01/Silver & Blood《3》

 フード付きのぼろい外套。幽鬼のような千鳥足。一見すれば、行先を求めて街を徘徊する亡霊のごとき風貌。しかし、だらりと垂れた手に握るのは拳銃じみた異形の医療器具。

 アルビスは知っていた。

 それが亡霊などではなく、ほんの小一時間前までキャバクラかどこかで酒と薬と女を堪能していた、素行に問題だらけの相棒だということを。つまりその人影はただ酔っぱらっているだけだ。

 走る山賀が外套の男へ向かって拳を振り被る。当たれば一撃で骨が砕け散るだろう一撃。しかし吹き飛んだのは外套の男ではなく、山賀のほうだった。

 すぐ脇のビルに猛烈な勢いで打ち付けられ、崩れた壁の粉塵が舞う。距離があり、さらには暗いことも相まって、アルビスの眼でも外套の男が何をしたのか認識することができなかった。

 アルビスの相棒は、無数の狂気が錯綜するこの《東都》で、紛れもなく最強の一角に座す解薬士げやくしなのだ。

 その相棒が、纏っていた外套を剥ぎ取る。

 外套が風を巻き上げ、粉塵を晴らす。暗闇のなかで露わになるのは、襤褸を纏う幽鬼じみた男ではなく、はてまた最強の称号に相応しい偉丈夫でもない。

 暗闇のなかで僅かな光を反射する銀縁の眼鏡。根元が黒くなったブリーチヘアは、何故か毛先だけ鮮やかな緑色に染められ。その髪を乱雑に束ねるのは髑髏の刺繍入りという悪趣味なヘアバンド。羽織ったハンティングベストに左右の脚で全く違う柄が描かれた幾何学模様のシルクパンツ。微塵のセンスさえ感じない奇天烈な風貌に、薄っすらと浮かべられる悪辣な表情。

 九重公龍ここのえくりゅう――。この男こそ、繁栄と清浄を築き上げた《東都》において、最強と最凶の名をもって恐れられる天才解薬士だった。

 その天才たる相棒は、天を仰いで叫んだ。


「ったくよおっ! 俺のお楽しみを邪魔しやがってっ! おい、アルビス! お前に行ってんだからなっ! 今日こそメアリちゃんと同伴してもらうって意気込んでたのによっ!」


 公龍の叫びが闇にこだまする。もちろん公龍は離れたビルの二階から見ているアルビスに気づくはずもなく、それどころか目の前で起き上がろうともがいている男が解薬の対象であるとさえ知らず、ただ腹の虫の居所の悪さのままに吼えている。いつものことと言えばそれまでだが、アルビスは溜息を禁じ得ない。


「しっかも、何なんだよこの気持ち悪いおっちゃんはよ。身体中イカレまくってるじゃねえか。いきなり突っ込んできやがって。なあおいてめえ! 何処見て歩いてやがんだ」


 外套を丸めて放り、片手をポケットに突っ込んだチンピラさながらの無防備な歩みで山賀へと近づく。普通ならフェードレッドの過剰摂取者アディクトへの絡み方としては最悪だ。しかし普通が通用しないからこそ、天才は天才で、最強は最強なのだ。


「おれおれおれおれっ!」


 腰を折ってようやく立ち上がっていた山賀が腕を薙ぐ。轟音を蹴立てて振るわれるそれも、理性を失ったがゆえの一辺倒な攻撃は公龍の前では赤子の手を捻るに等しい。公龍は山賀の腕を足蹴にし、バランスを崩した山賀の側頭に引き戻した脚で蹴りを見舞う。隆起した巨躯が嘘のように反転し、顔面が地面を抉った。


「んだてめえ、時代遅れの詐欺師野郎か? いいか? 俺は今、虫の居所がすこぶる悪い。今すぐ謝ってそのきたねえ額を地面につけねえと――」


 ぽきぽきと公龍が首を鳴らし、その間に反撃のタックルを試みた山賀の顔面を容赦なく踏み抜く。鼻が陥没し、水道の蛇口を捻ったように血が噴き出す。


「もしかしててめえがアルビスの言ってた解薬対象か? だったら最初からそう言えよ。ってか、アルビスの奴は何してんだ」


 公龍が嘆息する隙に、山賀は身体を引き摺りながら建物へと逃げ込む。そこが認可非認可を問わず幅広い薬物を取り扱う店であることは、公龍はもちろん、アルビスにとっても想定外だった。

 手当たり次第に棚を漁り、錠剤をパッケージごと嚥下する。無針の簡易注射器に入った薬を片っ端から腕に注いでいく。


「あーあーあー。ちと追い込みすぎたか?」


 服用した薬物の種類が多ければ多いほど、遺伝子変異の根幹となっている非認可薬物デザイナーズドラッグの特定は難しくなる。アルビスは再び溜息を吐きたくなったが仕方ない。それにこれで公龍の酔いも少しは醒めると思えば、そこまで悪い代償ではない。


「俺がお前お前お前俺なんでうるさい俺俺俺お前俺」


 もはや調合とは言えない泥水のような薬剤の混交物に骨の髄まで浸った山賀は獣じみた叫びを発し、血走った眼を剥く。薬物乱用による完全な錯乱状態だと言えた。対する公龍は眼鏡の位置を人差し指で直し、笑う。


「くはは、こんなにイカレた奴は久々だぜ」


 その眼に宿るのは狂気を凌駕する狂気。撃鉄を起こされた回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターが構えられる。鋭利な針が捉えるのは、銃把を握る公龍自身の首筋――正確に言えば首筋に埋め込まれた海岸に蔓延るフジツボのような形状をした小さなドーナツ状の機械。

 医薬機孔メディホール。解薬士の身体に例外なく装着される安全装置で、体内に注入された薬剤の中和や解毒、時には効果の促進さえも可能な分子技術ナノテクノロジーの結晶。

 毒を以て毒を制す――。

 薬に狂った過剰摂取者アディクトは、同じく薬で強化された解薬士が始末をつける。単純だが、最も合理的で効果が高く、そして紙一重で危険を孕む方法だった。

 解薬士が二人以上の行動単位を義務として課されている理由は万が一の最悪――解薬士が特殊調合薬カクテルによって完全な狂気に染まる事態――への対処法だ。加えて言えば、解薬士に求められる体力や精神力は、突き詰めれば特殊調合薬カクテルの服用に耐えるためという一点に収束されていく。

 針が躊躇なく公龍の首筋の孔に差し込まれ、引き金が引かれる。ぱしゅ、という間抜けな音とともに公龍の体内に注がれたのは珊瑚色コーラルレッドのアンプル。


 公龍の天才たる所以――それはある特定の特殊調合薬カクテルに対する異様な適性の高さにある。

 色によってその性質を表す特殊調合薬カクテル群青コバルトブルー深緑エバーグリーン檸檬ビビットイエロー――使われる色は様々であるが、概ねその色系統によって分布される。例えば青系は主に鎮静化作用、黄色系は五感作用と言った風に。

 そして全て色のなかで、最も異質な系統が〝赤〟系統。

 現在、それを使いこなすことのできる人間はこの九重公龍をおいて《東都》には他に存在しない。

 公龍が自身の親指を噛み切る。噴き出した血が宙を舞い、そしてかたちを結ぶ。それはさながら刀のよう。禍々しく凝縮された暴力と生命の証。

 珊瑚色コーラルレッドのアンプル――それは、血液操作の特殊調合薬カクテル


「――俺が俺が俺が俺が俺が俺がぁああああああああああああああああああっ!」


 雄叫びとともに山賀が公龍に飛びかかる。公龍は飛び退いて山賀の突進を躱す。山賀は勢い余って壁を抉り、すぐさま身を翻して追撃を加える。大振りの拳を公龍は幾度となく事もなげにいなしていく。


「んじゃ、俺の番ってことで――ッ!」


 刹那、公龍が一気に攻勢へと転じる。繰り出された拳を掻い潜って躱して一閃。山賀の胸を撫でるように剣閃が走った。

 巨躯が浮かび、血反吐が撒き散らされる。公龍は右脚を軸に回転、宙で仰け反る山賀にトドメの回し蹴りを見舞う。鳩尾を貫く衝撃が変色した異形の巨躯を、路上まで紙切れのように吹き飛ばす。

 一瞬だった。

 大穴の開いた壁の向こうで、山賀は完全に気絶していた。


「遅刻だ、公龍」


 山賀の傍らにしゃがみ込んだアルビスは、公龍を一瞥することなく言う。手にした回転式拳銃型注射器ピュリフィケイター群青色コバルトブルーのアンプルを再度打ち込んだ。


「てめえこそ、何逃がしてやがんだ。油断したか?」

「お前が来ていることを知っていた。右胸のポケットに発信機が仕込んである。つまり全て計算通りだったというわけだ」

「けっ、よく言いやがるぜ」


 店から出てきた公龍は吐き捨てるように言って、右胸に仕込まれた発信機を地面に捨てて踏み躙った。そして自分の回転式拳銃型注射器ピュリフィケイター無色のノンカラードアンプルを装填し、首筋の医薬機孔メディホールへと打ち込む。たちまち血の刀がかたちを解き、噛み切った指先の傷から体内へと吸い込まれるように消えた。

 アルビスの後を追って、澪が駆けてくる。アルビスは立ち上がって向き直り、公龍は走ってくる澪に手を振った。


「澪ちゃーん。会いたかったよ~。俺ってば、澪ちゃんの顔見たくってさぁ~」

「ミスター・アーベント、ご苦労様でした」

「処置は全て完了した。あとの処理はいつも通り警察に任せる」

「ありがとうございます。了解しました」

「ねえ、澪ちゃん? 俺のこと無視しないで? 俺めっちゃ会いたかったんだよ? てかさ、そいつぶっ飛ばしたのこいつじゃねえし俺だし」

 

澪はちらと公龍を一瞥しただけで、再びアルビス相手に事後処理の手続きを進めていく。遠くでサイレンが聞こえる。先行していた捕縛用の装備を背負った無人機が到着する。


「では後は警察が引き継ぎます。いつも通り、解析結果などは後日書類をお送りしますので」

「ああ、よろしく頼む」


 頷き、アルビスは踵を返す。最後まで無視され続けた公龍は不満げだったが、忙しなく事後処理を始めた澪の背中にへらへらと手を振ってアルビスの後を追った。


        †


 解薬士げやくし――。

 無数の薬によって支えられるこの《東都》で戦う者たちの名。

 そして、狂気を切り裂き葬るために、自ら進んでさらなる狂気へと足を踏み入れる者たちの名でもある。

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