器用にパスタを絡める姿さえ、なんだかとても絵になる。公龍が惚れ惚れとしながら桜華を見ていると、桜華は恥ずかしそうに俯いた。

「どうしたんだよ、らしくない」

「うん、あのね……」

 桜華は声を潜め、囁くように言った。

「――えっ、本当か? 本当なのか? 子供できたのかっ?」

「ちょっ、公龍っ。声、声が大きいっ!」

 桜華が耳を真っ赤にして言ったが、興奮した公龍の耳には届かない。桜華は恥ずかしがりながらも、自分の心配は杞憂だったと理解して柔らかく微笑む。

「やったっ! 俺と桜華の子供だっ! やった! やったぞ――熱っ! 熱いっ!」

 喜びのあまり立ち上がり、ハンバーグの盛り付けられた鉄板を触った公龍が飛び上がる。その拍子にコップを倒し、机と床に水がぶちまけられる。桜華が食べていたパスタまでが公龍の起こした冷水の洪水に浸る羽目になった。

「あーもうっ、何やってんのっ!」

 桜華は溜息を吐き、おしぼりを手に取りながらも、自分の幸せを噛み締める。この人と一緒になれてよかったと心から思っている笑顔だった。

 店の人に謝り、周りのお客さんからの祝福に頭を下げ、慌ただしい食事を終えた公龍と桜華は二人で借りて住んでいるマンションへと帰った。

 公龍もこの日は研究所へは帰らないことをチームの仲間に伝えていたし、ここのところ研究室に籠りっきりの日々が続いていたのでちょうどいい休みになった。

 帰り道には浮かれた公龍が幼児向けのファッション雑誌を買い、帰宅早々にPCを立ち上げて通販サイトで育児用品を漁った。

「なあ、女の子かな。男の子かな」

「まだ一〇週目じゃ分からないわよ」

「俺、女の子ならこういうワンピース着せたいな。どうだ? 似合うと思うんだ」

 既に親バカ丸出しといった様子で、公龍が雑誌を突き出す。白地に青い刺繍をあしらった可愛らしいワンピース。

「えー、こっちがいい。私に似れば美人だから、きっとこういう色味のほうが似合うわ」

「君に似れば、すこぶる美人だろうな。でもそうなってくると言い寄ってくる男が多そうだ。父親としてそれは許せない」

「気が早い」

「数十年単位で物事を見越して動けと君が言ったんだろ。俺は今まさにそれを実践してんだ」

「それは仕事。育児なんて目の前のことだけで手いっぱいよ」

 桜華はそう言いつつ、ちらと見た雑誌に男子向けの洋服を見つける。

「男の子だったらこんなの良さそう」

 公龍はどれどれと桜華が指差す紙面を覗きこむ。

「ちょっとわんぱくすぎるだろ」

「わんぱくくらいがちょうどいいわ。スポーツもやらせたいわね。野球とサッカーだったらどっちがいいかしら……あ、バレーボールなんてのもありかも。屋外は日に焼けちゃうし」

「スポーツはいいだろ。休みの日に公園なんかで走り回らされるのは嫌だ」

「だめよ。男の子だったらスポーツは絶対」

「全くのステレオタイプだな」

「違うわ。経験に裏打ちされる改善策よ。貴方に似たら、頭でっかちのもやしっ子になるもの」

「それは酷い言い草だ」

「あらそう? だって事実じゃない」

「性格だけは君に似ないことを祈ろう。行動力は見上げたものだが、人の気持ちを汲むという点で重大な欠陥を抱えすぎるな」

 公龍と桜華は傍から聞けば辛辣にも思える軽口を叩きながら、まだ見ぬ家庭の温かさを話す。

 しかし描いた未来は永遠に来ない。取り返しのつかない過ちが全てを壊した。

 鼻孔の奥を刺す臭い。見渡せば継ぎ目のない純白の壁。LEDが頭上で輝き、血管のなかを駆け巡るカフェインが疲れ果てた脳を奮い起こす。

 気が付けば公龍は研究室にいた。いつもの部屋。実験結果を纏め、チーム全員で議論を交わすためのブリーフィングルーム。

 どうやら最終の治験を終えてそのままレポートをまとめ上げ、特許取得の手続きをこなしていたところいくらか眠り込んでしまったらしい。特許取得の手続きなど他の部署に任せておけばいいものの、この世紀の新薬を世の中に産み落とすに際して他の誰かの手を借りるなんてこと考えられず、開発部長に無理を言って全てを公龍自身でやる手筈になっていた。

 おかげで出産予定日まであと一か月と少しだというのに、ろくに家にも帰れていない。桜華は既に会社を部下たちに任せて産休に入っている。

「九重リーダー。部長が」

 前のデスクに座っていた部下に声を掛けられて背もたれから身体を起こす。皺だらけの白衣を気持ち伸ばすように襟を整え立ち上がる。

「どうも、部長」

「いやいや、九重。疲れてるところ悪いね」

 開発部長はぎこちない笑みを浮かべた。そもそも直々に一研究チームの部屋に訪れることなど滅多にない。あるときはだいたい、面倒な問題が起きたときだけだ。

 しかし心当たりがなかった。治験の結果は上々。もう新薬の発売日の手筈も整っているのだ。

「ちょっといいかな」

 開発部長に言われ、公龍は立ち上がる。何か問題が起きたことは明白なのに、一体どんな問題なのかの見当がつかず、全身にむず痒い悪寒が走る。

 喫煙所まで連れていかれ、自販機で買ったコーヒーを渡される。公龍は喫煙者ではなかったが、嫌煙家というわけでもない。開発部長が加熱式煙草を吹かしながら話すのを静かに聞いていた。

「それ、どういうことですか……」

 唖然とする公龍に、開発部長は耳の穴を小指でほじりながら言う。

「そのままだよ。君が開発した新薬は肉や魚などの動物性たんぱく質と一緒に摂取すると、過剰な筋肥大を起こす。治験中は大豆や穀類を主原料とした合成食材しか出されないから看過されていたが、治験終了後すぐに肉や魚を食べた被験者にこの症状が見られた」

「そ、それじゃあ……」

 発売は見送りですかと言おうとした公龍を、開発部長は遮った。

「いや、起こすことがあるというだけで因果関係は確実じゃない。今、うちの医療スタッフが彼らの身柄を拘束し、隔離しているがおそらく因果関係は立証できないはずだ。いや、されたら困るんだよなぁ。もう、君の新薬、国内外のかなりの医療機関と契約が進んでるんだ。もし破棄なんてこ

とになったら大損失。そうだね、……たぶん七、八億くらい? 君の給料じゃ、一生かかっても払えないでしょ」

「で、ですが、万が一の危険があるものを世の中に……」

「危険がない薬なんてないでしょ。要は程度差だよ。わかるかな? 一〇〇人使って一〇〇人ともおかしな副作用がない薬なんてないよ。一杯のビール飲んで、酔う人と酔わない人がいるのと一緒。用法用量守って使ってもらえれば、問題ないから。とりあえず認知だけしといてもらいたくて伝えたけど」

「は、はぁ……」

「君、子どもも生まれるんだから。こんなところで退職ってなったら困るでしょ? こういう研究職は潰しがきかないよ? まあ一応伝えといたけどさ、あまり心配はしないで。これからもばりばり頑張ってね」

 開発部長は紫煙を吐き、吸いさしを捨てる。公龍の肩を叩いて喫煙所から出ていった。

 ここで止まるべきだった。

 全てを捨てて、告発すべきだった。

 しかしこのときの公龍の頭は、桜華と、そしてまだ見ぬ子供のことでいっぱいだった。

 彼らを養っていくためにも自分が頑張らねばいけない。いや、頑張りたい。

《イーストアクセル》の社長である桜華と一研究員である公龍の収入差は歴然だ。きっとこのときの公龍には少なからず、負い目があったのだろう。

 開発部長は大丈夫だと言ったんだ。ならきっと大丈夫なはずだ。

 何度も自分にそう言い聞かせ、そして意識的に罪悪感に蓋をした。

 俯いた顔を上げる。

 拍手とフラッシュライトが公龍を包み込んでいた。似合わないタキシード姿。自分は檀上に上がっていて、すぐ目の前ではオリーブ色のマタニティドレスに身を包んだ桜華がこちらを見上げていた。公龍はゆっくりと深呼吸をした。

 そうだ、覚えている。いや、忘れるはずがない。

 あの日に戻って来たのだ。

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