02/Voiceless shout《1》

 解薬士げやくしの通常業務というのは、想像より遥かに地味なものが多い。

 朝八時に出社し、事務所の清掃から一日は始まる。それが終わると向かいのビルの煙草屋の女主人に挨拶をし、その日の朝刊三社分に目を通しながら優雅な一服を嗜む。煙草の常用は特殊調合薬カクテルの作用に影響を及ぼしかねないので、アルビスは一日のこの瞬間だけ自らに喫煙を許している。元より医薬機孔メディホールによってニコチンなどは即中和され、依存症状などは出ないようになっているのだが、付与された技術に甘んじることなく自らを律する精神こそが解薬士としての強さを育むのだと、アルビスは思っている。

 一服の後は警察や分析機関から送られてきた《東都》中のコードαで使用された薬物の分析結果に目を通す。必要があれば《リンドウ・アークス》が管理する薬物データベース上のアーカイブや研究論文などを使って知識や知見を深める。解薬士とはただ強いだけでは務まらない仕事だ。冷静で分析的な思考。それを常に発揮するためには、日々の探究を怠ってはならない。

 その後は行きつけの喫茶店で軽めの昼食を取り、ジムへと赴く。アンダーグラウンドでの拳闘ドッグファイトで名を馳せる荒くれ者たちと手合わせをし、自らの肉体を研磨する。夕刻前にはジムを後にし、事務所でメールなどを確認。問題がなければ帰路に着く。

 これらのルーティンワークに加え、必要があれば過剰摂取者アディクトの解薬処置や非認可薬物デザイナーズドラッグ製造元の摘発などといった解薬士の本分とも言える業務に動く。


 これは先日の山賀秀朝の案件のように警察や政府機関、あるいは《リンドウ・アークス》を始めとする製薬企業などからの指示や依頼というかたちを取ることもあれば、一般市民を依頼人として立てて進められることもある。

 無論、市民が事件に巻き込まれるケースはそこまで多くない。それにもし巻き込まれたとしても大抵の場合は非認可薬物デザイナーズドラッグの魅力に絡め取られていってしまうため、解薬士に助けを乞うようなケースはごく稀だった。

 だからと言って、薬という都市の屋台骨を通して《リンドウ・アークス》や国家という支配層とそこに生きる人々との中間者で役割を放棄するべきではない。事務所の経営は専らアルビスの役割だったが、民草の声を無碍にしないという点では珍しく公龍くりゅうとの意見が一致している。

 だから今日も、全ての通常業務を終えてすぐには帰路に着かず、陽が傾いてからしばらく事務所のデスクにて最新の研究論文集を読んでいた。

 ウロボロス解薬士事務所。

 それが公龍とアルビスが二人で営む、小さな解薬士事務所だ。

 ウロボロス、というのは互いの尾を喰らい合い円環を成した二匹の龍のことを指し、永遠の繁栄などという意味がある。モチーフが龍であるのは言うまでもなく公龍の名前にちなんだからであり、そこには自分たちとこの都市全体の繁栄を願う気持ちが込められている。

 都市の繁栄とやらはさておき、事務所の繁盛はまさに頭の痛い問題だった。

 アルビスは閑散とした事務所を見渡す。

 オフィスは仕切りのないだだっ広い箱のような空間で、窓際にアルビスと公龍の机が並び、その前には応接用のソファが向かい合って置かれている。机に座って左側には主にアルビスが使う書架があり、右側の奥には主に公龍の仕業であるカップ麺の空容器が詰まれたゴミ溜めのようなシンクがある。床の至る所には脱ぎ捨てられた衣類が散乱し、室内の空気はどんよりと重く埃っぽい。

 こんな不健全な空間に、助けを求めにやってくる物好きがいるとはアルビス自身も思えなかった。

 アルビスが毎朝懸命に掃除しているにも関わらず数時間で元通りになるのは偏に、この事務所が九重公龍という生活破綻者の住処と化しているためである。


「貴様、そろそろ起きたらどうだ?」


 アルビスは応接用のソファで寝ている公龍のブランケットを引き剥がす。ぼさぼさのブリーチヘアを掻いて、公龍が薄っすらと目を開ける。天板だけの簡素なガラステーブルを探り、眼鏡を手繰ってレンズ越しにアルビスの方を覗きこむ。


「んだよ、てめえか。二日酔いだって、言ったろ。寝かせろドアホ」


 公龍は再び眼鏡を置き、ブランケットを取り戻すとソファの上で丸くなった。胎児のように気持ちよさげに寝る相棒に、アルビスは嘆息する。だが無碍に放っておくこともできず、ゴミだらけのシンクでコップ一杯の水を汲んだ。


「あれほど酒は慎めと言っただろ。大して強くもないんだ。身の程を知れ」

「ん。ああ……助かる」


 公龍はアルビスから水を受け取り、一気に飲み干す。空になったコップをテーブルへ置き、胡坐をかいてソファに座り直した。


「んで、なんだよ。帰んのか?」

「いや、誰かが上がってくる」

「はぁ? 誰がこんなとこに来るってんだよ。また武器商のおっちゃんだったら、安眠妨害罪で訴えるからな」

「そんなふざけた罪状はない。それに足音は女だ。万に一つもそれはありえない」

「ほう、じゃあ賭けようぜ。誰も訪ねてこないに俺はアンナちゃんの連絡先を賭けてもいい」

「いらない、そんなもの」


 ウロボロス解薬士事務所は《東都》の東部に位置するとある廃区にある。非認可薬物デザイナーズドラッグが流通するのは廃区であることが多く、そこに拠点を持っておけば初動の迅速さや情報取得の手段が得やすいのだ。もっともアルビスたちが廃区に事務所を構えることにした最大の理由は経済面であり、都市部に比べ治安や衛生環境の悪い廃区は賃貸料も格安であるからに他ならない。

 だが館を構えるにあたり、重要視すべきは立地だったことをアルビスは痛感している。

 市民が好んでは寄り付かないのが廃区だ。事務所がある廃区は他の廃区に比べれば比較的治安はいいとは言え、結局のところは都市から外れた周縁の地なのだ。

 ちなみに言うと、ウロボロス解薬士事務所は雑居ビルの二階に構えられており、一階は一月前まではフィリピンパブだったが、不法移民の雇用が摘発されて現在は空きテナント、最上階である三階には牙央きばおう興業という非合法スレスレの武器屋がある。つまるところ、まるで近寄りがたいビルなのである。

 足音はやがて扉の前で止まり、二度ノックする音が聞こえた。アルビスは扉へと向かい、公龍は舌打ちをする。


「ちっ。……まあ女ならいいか」

「俺が出る。お前はここを片付けろ。まずは話を聞いてみるだけだが、お前は絶対に口を開くな。いいな?」

「その申し出にはほぼ同意してやるが、ただし美人だけは除け。判断基準は俺だ」

「喋るなよ?」


 アルビスは扉を開いた。そこにはいるはずの人影がどこにもない。だがほのかに香った血の匂いにアルビスは警戒を強める。だがすぐさま公龍のやる気を削ぐ声が上がり、アルビスの緊張感を台無しにした。


「んだよ、ガキじゃねえかよっ!」


 見下ろせば、そこには女は女でもまだあどけない少女が今まさに倒れそうな危うさで立っている。ぐぅぅ、と盛大な腹の虫の啼き声と共に、その少女はアルビスの脚へと倒れ掛かった。


        †


 アルビスがカップ麺にお湯を注ぐと、ソファに横たえていた少女はすぐに目を覚ました。すぐに用意できるのがカップ麺であることに多少の申し訳なさはあったが、湯気を立てるそれを目の前にした少女は、この世にさも美味いものがあったのかと言わんばかりの食べっぷりを見せた。

 盛大なげっぷと深々としたお辞儀にて食事も終わり、今はアルビスと向かい合ってソファに座っている。ボロボロの上履きに裾の擦り切れたワンピース。年齢は定かではないが、発育が遅れたような印象の痩身は満足な栄養を得て生活しているとは言い難い。おそらくは廃区の生まれだ。しかし身体には外傷や注射痕などはなく、廃区の住人にありがちな呆けたような表情もない。顔つきは相応に幼くとも、その瞳には少なからず理知が湛えられていた。

 公龍はもはや興味を失ったらしく、〝俺の精神はそこまで病んでねえ〟と不可解な言を残して、自らのデスクで暇を持て余している。


「差し支えなければ名前を伺ってもいいか?」


 アルビスは縮こまって座る少女に、おっかなびっくり声を掛ける。少女は訊ねて早々に公龍の大声を聞かされたせいで完全に委縮していたし、そもそもアルビスは子供の扱いが不得手だった。


「……何も喋ってくれなければ、我々には何もできない。つまり、もし君が我々の依頼人であるならば、君は我々に対し必要な情報を開示する義務がある」


 硬質な言葉と冷たい声音でそんなことを言われても、少女は言葉を繕うことができずに沈黙を決め込んでいた。

 アルビスがあの手この手で質問を続けること数分。


「あーっ、もう。お前、堅物すぎんだろ。脳味噌アルミホイルでできてんのか? 埒があかねえよこれじゃあよっ!」


 少し早いようにも思えたが、公龍が痺れを切らして立ち上がる。寝起きが猛烈に悪いこの男は一つ一つの動きで大きな音を立てるので、少女がびくりびくりと肩を震わせる。


「おい、ガキ。名前は?」


 ほとんど詰問。胸ぐらでも掴み上げそうな勢いで少女へと詰め寄る。


「…………」

「どこから来た?」

「…………」

「アンタは迷子か?」


 その質問に少女がぶんぶんと首を横に振った。初めて意思疎通が図られる。


「そうか。じゃあ、目的があってここに来たんだな?」


 少女は無言で頷く。そこで初めてアルビスも気が付いた。少女は話さないのではなく、話すことができなかったのだ。


「……失語症」

「そうだよ馬鹿。気づくの遅えだろうが」


 公龍の叱責に、アルビスが反論する余地はない。相手が子供という得体の知れない存在だという先入見に囚われて、事象を客観的に判断することを疎かにしていたのだ。代わりに自分のデスクから紙とペンを取って少女へと渡した。少女は小さく頭を下げ、アルビスからそれらを受け取った。


「名前は?」

「違えだろ。字は書けるか?」


 公龍の言葉に頷き、少女は早速ペンを紙に走らせる。歪で醜く、しかし力強く凛々しい字だった。名前が三文字。そして食事を振る舞ってくれたことへの礼が添えられる。


「クロエ。それが君の名か。食事の件は気にしなくていい。こいつの買い置きだからそう大したものでもない」


 アルビスの言葉に少女は警戒した様子ながらも頷く。恩人としての感謝はあれど、先ほど矢継ぎ早に答えられぬ質問を投げられたことが相当に堪えたのだろう。もはやこの場は公龍のほうが適任だと言えた。

 公龍もそれを理解したのか、あるいはこの朴念仁には任せておけないと判断したのか、アルビスの隣りにどかっと腰を下ろす。


「そうか、クロエ。んじゃあと二つ質問するぞ」


 さっきまで二日酔いに唸っていたのが嘘のように穏やかな声で、公龍はまず一つ目と人差し指を立てる。


「クロエ、お前がここに来るまでの経緯を教えてくれ」


 クロエは視線を落とし、再び紙へと向かう。何度か書き直し、数分して渡された紙には意味の繋がらない文字を塗り潰した跡。クロエは代わりにポケットからビニール製の小包を引っ張り出す。


「これは……」


 アルビスは息を呑む。クロエが差し出した小包には赤茶色の粉末が収められていた。公龍も隣りで眉を顰めている。


「薬か」

「パッケージから察するに非認可薬物デザイナーズドラッグで間違いなさそうだ。……これをどこで手に入れた?」


 アルビスの薄青の双眸がクロエを見据える。クロエは案の定恐怖に縮こまり、小包がテーブルの上へと落ちる。


「こういうのは順を追え。それこそ澪ちゃんに頼めば分析くらいしてくれんだろ」


 珍しく公龍に正論を言われ、アルビスは返す言葉もなく黙る。代わりに思考を巡らせた。

 失語症の少女、クロエ。持ち込まれた非認可薬物デザイナーズドラッグ。仄かに香った血の匂い。

 判断材料となる情報は圧倒的に不足している。だが不足しているからこそ推測できる真実もある。

 まず字さえろくに書けないクロエが独力でここに辿り着いたとは考えづらい。つまり何者かにアルビスたちの元に連れてこられた、あるいは送り込まれたと考えるのが自然だろう。だがその人物がここに姿を現さない以上、何らかの罠である可能性も大いにある。

 罠の可能性はもう一つの線からも強く支持される。非認可薬物デザイナーズドラッグは安価で大量に出回っているが、それでも年端もいかない少女が手にできるようなものではない。彼女の関係者が常用していたものをクロエが持ってきた、あるいは彼女をアルビスたちの元へ送り込んだ何者かが何らかの意図で持たせた。そう考えるのが自然であり、後者であれば罠――少なくとも誰かがアルビスたちを利用しようとしている可能性が強まる。


「……なるほど。じゃあ次は二つ目だ。俺たちは解薬士だってのは分かるな? 解薬士っていうのは依頼人の依頼に応える。もちろん薬にまつわる話限定だが、どうやら俺たちの出番らしい。依頼料とかって話はこの朴念仁がなんとかするから放っておけ。できる限りのことはしてやる。んで、お前は、俺たちに何を頼みにきた?」


 公龍は新たな紙をクロエに渡す。クロエは三度紙へと向かい、震える手で懸命に何かを記した。今度は何かを書き終えると、手渡すのではなく、紙片を自分の胸の前で掲げて見せた。


〔おねいちゃん たすけて〕


 小さな依頼者の声のない悲痛な叫びがもつ静かな気迫に、アルビスと公龍は揃って息を呑む。

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