水風呂の呼吸



 ――熱い。

 ともかく熱い。ここは地獄の釜ゆでのように熱い。ヘルジン軌道人の古い言い伝えに、悪事を働いた人間は地獄で熱湯に浸されるという話があるが、まさか太陽系人にも同じような言い伝えがあるのだろうか。これは、それをモチーフにした刑罰なのだろうか。

 いや、そうに違いない。

 こんなにも熱く、辛い。普段、冷たい水に入り浸っているせいもあるかもしれないが、それにしたって熱い。太陽系人はなんて残虐な刑を考えるのだろうか。

 やっぱりここは牢獄なのだ。地獄になぞらえた刑罰を与える牢獄だ。確かに海賊行為に身をやつしたアタシには相応しい刑罰なのかもしれない。しかし、まさか生きながらにして、その刑に処されるとは思いもしなかった。アタシはそこまでの罪人なのだろうか。流されて、ただ為す術無く海賊になった。なってしまった。けれど、アタシにはどうしようもなかったのだ。

 その無力も罪だというのだろうか。

 アタシには納得出来なかった。けれど、ただ今はこの熱さに耐えるほかなかった。何度か熱さに耐えきれず、このユニットから出ようとしたが、あの太陽系人はそのたびにきつくアタシをにらんで、「我慢しろ」といって十二分時計を指さした。さっき力尽くでねじ伏せられたアタシは仕方なく、それに従って、ただその熱いユニットの中に座り直すだけだった。

 たった十二分のはずの時計が、やけにゆっくりに感じられた。

 アタシにはただこの地獄の刑罰に耐えることしか許されなかった。

 それにしても、この太陽系人は奇妙だ。

 何度も言うが、ヤツはアタシを力でねじ伏せて服を脱がせた。つまり、アタシをどうにでもできるというわけだ。銃だって今はアタシが持っているが、一度は奪われた。

 だというに、ヤツはアタシに指一本触れるどころか、未だにこの地獄の牢獄から出ることもない。先ほどまでならハッチの外は真空の宇宙だった。けれど、今は違う。ハッチの向こうにはアタシの乗ってきた小型船がある。

 出ようと思えば、この地獄の牢獄からヤツは出られるはずだ。

 だというのに、ヤツはこの牢獄の中に居座っている。つまりは、この太陽系人はこの地獄のような熱さを好んで享受しているのだ。どんな変態だ。

 もしヤツが変態だとすれば、アタシを裸にして、この牢獄にともに入るというのが、ヤツのプレイの一巻ということになる。ハイレベル過ぎてアタシにはついていけない。

 また視線が時計に向いた。

 ――九分。

 まだ九分しか過ぎていない。こんなにも熱いのをあと三分も我慢しろというのか。犯すなら、いっそのことひと思いにやってくれ。

 もう、うんざりだ。


「おい……。アタシはもう無理だ」

「我慢しろ」

「我慢しろって、さっきからそればっかり。確かにアンタの船を襲ったのはアタシたちだ。それを恨むのは分かる。だからって、こんな残酷な仕打ちはないじゃない。殺すなり、犯すなり、好きにして。そのかわり、お願いだから、ひと思いにやってよ」

「あと三分だ。我慢しろ」

「それが無理だって言っている!」

「喜べ。たった今、あと二分になった」

「そういうことじゃない。何でもするから! お願い!」

「何でもするなら、あと二分待て」

「ああっ! もう!」


 無理だ。

 コイツと話していても、らちがあかない。無理にでも出てやる。

 そう思って立ち上がったが、ヤツはすぐにドアの前に立ちふさがって、アタシをにらみつけている。

 くそっ! またか!

 さっきからアタシが業を煮やすとこうして立ちふさがる。けれど、アタシだって我慢の限界なんだ。強行突破してやる。


「どけ! さもないと撃つぞ」


 アタシは脇から銃を手にとってヤツに向けた。一度は銃を奪い取られているから、それは無駄な抵抗かもしれない。けれど、それでもアタシはそうする他なかった。

 ヤツはそれに眉一つ動かさず、腕を組んだまま立ちふさがる。一体、ヤツは何が目的なんだ。この人をいたぶるサディストめ!


「本当に撃つぞ」

「やってみろ。だが、私を殺せば貴様の人生は最悪なままだ」

「今が一番最悪な状況だ! やりたくもない海賊になって、鉄砲玉をやらされて! そして、その上、得体の知れない太陽系人に蒸し焼きにされている! これ以上、最悪になるもんか!」

「落ち着けよ、もうすぐだ」

「知るか! いいからどけ!」

「…………」


 じっと銃を向けてにらみつけるアタシと、仁王立ちに立ちふさがる悪魔のような男。

 アタシと太陽系人はそのまま膠着状態に陥った。時が止まったように、アタシたちのあいだに、しんとした時間がしばらくのあいだ流れた。その空間で動くものは汗だけだった。

 銃を持っているアタシの方がどう考えても有利な筈だ。ましてや相手はアタシよりもずっと長く、この地獄の牢獄にいた。

 こうしている間にも体にじっとりと熱気がまとわりつく。立ち上がったせいで足の裏を熱を持った床が焦がす。汗が留まることを知らずに流れる。干からびて死んでしまいそうだ。

 そんな状況にアタシよりずっと長くいるアイツの方がもう限界のはずだ。

 現にアタシ以上に汗を流して、時折左右に体が揺れている。限界が来ている証拠だ。

 今なら勝てる。

 確かにアタシは生きたいわけじゃない。

 この最悪な人生を好き好んで続けたいとは思わない。

 けれど、こんな最悪な死に方ってないじゃないか! 死に際までこんなに最悪だなんて、そこまで神様はアタシが憎いのか。せめて死に際くらい穏やかにさせてくれ。

 ――だから。


「そこをどいて、太陽系人」

「…………」

「最後通告よ。今度は本当に撃つ」


 しかし、ヤツはそのまま動かない。悪いが撃たせてもらう。そう覚悟を決めて、引き金に手をかけた。あとは指をぐっと引くだけだ。指が震えているのが分かった。

 だけどやる。

 覚悟を決めた。

 そうして、その瞬間――太陽系人はハッチの前から動いた。

 道を空けた。


「……いいのか?」

「いいさ。……たった今、十二分経った」


 ヤツの視線の先、十二分時計を見ると、確かに針はちょうど一周していた。この膠着状態のあいだに二分が経っていたらしい。

 そうして、アタシはハッチの外へ出た。それに釣られるようにヤツもまた蒸し焼きの地獄から外へ出てきた。




 ハッチを抜けて、アタシの小型戦闘艇、そのエアルームに入ると、冷えた空気が肌を撫でて、心地良い冷たさが体にあった。

 太陽系人のサウナとアタシの小型艇はともにユニバーサル規格で、サウナのハッチは今は直接、小型艇のエアルームへと繋がっている。

 ――生き返った。

 アタシと太陽系人、二人も入ればいっぱいの小さなエアルームは窮屈であるはずだったが、さっきまで灼熱地獄にいたおかげで解放感があった。アタシがひと心地着いていると、背中から大きく息を吐く音が聞こえた。振り返ると、アタシと一緒に蒸し焼きの牢獄から出てきた太陽系人も、心なしか表情を緩めているようにも見えた。

 ヤツはそうして息を吐くと、ユニットのハッチを閉めて、コックピットの方に視線を向けていた。

 ――こいつ船を奪う気か?

 アタシはその視線を鼻で笑って、ヤツに言ってやることにした。今までのちょっとした復讐だ。


「船を奪いたいなら無駄。こいつのエンジンはあんたたちの貨物船に大穴開けられて動かない」

「そんなのは窓から見て知ってる」


当たり前のように答えたヤツに、アタシはむっとしながらも首をかしげた。

 船を奪うのでなければ、コックピットに何の用事がある? 通信で助けでも呼ぶつもりなのか。それにしたって、この小型戦闘艇では通信範囲は限られている。アタシの仲間からも、コイツの仲間からも、もうずいぶん離れているに違いない。この無駄にだだっ広い宇宙で、どこかの船が偶然、この宙域を通りかかるという奇跡でも起きなければ、助けなど来ない。

 そもそも太陽系人は水中で呼吸ができないはずだ。


「それよりどうやって中に入るんだ」


 アタシの疑問を置いてきぼりに、ヤツは疑問を投げかけた。

 エアルームとコックピットを仕切るのは薄い水の“膜”。水を逃がさないためだけの装置だ。“膜”は水を逃がさないだけで、それ以外は何でも通す。ヘルジン軌道星系で当たり前のこの装置は、どうやら太陽系には存在しないらしかった。


「どうやっても何も、そのまま体を突っ込めばいいだけだ。水を逃がさないだけの膜だからな。だが、貴様ら太陽系人は水中で呼吸は出来ないんじゃないのか」

「窒息するほど長くいる気はない。それよりもお前も来い」


 そう言ってヤツはアタシの手を取ると、コックピットへと体を入れた。

 すうっとヤツの体が膜の中へと入り込み、手を引かれたアタシも取り込まれていく。

 指先が膜の中に入り、水に手をついた。


「ひゃっ!」


 ――冷たい。

 その冷たさに思わず声が出た。

 それは不思議な感覚だった。

 今までこの水で満たされたコックピットに、冷たいだとか、こうして驚くことはなかった。しかし、今、アタシの体は地獄の牢獄で充分以上に熱を帯びていた。その熱を急激に覚ますような水の冷たさに思わず声が出た。


「お、おい! もう少しゆっくり……」


 アタシがそう頼む暇もなく、ヤツはいつのまにか全身を膜の中に入れ、すぐにアタシの体を引き入れた。

 水の冷たさに全身が驚いて、硬直している。こんなにも水に驚くことは初めてだ。

 少しはアタシの言葉に耳を貸せ。太陽系人は人の話を聞けないのか。

 これもまた何かの刑罰なのだろうか。むっとヤツをにらみつけようとすると、そこには見たことのない表情をした男がいた。

 ――なんという恍惚とした表情。

 この太陽系人とはたかだか十数分の付き合いだが、しかし、その間にアタシが見たのは、しかめっ面と、不敵に笑うニヤリとしたむかつく顔だけだ。その男が、こんなにも恍惚をした表情をしている。

 アタシたち、ヘルジン軌道人は水を好む種族だ。しかし、いくら水を好むと言っても、この太陽系人のように、水に浸かって、ここまで恍惚とした者を見たことがなかった。なぜ水中呼吸も出来ない、この太陽系人がこんな表情をするのか。あるいはヤツが水でイク変態なのか。それがわからないと思ったのは一瞬で、アタシは答えを自ずと知ることになった。

 アタシの体が水に驚いたのは、最初だけ。ほんの少しの時間だけだった。

 冷たかったはずの水から守るかのように、体にまとわりついた熱があったからだ。アタシが地獄の釜ゆでと評したはずの、あのサウナの熱がアタシの体に張り付いて、冷たさから身を守ってくれていた。

 でも、それは水の冷たさの全てを遮るわけではない。じわりじわりと、体に張り付いた熱が水に剥がされていくが、それが不思議と心地良い。そうして入り込んでくる水の冷気が火照った体をだんだんと冷やす。その冷たさが体から力を奪い、だらりと肉体は弛緩した。弛緩した体にはただ、熱と冷たさと、アタシの体があるだけだった。

 ふわりと無重力と水の浮力で体が浮かぶ。

 ――気持ちいい。

 なんて気持ちいいんだ。

 普段から浸かっているはずの水が、こんなにも心地良さを持っているとは。

 どくり、どくりと血管が脈打つ。地獄のような熱でだるだるに緩んだ血管が、この水の冷たさで無理矢理に収縮されて、全身に血液が巡り、脳に充分以上の酸素を送る。

 思考がクリアになる。

 透明になった思考が、無駄を省く。普段から取り留めもなく、頭を巡る悩みや自己嫌悪、様々な疑念、それらを必要ないと脳が判断して、デリートする。

 脈動する体と水の揺れが一つとなって、アタシの体が水に溶ける。視界に映る透き通った水と同様に思考は澄み切っている。

 ――あぁ、気持ちいい。

 今、脳が処理すべきと判断した情報はそれだけだ。

 水と一体となって浮かぶアタシの体が、ゆらゆらと揺れた。時にコックピットのモニターの光が、フロントガラスから入り込む星の光が、水に揺れて、きらきらと美しさを演出した。

 ――ずっとここに浮かんでいたい。

 そう思ったが、またアタシの体を引き寄せる力があった。

 恍惚としていたはずのあの男だ。やわらかな微笑みを浮かべた太陽系人はアタシの体を引き寄せて、水の“膜”の向こう、無重力のエアルームへと連れ出そうとしていた。

 ――待って! ここからアタシを連れ出さないで!

 そう言いたかった。いつまでもこの心地の良い水の中に浸っていたかったが、この男はそれを許すつもりはなかった。


「素晴らしい!!」


 水の“膜”の外へ出ると、ヤツはまずそう叫んだ。

 さっきまでのアタシなら、何だコイツと思っていたに違いないが、あの心地良さを知ってしまった今となっては、それを咎める気にはなれなかった。

 今、私は全くヤツと同じ気持ちだった。

 しかし、それ故に私はわからなくなった。

 ヤツがなぜ水の外へ出たのか。あるいは水中で呼吸の出来ない太陽系人には、呼吸が必要だっただろうか。

 その疑問を見透かしたように、男はアタシを見て、またニヤリと不敵に笑った。


「そのままじっとしてろ」


 ヤツはそう言うと、エアルームの無重力に身を任せたままに、体の力を抜いてふわふわと浮かんだ。

 何の意味がある、とは今更聞こうとは思わなかった。この一見、無意味に見える行為にも意味があるように思えた。

 だから、アタシもヤツを真似て、ただ力を抜いて、無重力に身を任せた。

 あの、地獄のような熱い牢獄――ヤツの言うところのサウナというのには意味があった。すべてはあの水の心地良さのための布石だった。本当に熱くて、それは刑罰のように辛かったが、しかし、そこから水に全身をつけた時の心地よさは、水に最も親しんだと言われるヘルジン軌道人のアタシをして、全く未知の恍惚を与えてくれた。確かにあの地獄に意味はあった。

 だから、これも意味があるのかもしれないと思った。

 もし、あの未だかつてなかった水の感覚、それすらも何かの布石だったとしたら。今更ながら、この男の行為に何からしらの意味があることを、ようやくアタシも気づき始めた。

 ふわりと無重力に任せて、浮かんだままにそんなことを考えていたが、次第にクリアになっていたはずのアタシの思考は鈍くなった。だんだんと目を回したように世界が回る。アタシの体が無重力に回転しているだけなのか、それとも違う何かが渦巻いているだけなのか。

 ――のぼせてしまったのだろうか。

 のぼせた、というには妙に心地が良い。それは、あのサウナというやつの熱のせいなのか、それともコックピットの水のせいなのか。何が原因かは分からないまま、歪む視界を見ていた。向こうに水の膜が見えた。

 ゆらゆらと膜の表面が揺れて、時折光を反射した。それはとても美しく見えた。

 水面の揺れの美しさに、今までアタシが気が付かなかっただけなのか、それともこの視界の歪みがそうさせたのか。それは分からないけれど、この歪みに身を任せることは心地が良さそうに思えた。

 ふっと体が軽くなった。

 それは無重力の軽さともまた別のものだった。まるで空間溶けるように、体の質量が消えたように感じた。歪んだ視界は様々な光を映すだけになった。

 モニターの光、水面に反射する光、エアルームの窓の向こう、サウナのオレンジの光、遙か彼方の星々の光。

 隣で浮かぶ奇妙な男の光。

 そして――アタシの中にある光。

 それらの光が瞬いている。そうして、たくさんの光がこの世界に広がって、宇宙に広がって、それが渦巻いて銀河を作っている。

 アタシはこの宇宙の中で、たくさんある光の中の一つに過ぎなかった。ただ集まった光の一つ。それだけだ。

 特別な光じゃない。銀河に、宇宙にありふれた光の一つ。“何者”でもない、ただの光の一つに過ぎない。けれど、今はそれが心地良かった。“何者”でもないことが、ただ銀河を作る、宇宙を彩る光の一つであるだけで、それを知っただけで、それだけで幸せに思えた。

 光はぐるぐる、ぐるぐるとさらに渦巻いて、アタシはこの宇宙の中で銀河を作る一つに溶けていった。

 そうしてアタシはただこの心地よさに身を任せて、宇宙に溶けた。




 ――最高だ。

 どう控えめに言っても最高だとしか言えなかった。

 ヘルジン軌道人が水を好む種族だとは知っていた。その生活は常に水とともにあり、終いには宇宙船のコックピットまで水で満たしてしまうほどに、水を好むとは知っていた。水生生物というわけでもない。もちろん、連中は水中呼吸が可能だが、しかし、陸で生きることも別にできないことじゃない。

 それにも係わらず、わざわざ宇宙船のコックピットまで水でいっぱいにする。それを知ったときには、なんという馬鹿かと思ったが、しかし、今、ヘルジン軌道人の水に浸かり、馬鹿は自分だったと知った。

 これほどまでに最高の水風呂に出会ったのは、初めてだ。

 宇宙貨物船という、銀河のあちこちを旅する仕事上、いろんな星に行った。そのおかげで、様々な星の、様々なサウナを巡ることが出来た。

 それぞれのサウナには特徴があった。

 サウナの温度、湿度、香り。水風呂の温度、肌触り。施設としての居心地の良さ、飯のうまさ。それぞれのサウナ施設に、それぞれの良さがあった。

 しかし、これほどまでに最高の水風呂に出会ったのは初めてだった。

 水温は十七度ぐらいだろうか。冷たすぎず、温すぎず、絶妙な温度だ。もちろん、サウナの熱さとのバランスもあるが、この宇宙の漂流するサウナとの相性で言えば、抜群だった。

 水風呂の肌触りも無類だ。来る者を拒まぬ優しい水質だった。まるでお母さんの羊水のような、安心感。普通、水風呂に浸かるとき、その冷気に思わず体は強ばるものだが、しかし、それを一切させない、絶対的な安心感。

 かつて行った火星のサウナオリンポス、火星の地下水を汲み上げた水風呂が評判で、サウナの本場である太陽系随一の水風呂と言われていた。あそこに行ったときには、これ以上の水風呂は宇宙中探してもあるまいと思ったが、しかし、ここにあった。

 ヘルジン軌道人が水を好むというのも納得だ。これほどまでに最高の水風呂を隠し持っていたとは。

 水から上がり、エアルームで宙を浮かぶとすぐさまに視界が歪み始めた。

 ――サウナトランスだ。

 こうしてサウナトランスが始まると、意識はそのままに宇宙に溶けていく感覚に身を委ねることが出来る。人生で最上の瞬間である。これがあるからサウナは止められない。きっと天国っていうものを最初に考えた奴は、サウナ好きに違いない。何せ、このサウナトランスの瞬間こそが、天国そのものだからだ。

 ふと、隣を見ると、ヘルジン軌道人の女が無重力に浮かびながら、恍惚とした表情を浮かべていた。

 ――こいつも知ってしまったか。

 サウナの喜びを知った人間は、もうサウナ無しでは生きることは出来ない。サウナ好きとは業が深い生き物だ。サウナのない生活に耐えられないと知りながら、同胞を作りたがる。それでも誰かにこの天国の喜びを教えたいと願うのは、自分一人で独占するには大きすぎる喜びだからだ。

 女はさっきまで裸を気にしていたはずなのに、今やタオルがはだけるのを気にもせずに無上の喜びに浸っている。

 きっと今まで不幸な人生だったのだろう。なにせ、自分で最悪の人生だと言うくらいだ。生きる喜びを得ることが出来なかったに違いない。そうした人間にこの快感は強すぎたのかもしれない。

 そうして、サウナトランスを抜けると、人は“整う”。

 一体、何が整うのかと言われても困るが、とにかく“整う”のだ。

 今までの自分の体が間違った状態から正常な状態へ、歪んでしまった精神が、あるべき状態へ。そして、それ以上に得体の知れない自分の中の何かが正しくなる。

 今まで間違っていたと思えるほどに、肉体が、精神が、魂が正しい状態へと戻るという感覚。それを“整う”と言わずして、なんと言えばいいか。他の表現が思い浮かばない。

 すでに私は“整った”。

 一流のサウナ好きは、どうすれば素早く“整え”られるか知っているものだが、この女にはまだ時間が必要だろう。

 もうしばらく、私もこの心地の良い無重力に身を任せよう。

 そして、それからどうするか――。

 いや、それはもう決まっている。この女の表情を見て決めた。

 今の恍惚として、喜びを得た、彼女の顔は美しい。少なくともさっき私に銃を向けていた時よりも。彼女の青い髪は水風呂のように澄み切って、時折、水滴のような汗を宙へ流した。

 ならば、与えよう。最高のサウナを。私の知るその数々を。

 そうして、私は無重力に任せたまま、宙に揺れた。

 体と同じく浮かんだペンダント、それを見つめてふっと笑った。


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