03/Seeds of chaos

明朝、アルビスはクロエを連れて廃区の中心街へと向かった。

 アルビスたちが事務所を構えるこの廃区は中心へ近づくにつれて人気が無くなっていく。建物は整備され、補修も手の込んだ専門的なものになっていくものの人の姿だけが忽然と消えていく。

 人が住んでいないわけではない。危険を避け、表にはなるべく出てこないようにしているのだ。

 空気が肌を撫でる。湿った空気がねっとりと肌に絡むような感覚に思わず身震いを覚える。ただならぬ雰囲気をクロエも感じ取ったのか、アルビスのスーツの裾を握る手に力を込められる。アルビスは傍らにいる小さなクロエをちらと一瞥する。心配ないと伝えたつもりだったが逆効果のようで、クロエはますます縮こまってしまう。アルビスは僅かに眉を顰め、助けを求めたい気持ちに駆られたが他にはどんな人影さえ存在しなかった。

 結局昨日の夜、公龍は帰って来なかった。おそらくは酔い潰れて路傍に伏しているか、あるいは気晴らしにキャバクラにでも行って今頃はどこか屋根のあるところで人肌に温まっているかのどちらかだろう。何でもいいが、今この場にいないことが少なからず恨めしい。

 公龍の元妻である粟国桜華については、アルビスも知っていた。もちろん直接の面識はない。彼女が《東都》における超有名人で、ネットニュースやワイドショーなどに引っ張りだこだからこそ知っているにすぎない。それでも彼女が尊い自己犠牲の精神に立脚した都市の殉教者であることは容易く理解できたし、アルビスがあまり興味のないことではあるが群を抜いた美人だということも分かる。そんな素晴らしい女性がどんな催眠術にかかれば公龍のような廃人紛いの男と婚姻の契りを結ぶ羽目になるのかだけが、アルビスにとって理解し難いことだった。

 やがて朝靄のなかに白い教会のような建物が浮かび上がった。

 西洋的な教会としては比較的新しいネオ・ゴシック様式の建物。象徴的な尖塔アーチに加え、精緻ながらも力強い装飾が教会独特の静謐な雰囲気を帯びる。

 アルビスはクロエの手を引いて教会へと入る。錆びついた鉄門を開き、ところどころが剥がれた石畳の上を歩いていく。

 蝶番を外れた扉を潜ると、まるで嵐にでも晒されたかのように荒廃しきった様子が露わになる。カーペットが捲れた身廊を歩き、さらに奥へ。一歩踏み出すたびに革靴が砂埃を立てた。

 アルビスは壁側に並ぶ告解室の奥から二番目にクロエを連れて入った。

 半畳ほどの小さな部屋。壁には対になるもう一つの小部屋と通ずる小さな格子が設けられている。


「〝はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない〟」


 格子の向こう側から唐突に聞こえた声に、クロエが肩を震わせる。アルビスは格子に目を向けることもなく、いつものように冷たい声で答える。


「――〝だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから〟」


 しばらくの沈黙があって、再び格子の奥から声がした。


「アーベントの旦那ですかい。これはこれはお久しぶりで」

「パパス。この薬について詳細を知りたい」


 アルビスは言って、昨日クロエから渡された非認可薬物デザイナーズドラッグの入った小瓶を差し出す。格子の奥の人物はそれを手に取ることなく言葉を返す。


「これは非認可薬物デザイナーズドラッグですな。アンフェタミン系の向精神薬、ってところですかな?」

「一瞬見ただけでそこまで判断できるとは、さすが中毒者だな。だが今日は、そういう当たり障りのない話を聞きたいわけではない」


 アルビスは言って、一度薬を下げ、ジャケットの内ポケットから掴み出した紙幣と一緒に握り込んでもう一度突き出す。今度は格子の奥でそれらが受け取られる。

 生体認証や電子通貨が普及して久しいが、廃区などのアンダーグラウンドではまだまだ紙幣も用いられる。


「アーベントの旦那は、よぉく分かっていらっしゃる。この小瓶、少し開けても?」

「ああ、構わない」


 アルビスは短く答える。

 パパスは廃区では名の知れた情報屋だ。もちろん教皇パパスなどというのは偽名であり、男であるということ以外はまるで得体の知れない人物だが、情報屋としての腕と用心深さには定評がある。アルビスは解薬士になって以来の付き合いだが未だに格子の奥にいる本人の姿を見たことがない。加えて、彼から得た情報が間違いだったこともない。


「九重の旦那は元気ですかい?」

「ああ。今頃また女のところだろう」

「くかか。それは確かに元気なことで」


 パパスが笑う。アルビスは何も答えず、パパスの情報を待つ。


「……珍しいですね、子連れなんて」

「告解者を覗く趣味は頂けないな」

「こっちの安全のためですよ。ついこの前も、こっちに回られて殴られそうになったもんで。最近の若いモンは血気盛んで危ない」

「その若いモンはどうなったんだ?」

「何を勘繰ってるのか分かりませんがね、。まあ今後取引することはないとは思いますが、変に報復されても困るんでね」

「どちらが危ないんだか」


 アルビスは肩を竦める。

 再び沈黙が降り、やがて格子の奥から小瓶が返される。アルビスはそれを受け取り、ポケットへと仕舞いこむ。


「結論から言えば、最近よく出回ってる〝種〟でしょうな。確か正式名称は〝ラスティキック〟だったかね。この手の非認可薬物デザイナーズドラッグは混ぜ物がやたらに多いんで、ここまでまともなのを見たのは初めてですが、ついこの前に同じようなものを見たばかりなんで間違いないと思いますぜ」

「ついこの前?」

「ええ。あっしに襲い掛かった馬鹿者たちですよ。何でも島を荒らされてるとかなんとかで、相当に殺気立ってましたね」

「そうか」


〝種〟という呼称は聞いたことがある。一年くらい前によく出回っていた非認可薬物デザイナーズドラッグの愛称だ。疲労回復や滋養強壮効果もある向精神薬として人気があったが、特別な副作用もなく廃区を中心にそれなりに根付いていった非認可薬物デザイナーズドラッグである。

 どうやら問題がない薬だったからこそ、記憶の片隅へと追いやっていたらしい。


「販売元はどこだ?」

「それが分からねえんですよ、面白いことに全くね。売ってるのも在野の売人からヤクザのしのぎまで幅広い。ちょっとしたクラブなんかでも裏で取り扱ったりしてるみたいですしね。話を聞く感じじゃ、そんなに高値ってわけでもないですし、大元はとにかくばら撒いているって勢いでしょうな」


 パパスが溜息混じりに言う。アルビスは壁を強く叩き、格子の向こうに追加の紙幣を投げこんだ。


「おお、おおお、金になんてことをするんです。もっと丁重に扱いませんと」

「いいから話せ。知っていることは何でもいい」


 アルビスの氷柱のような鋭利な声に呼応して、パパスも格子の向こう側で硬質な雰囲気を帯びたのが分かった。


「……アーベントの旦那、ご贔屓さんのよしみなんで言っておきますがね。正直なところ、この件にはあまり関わらないほうがいい」


 薄い壁を隔てて対峙するただならぬ空気感に、クロエがあからさまに怯えた表情を見せる。アルビスはクロエを冷たく一瞥し、格子の向こうのパパスに言う。


「関わるかどうかは貴様の決めることではない」


 頑として譲らないアルビスに、パパスは震えた溜息を吐く。徹底して身元を隠匿し、情報という武器を手にして廃区の荒くれ者相手に上手く立ち回ってきているはずのパパスがこうも怯える理由が、アルビスには見当がつかない。


「情報屋としては、本当に何にも知らないんですよ」

「つまりそれは売れるほど確証のある情報じゃないということか」


 アルビスは言い、パパスの返答を待たずに再び金を積む。パパスは数秒迷った末、誘惑に負け、差し出された金を引っ手繰るように受け取った。


「あくまで噂。根拠なんてありもしない。まして真実だなんて信じるほうが狂ってる話ですがね」


 パパスがゆっくりと喋り出す。さっきまでの人を値踏みし続けるようなねっとりとした口調ではなく、迷子が親を探すようなたどたどしくか弱い声だった。


「〝脳男ブレイン〟ってぇ聞いたことは?」

「いや、初耳だな。個人か?」

「おそらくは。まあ旦那が知らないのも無理はありません。なんてったってほとんど表には出て来ず、情報がない。率いる組織の規模どころか、組織を率いているのかさえ不明。そもそも本当にそんな人物が存在しているのかも、不確かってぇ始末ですぜ。今や〝脳男ブレイン〟はどこの組織も欲しがる情報ってわけですが、嗅ぎ回れば殺される。それもむごたらしくね。つい最近も、若い情報屋が見せしめのようにやられたばかりです」


 表情を見ずとも、パパスの全身が怯懦に震えていることが想像できた。


「そいつが〝種〟を撒いていると?」

「さあ、小耳に挟んだだけで真偽は分かりません。あっしも命が惜しいですから。知りたいとも思いませんよ。まあもしそうだってんなら、これはだいぶ長い商売ってぇことになりますね。ラスティキックが出回り出したのは一年は前ですから」


 パパスは自らを落ち着かせるように深く息を吐く。もう喋ることはないと言いたげだった。

 アルビスは影すら朧な相手の名前を呟く。傍らのクロエをちらと伺ったが、少なくとも知っているような素振りはない。


「〝脳男ブレイン〟……」

「追うなんて正気とはぁ思えませんが、気ぃつけてくださいよ。あっしは余計なことを喋っちまったんでしばらく地下迷路街に潜ります。神の御加護がありますように、アーメン」


        †


 アルビスが教会の外へ出たときには既に陽が高く昇っていた。降り注ぐ赤々とした太陽に目を細めていると、腕時計型端末が振動する。

 どうやら教会は巨大な電波暗室としての設備を兼ね備えているらしく今の今まで電波が遮断されていたらしいことを今になって知った。

 届いたのは数件のメールと、数十にも及ぶ着信履歴。

 その着信全てが飛鳥澪からのものだった。

 普段なら二、三回かけて繋がらなければ要件だけをメールで済ます澪がこれほどにまでしつこく掛けてきているということは、それだけで何かが起きた証拠だった。

 浮かび上がる着信履歴のホロディスプレイに不穏な気配を感じて、アルビスはすぐにかけ直す。不安そうな眼差しでスーツの裾を掴むクロエがアルビスを見上げた。

 三回目のコールで澪と繋がった。


『ミスター・アーベント。一体どこで何をしてたんですか』


 音声のみの会話。微かなエンジン音が聞こえるあたり、車の中なのだろう。澪は自動運転が普及した現在でも自分でハンドルを握ることを好む数少ない人間だ。もっとも追跡などには機械よりも人間の運転技術と勘が勝るので、刑事である澪が日ごろからハンドルを握るのにはそういう意味合いもあるのだろう。


「すまない。例の件で情報を集めていた」

『そうですか。ちょうど良かった。その件で進展が』

「何か分かったか?」

『ええ。まず今朝速達で届いた少女の頭髪から採取したDNAですが、警察のデータベースから親族と思われる女性が一件、見つかりました』

「どこにいる? 会うことは可能か?」


 矢継ぎ早な質問。澪は躊躇うようにしばし沈黙した。


『会うことは可能です。しかしその少女に会わせることは、勧めません』

「どういう意味だ?」


 再びの沈黙が、その答えだった。


「まさか……」

『ええ、その通りです。五日前、第三区内の繁華街で惨殺死体として発見されています。おそらくはコードαに該当する案件になるかと』


 アルビスは言葉を失った。指向性音声である故に会話を聞くことのできないクロエがじっとこちらを見ている。まるで依頼を達成できなかったアルビスを咎めるように。


『ミスター・アーベント。詳細は会って話したいのですが』

「わかった。二時間後にカフェ・アルタイルで落ち合おう。公龍も連れていく」


 アルビスは通信を切り、知らず汗ばんだ掌を太腿で拭った。

 深い奈落へ落ち込んでいく加速感がアルビスの背筋を撫でた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る