02/Voiceless shout《2》
クロエの依頼を即決で受けることはできず、かと言ってこのまま夜の廃区へと放り出すこともできず、一度身柄を保護することにした。
今晩はアルビスが事務所に残り、彼女の保護と情報の収集に当たっている。クロエが持っている情報は抽象的かつ断片的だったため、彼女とそれ以上話しても無意味だと判断し、アルビスは別ルートからの情報収集を行っていた。そのせいで一人することもないからか、あるいは過酷な長旅の緊張から解放されてか、クロエはすっかり眠りについていて、いつもなら公龍がふんぞり返って寝ているソファで健やかな寝息を立てている。あまり落ち着かないようなら睡眠導入剤を投与しようと思っていたがその必要はなかった。意外と肝の据わった少女だ。
アルビスはデスクの上に担当した過去の案件のファイルを広げている。概要は既に頭のなかに入っているとはいえ、枝葉の情報までを洗うとなれば資料が必要だった。
加えてクロエが持ち込んだ薬は開封し、その一部を簡易的な分析にかけていた。
アルビスたち解薬士は調剤や創薬の専門家ではないが、薬学知識は豊富に兼ね備えており、単純な成分分析程度であれば事務所でも可能だった。
だが、分かったのはこの
そこでアルビスは過去に関わった案件に類似する
病気や不潔さが疎んじられる現代社会で、清浄かつ正常な精神をもたらすと謳う薬物は認可非認可を問わず溢れている。〝病は気から〟というように、病気を嫌う現代人のニーズに最も合致しやすいのが精神作用系の薬物なのだ。
手掛かりが乏しい現状では、有益だと思える情報を選別するのは不可能だった。
不意に腕時計型の端末に受信。通信を繋げると、盤上にホログラムのパネルが浮かび上がった。
「アーベントだ」
『こんばんは。ミスター・アーベント。飛鳥です』
パネルの映像には澪の顔が映し出されている。いつも通りのグレースーツに、背景の書架。どうやら資料室かどこかにいるらしい。
「随分と早いな」
『ええ。紙媒体もありますが、利便性と効率性の観点から、《東都》以降のデータは全て電子化されてますからね』
「それで?」
『ええ。結論から言いますと、あまり有益な情報は見つけられていません。ここ数日に廃区で起きた殺人および暴力事件だけでは何とも絞り切れません』
「そうか」
『お役に立てず、すいません』
「いや、いいんだ。少女の方はどうだ?」
『同様です。当たり前ですが、廃区の住人も出生届や死亡届を必要とする立派な市民です。しかし〝クロエ〟という名前の少女のナンバーは存在しません』
となればクロエという名前が偽名である可能性が浮上する。しかしあの少女が高度な嘘を吐けるとも思わなければ、アルビスたちに嘘を吐く理由も分からなかった。
アルビスは澪からの報告を受けて黙考する。警察で空振りだとすると、あとは廃区同士の希薄な繋がりを辿るしかない。
そんなアルビスの憂鬱を察知してか、澪が口を開く。
『気を付けてください。少し、きな臭い感じがします』
「刑事の勘というやつだな。そして私も同感だ。また何か新たな情報があれば報告する。そちらも、もし何か気になることがあれば逐一報告を頼めるか?」
『ええ、もちろんです。まだ正規のコードαではないので合間合間にはなりますが』
「ああ。自分の職務を優先してくれ。少女のDNAと件の
『分かりました。よろしくお願いします。では、まだ仕事が残ってますのでこれで』
通信が終了する。アルビスは眉間を揉み解し、穏やかに眠る少女を見る。
「君は一体、何者なんだ?」
アルビスの問いは宙をたゆたい、儚く溶けていく。声を失った彼女のうちに広がる深淵は、まだ何も推し量ることができなかった。
†
木目調の内装の温かみのあるバーカウンターにどっかりと腰を下ろし、公龍はお世辞にも趣味が良いとは言い難い合成アルコールのカクテルを注文する。高級ホテルの一階ラウンジの端にあるバーなので、そんな粗悪な酒があるとは思っていなかったが助かった。何しろ合成アルコールは値段が安いのだ。
しかし廃区の外というのはどうも居心地が悪い。公龍はバーをぐるりと見渡してそのことを実感したが、何故そう感じるのかまでは分からなかった。
「相変わらずの趣味ね」
右隣りに座っていた女がそう言って、これ見よがしに白ワインの入ったフルートグラスに口をつける。ベージュのノースリーブのセットアップに黒いピンヒール。緩く結わいたポニーテールに挑発的な赤いリップ。指に煌めく華奢なリングに嵌め込まれたサファイヤは都市の成功者である証。
「うるせえな。何飲もうが俺の勝手だ。ほっとけ」
「そっちじゃないわ。服装のほうよ。もっとマシな服はなかったの?」
「これは一張羅だし、何着ようが余計に俺の勝手だ」
「あら。久々に会ったっていうのに随分な物言いね」
女はちらと猫背気味に紫とオレンジの混ざった合成アルコールをちびちび啜る公龍を一瞥した。
粟国桜華。この世で唯一、公龍が関わりたくないと思う美女であり、《リンドウ・アークス》の下請けとして《東都》の薬の流通を管理し、都市交通網の整備にも関わる企業《イーストアクセル》の社長。そして公龍の元妻である。
「月一で会ってんだ。久々ってこともないだろ」
「そう? だって貴方、先月も先々月もその前も、仕事だって言って来なかったじゃない」
「先々月の前はお前の仕事の都合だっただろ」
苦し紛れの揚げ足取り。もちろん仕事だなんていうのは嘘だ。会いたくないから、会うのが怖いから桜華を遠ざけ続けているだけだ。今日だって、アルビスに行けと事務所を追い出されなければ来なかっただろう。もちろんキャバクラにでも行って時間を誤魔化すことはできたのだが、そういう気にならなかったのは何故だろうか。
「そうだ、忘れねえうちに渡しとく」
公龍は言ってフィッシャーマンベストの胸ポケットから紙包を出してカウンターを滑らせる。中身は時代にそぐわない現金で、つまるところ離婚に際しての慰謝料的なものだ。口座振り込みで済む話なのだが、こうして会って受け渡しをするのが桜華たっての希望だった。
公龍は早くも二杯目のカクテルを呷る。財布にほとんど金が入っていないことなど、とっくに忘れていた。というよりも酒の力で全て忘れてしまいたかった。
桜華との出逢いは公龍が大学を卒業し、《リンドウ・アークス》の研究員になった年。会場の案内として新薬の発表会に赴いていた公龍は、列席していた桜華に一目惚れをした。その浮世離れした美貌もさることながら、彼女がする鋭利で的確な質問に、粟国桜華という人間がどういう人間なのか興味が湧いた。薬の開発だけを志向して生きてきた公龍にとって、初めての出来事だった。
右も左も分からないままにデートに誘い、断られ、それでも誘った。二八回目にしてようやく食事に行くことができ、何を思ったか公龍は早速プロポーズをした。今思えば狂気の沙汰としか思えないし、当時の桜華もそう思ったのだろう。当然断られた。
しかしその後も幾度となくデートを重ね、時間を共にし、互いのことを知っていった。公龍が一番驚いたのは、桜華が自分と同い年だったということだ。何でも桜華は、悲劇的な震災とその後の二次災害の現状を目の当たりにし、自分にできることはないかと探した結果、国内外から送られてくる支援物資の流通システムを考え出したのだという。
それが原型だった。そしてそのシステムが《リンドウ・アークス》CEOの目に留まり、莫大な出資を受けて桜華は《イーストアクセル》を立ち上げたのだ。
二人は互いに忙しいながらもゆっくりと愛を育んでいった。
公龍は着実に研究員としての成果を上げ、自分のチームを持つにまでなった。桜華の《イーストアクセル》も着々と活動の裾野を広げ、薬の流通のみならず、《東都》の開発計画にも携わるようになっていた。
そして出会ってから二年後、公龍はもう一度プロポーズをした。今度は実った。
何もかもが順調だった。生活のどこを切り取っても幸せだった。公龍の世界は満たされていた。
しかしそんな幸せは唐突に幕を閉じたのだ。
そう、二年半前のあの日。あの場所で――。
「――ちょっと? 聞いてる? なに、もう酔っぱらってるの?」
桜華に肩を揺すられて、意識を引き戻される。
まるで走馬灯のような夢を見ていた。幸せな夢だったぶん、引き戻される現実が痛々しい。
「まったくだらしない。粗悪なアルコールを頼むからこうなるのよ」
呆れたと溜息を吐く桜華。こちらを向いた顔の右側――。流した髪で器用に隠しても見えてしまう、痛々しい皮膚移植の痕。桜華の美貌が咎めてくる。これは罰なのだ。
「そうだ、俺はだらしない」
そう言って、自嘲的に笑う。
「はいはい。だからちゃんと起きなさい」
「起きてる起きてる。大丈夫だ。んで、何の話だよ」
「やっぱり聞いてなかったのね」
桜華はもう一度溜息を吐く。
「新しい高架道路建設の話よ。
「そりゃ大層な計画だな」
公龍は気のない返事をする。もう彼女の仕事の話に昔ほどの興味は抱けなかった。いや、昔からそんなに興味はなかったのかもしれない。自分の生物学的な本能の部分が興味ある風に装えと頻りに命令を出していただけなのかもしれない。
桜華も酔っているのか、公龍の言葉の裏にある細かなニュアンスに気づくことなく、楽しそうに都市の未来について語った。
「そうなのよ。これは素晴らしい計画よ。都市を生まれ変わらせるための第一歩。あまりに遅々とした歩みだから、きっと誰の目にも止まらないのだけどね」
「そうかぁ。なんでもいいけどよ、君がやることはいつだってしっかりと実を結ぶ。歩いてる道に間違いはねえんだ」
二杯目の残りを飲み干し、グラスを卓に置く。三杯目を頼もうとして桜華がそれを止めた。
「そうね。そうだといいわね。でも、間違いを犯さない人間なんていないわ」
「まあな。だけどな、間違いには二種類あるんだ。次間違えないための間違いと、もう二度と取返しのつかない間違い。君がするのはいつも前者だ。いつだって前に進んでいる」
「貴方は?」
「俺は、……いつも後者だな」
公龍がそう言った刹那、桜華の顔に一瞬だけ影が差したように見えたが、それが酔っているせいの見間違いなのかどうか、公龍には分からなかった。
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