01/Silver & Blood《2》

 基本的に廃区は公的な復興計画から見放されたエリアなので、そこに住み着いた住民によって好き勝手なかたちで手を加えられている。もちろん潤沢な資材などがあるはずもないのでその様相はフランケンシュタインそのものだ。

 アルビスと澪が歩いている路地も、頭上を見上げれば両脇に建つ半壊の雑居ビルから野放図に橋が架けられている。寄せ集めた鉄材を滅茶苦茶に溶接しただけの細い橋は、誰かがその上を歩くたびにギシギシと音を立て、付け根部分のコンクリートがパラパラと崩れかける。

 汚臭が立ち込める路傍にはまだ肌寒い春先の夜だというのに裸同然の格好で寝そべる男がいる。相当な量の酒――粗悪な密造酒をたらふく飲んだらしく、豚の断末魔のような鼾をかきながら時折女の名前を譫言のように呼ぶ。男が泥酔しているのを良いことに、擦り切れたタンクトップに短パンを履いた少年が忍び寄り、男が握り締めていた酒瓶と紙幣を引っ手繰って逃げていく。

 都市の至る所に点在する廃区は、住民の色が如実に出るので一口にどんな場所とは言い切れない。

 廃区に流れ着く人間というのは、お天道様に顔向けできないような稼業や犯罪に身を染めた者たちであったり、リストラなどの憂き目に遭い居場所を失った者、清潔さを押し付ける社会に馴染むことができずに逃げてきた者など実に多様だ。しかしいずれにせよ、少しでも秩序あるましな暮らしをしたいと思うのが人の常であり、生活のための最低限の仕組みが整えられているような廃区も少なくはない。

 実際にアルビスが今までに見てきたなかでは、都市部とほとんど同等に近い水準の教育を子供に受けさせてやるような廃区まで存在していた。

 そういう意味で、この廃区の荒廃具合はひどいものだっただった。

 都市のなかにこうした廃区を抱え込んでいることへの批判は根強く存在する。

〝清潔・節制・誠意〟

 この都市が標榜する三つの理念のどれにも、廃区は当てはまらない。不衛生な環境で、欲望が赴くままに生活し、必要さえあれば盗みや暴力に身を委ねる。今回のように犯罪に走った人間が逃げ込むような悪の温床と化すことも決して稀ではない。それが廃区での生活であり、市民は自らの生活がそうした不浄や危険と隣り合わせであることに嫌悪感を抱く。

 だが根強い批判や排斥運動にも関わらず、廃区は決してなくならない。

 人々は反感を抱きつつも理解しているのだ。廃区というアンダーグラウンドの存在が、都市を円滑に運営していく上での必要悪であるということを。

 それに結局のところ、どちらも間違いではないのだ。都市と廃区。光と影。清潔と不浄。そういう不合理でアンビバレントな感情こそが、在るべき姿の一つなのだろう。


 廃区に入って十数分が過ぎた。

 入り組んだ路地をだいぶ進んできたが、山賀の姿は見えない。路傍や頭上の橋にしばしば見えていた廃区の住民たちは、いつの間にかめっきり減っていた。


「……ミスター・アーベント。なにか当てでもあるんですか?」

「廃区の住民っていうのは、冷徹で酷薄だ。何故だか分かるか?」

「厳しい環境下で、他人を思いやるような人間は長生きできない。ゲーム理論とは逆で、他者との強力で長期的な利益の増大を指向するような、確定的な未来がない」

「違うな。この冷徹さと酷薄さこそ、人間のよりプリミティブな感情ということだ。面倒事に巻き込まれたくない、静かに暮らしたい。廃区の住民にとって、ルソー的な意味の憐れみを差し向けるべき対象は自分自身なんだ」

「どういう、意味でしょう……?」

「ほら」


 アルビスがすぐ横の廃墟の二階を指差し、もう片方の手でサスペンダーに収められていた回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターを手に取った。


        †


 建物の中はほとんど空っぽだった。どうやら元はゲームセンターだったらしくアーケードゲームの台の残骸が散らばっている。震災直後に高値で売れる貴金属類は根こそぎ持っていかれたらしい。

 足音を殺し、建物の奥にある階段を上る。アルビスが先行し、澪は距離を開けて後に続く。いくら相手が興奮状態で注意散漫と言えど、警戒は怠るべきではない。

 アルビスはそこで階段の下にいる澪に向けてハンドサインを送る。意味は要救助者――人質が存在する可能性、突入後の保護を任せる。

 しかとアルビスのメッセージを受け取った澪は生唾を飲んだ。その鉄仮面に緊張が走る。

 二年の付き合いで分かったことは、年齢に似つかわしくない澪の冷静さや泰然さというのは装われる仮面であって、彼女の本質ではないということだ。いくら鉄仮面を被ろうと、無数の修羅場を潜ろうと、彼女は他人の命を自分の差配が握っているという強烈な重圧に耐えられるほどに鈍感にはなれないのだ。

 二階に上がると、従業員の休憩室だったと思わしき奥の部屋から微かに声が聞こえてきた。


「……なぁ、なんでだ? ろうしておれなんらよぉなあ? なぁ? あの女、くそっ、くそ、くそくそくそくそくそ! なんらおの眼ぇは……馬鹿にしやらって、ああん? このっ、このぉっ」


 殴打する音。それと同時にびちゃびちゃと濡れた座布団を叩くような不快な音。そして鼻孔の奥を突き刺す臭気。汗と尿の入り混じる、獣じみた欲望の臭い。

 山賀は女性に対して強い劣等感を抱いている。おそらくはリストラされて妻子にさえ捨てられたことが起因しているのだろう。そしてその強い負の感情が薬の力によって暴力衝動へと変貌し、山賀という人間の表面に現れたのだ。

 服用した薬品はカカオやガラナ、マテ茶などの植物に多く含まれる有機化合物、テオブロミンをベースとした非認可薬物デザイナーズドラッグだろう。テオブロミンとは犬がチョコレートを食べた時に引き起こす中毒症状――過度な興奮や脱水症状、心拍の低下――の原因となる物質であり、人体への利用としては利尿剤などとして用いられる。

 アルビスが数多ある薬のなかで、山賀が服用したのが非認可薬物デザイナーズドラッグだと推測した理由は二つ。

 テオブロミンがチョコレートに含有される量や、経口摂取できる程度の量では人体や人の精神にそこまで大きな影響をもたらさないこと。つまり通常の市販薬を多量摂取した程度の症状を、山賀が明らかに凌いでいることが伺えること。

 そして現代において、一つ目の可能性を十分に現実たらしめる程度には、その全貌を把握することは不可能な速度と規模で非認可薬物(デザイナーズドラッグ)が生み出されていること。

 震災以後、感染症への対処のために《リンドウ・アークス》の薬を中心に様々な種類の薬が市場に出回った。なかには金儲けだけを目的とした粗悪な薬品もあり、素人が杜撰な調合をした強烈な副作用を引き起こすものまで様々に含まれていた。当然一般市民にそれらを見分ける能力などないので、それはある種の社会問題となった。やがてその問題に対処すべく、公的に認められた薬とそうでないものが選別され、前者の出どころは一つに絞られるようになった。特別復興指定都市に認定されて以後、つまり《リンドウ・アークス》が正式に復興の旗印となって以降、《リンドウ・アークス》が主導する成分解析にて〝可〟の印を押されていないすべての薬品を非認可薬物デザイナーズドラッグと呼ぶのだ。

 無論、非認可薬物デザイナーズドラッグのようなものは淘汰されて然るべき醜悪な代物なのだが、より劇的な効果、安価な薬を求める人々がいる以上、そうした条件を満たす非認可薬物デザイナーズドラッグはなくならない。

 使う人間が弱いのか、造る人間が悪いのか。この鶏と卵を巡る議論に終わりはない。アルビスたちにできるのは、その双方と戦い、都市が手中に収めつつある安寧を維持することだけだ。

 アルビスたち解薬士とはあくまで執行者であって治療者ではない。目的は過剰摂取者アディクトを制圧することであって、中毒患者に社会復帰のためのケアを施すことではないのである。

 ゆっくりと休憩室の扉を開く。

 蝶番が壊れかけているせいで扉が床を擦る音が鳴ったが、山賀の意味不明な罵詈雑言と暴力が奏でる音が途切れることはない。

 天板だけの簡素なテーブルの上に、山賀はいた。履いていたジャージのズボンを脱ぎ捨て露出した下半身を滾らせて、着ていた服を無惨に引き裂かれた女に圧し掛かっている。女のほうはと言えば、山賀によってしこたま殴られ顔の左半分は青黒く腫れ上がり、あまりに凄惨な現実に意識をフェードアウトさせている。

 女の状況は心身ともに深刻で、一刻も早い治療が必要だった。強力な薬で短期記憶を封じ込めるくらいのことはしなければ、一生のトラウマを抱えて怯えながら生きることになるかもしれない。

 だがそれは澪たち警察、あるいは精神科医の領分だ。

 アルビスの相手は今目の前で獣じみた唸り声を上げながら、自らの征服欲求を満たす怪物。

 比喩ではない。非認可薬物デザイナーズドラッグは、その強力な効用ゆえに思いもよらない遺伝子変異を使用者の肉体に生じさせる。

 かつて謹厳実直を絵に描いたサラリーマンだった男は、今や非認可薬物(デザイナーズドラッグ)によって文字通りの異形の怪物と化していた。

 服を着ていても分かる異様に隆起した肩の筋肉。木炭のような黒に変色した顔と手足の皮膚。目は真っ赤に充血し、毛細血管が破れて漏れた赤黒い血が涙のようにどろりと垂れる。

 遺伝子変異・フェードレッド。副作用による遺伝子異常が臨界点を超え、もう元の人間には戻ることができない状態を表す言葉。


「――ひぅっ」


 背後で慌てて呑み込んだような悲鳴。後退ったせいか、床に散乱するゲーム台の残骸が音を立てる。扉を開けっぱなしにしていたことで休憩室のなかが見え、人を逸脱した怪物の異形に澪が思わずたじろいだのだった。

 この世のものとは到底思い難い、ましてそれが自分と同じ人間であったなど信じられるはずもない異形を目の当たりにして、平静さを保てというのが無理な話だ。単に慣れの問題ではなく、その異形を人と認めながら人と選別する強靭な精神力が必要なのだ。

 だからアルビスは澪を責めるつもりはないし、忍耐を強要したりもしない。

 しかしこの場において澪が立ててしまった音は致命的な隙となった。

 山賀がアルビスたちに気づき顔を上げる。その血走った眼の奥にある研ぎ澄まされた本能は、アルビスたちを敵性として断定する。

 女から飛び退いた山賀は、ほとんど予備動作なしに駆け出してアルビスへ接近。黒く硬化した腕を振るった。アルビスはこれに的確に反応。上体を僅かに逸らして山賀の攻撃を躱す。

 興奮状態の過剰摂取者アディクトを相手にする際、距離を取ろうとすることは命取りだ。単純な思考プロセスしか辿れなくなっている彼らは、距離を取った相手に対して〝自分が優勢である〟と解釈する。逃げれば逃げるだけ過剰摂取者アディクトの欲望を充足させてしまい、その追撃に拍車をかけるのだ。

 だからアルビスは退かなかった。半歩だけ左足を後ろへ擦って、踏み込む。流れるような美麗な所作が、アルビスの全身から発せられる力を余すことなく攻撃に乗せた。ゼロ距離で脇腹に放たれた掌底が山賀の骨を砕いた。たじろいだ山賀は雄叫び、咽込んで吐血。敵わないと分かるや逃げ出そうとするも既にアルビスが距離を詰めている。その手には回転式拳銃型注射器ピュリフィケイター


群青色コバルトブルーのアンプル――」


 山賀の首筋へと注射針を突き立て、引き金を引く。針を伝って発射されるのは弾丸ではなく、群青色の薬液。精神の鎮静化と全身への麻酔効果のある特殊調合薬カクテル

 喉の奥から歪な声を漏らす山賀に蹴りを見舞う。たたらを踏んだ山賀は全身が既に言うことを聞かなくなっていて、力なく膝を折る。しかし――。


「ぅぅぅうううがぁぁああああああっ」


 憎悪と気迫に満ちた雄叫びを上げ、自らの硬化した指先で首を掻き毟る。噴き出すように流れ出た大量の血とともに、アルビスが撃ち込んだ特殊調合薬(カクテル)が体外へと排出されていく。


「俺が俺が俺が俺がぁっ!」


 威圧的な叫びとは裏腹に、山賀は逃走を続行する。部屋の窓を割って飛び出し、着地に失敗して路上へと転がる。すぐさま立ち上がり、血と涎と汗を撒き散らしながら走り出す。


「アーベントさんっ!」


 日頃はアルビスが慣れ親しむ西洋の文化に従い、敬意と親愛を込めて〝ミスター〟と呼ぶ澪が叫ぶ。だが、澪の焦りとは裏腹にアルビスは落ち着いていた。


「安心していい。――あいつが来た」


 アルビスは一層濃い闇が落ちる路地の彼方へ視線を投げる。山賀がよろめきながら向かう先に、ぽつりと人影があった。

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