第585話 別れ道
子供がおよそ六十名、青年が三十名。
ノクトー流剣術道場の門下生はおおよそ、そんな数らしい。
食堂の店主は中空に視線を漂わせ、指折り数えながら教えてくれた。
「それなりに多いですね」
ヒョークマンはそれを聞いて素直な感想を呟く。
「ええ、なんせ謝礼が安いもんだから……」
店主は照れたように笑いながら情報を補足した。
確かに、店主がいう月謝の額はかなり安い。
少なくとも、教授騎士として僕が教え子から受け取る金額とは桁がいくつも違う。
「ベリコガ先生は鷹揚な人だから、教え方も優しいし、月謝の支払いが遅れてもうるさくは言わないでしょう。むしろ、路上で寝起きしている様な金のない子供なんかを拾っちゃ、飯を食わせたりして、大勢に慕われた人でした。だから、ノクトー流剣術道場はどちらかと言やあ、ベリコガ先生の支援者が力を合わせて支えている様な集まりなんです」
ベリコガ自身、達人冒険者の域を越えてかなりの深層へ潜る実力を身につけていたので迷宮内での稼ぎもあっただろうが、それほど派手な暮らしをしていた様子もなかった。
むしろ自らの母親とひっそり、息を潜めるような暮らしぶりで、豊かな身分の出身者であることは隠したかったのかもしれない。おそらく僕が目立つなと言ったから。
それで彼は身銭を投じてまで冒険者の初級教育をやり続けていたのだ。
そんなことに今更気づかされる。
「そっか、まいったな。俺はそのベリコガさんみたいにはやれないと思うけどな」
ヒョークマンは苦笑しながら呟く。
苛烈な生活に身を投じて来た男だ。
和やかに子供たちの教育が出来るかと言われれば疑問が湧くのは当然である。
「いいんじゃないかい?」
ムニャムニャと口を動かしながらサンサネラが呟く。
「ベリコガさんは誰かに継いで欲しいと言ったらしいが、そりゃ急に辞めると教え子に迷惑が掛かるからだろう。それでアナンシさんに適任者の紹介を頼んだんなら、アンタの役目はベリコガさんの代わりに道場をゆっくり閉めることさ。人望がなきゃ、皆がどんどん寄りつかなくなるだろうから、むしろ向いているだろうよ」
サンサネラの言葉にヒョークマンはムッとした様子で、自らの顎を撫でた。
「人望がないとは失礼な。俺だって前線では熱烈なファンがいたんだぜ。味方にも敵にも」
華々しい戦果をあげたヒョークマンは居並ぶ皆の耳目を引きつける文字通り戦場の英雄だったワケだ。
しかし、ベリコガが続けてきたことはある意味でその逆が求められる。
地道な指導は賞賛とは無縁で、結果も金銭や立場に結びつかない。
それでも都市に求められる生き方ではある。
「君が戦場帰りでも……いや、むしろそうだからこそ、やった方がいいかもね」
そうすることで戦場帰りに伴う都市生活に対する苛立ちや摩擦をマシにするかもしれない。
「ふむ、そんなもんですかね。まあ、暇はあるんだから、先生がそこまで言うんならやってみますよ」
ヒョークマンはこうしてベリコガの後継を受任してくれた。
横で話を聞いていた店主も話を聞いて頷く。
「じゃあ、主立った連中にはこちらから伝えておきますよ。初回稽古は顔合わせも兼ねて出来るだけ全員に参加するよう伝えますんで、日付が決まったら教えてくださいよ」
そうして、ベリコガの頼みに決着がつけられ僕も胸のつかえが取れた気がした。
店主から持ち帰り用の料理を受け取り、僕たちは食堂を出る。
店の前で実家に向かうというヒョークマンと別れ、僕とサンサネラは家路を歩く。
いつの間にか太陽は傾き、夕方特有の日差しが街を染めていた。
「ねぇアナンシさん。アッシもいつかここを去る余所者だが、頼みたいことがあるんなら早めに言っておいておくれよ」
道を歩きながらサンサネラがポツリと呟く。
「アンタがここから居なくなってもしばらくはここに残っているつもりだからさ」
その言葉に、僕はなにも言い返せなかった。
「アンタやアンタの家族には本当によくして貰っているよ。居心地が良くて南方平原への出立をズルズルと延ばしちゃう程に。でも、アンタがどっかで迷宮に落ちるようにアッシもいつかは旅立たなきゃならない。だけど、それはアナンシさんが居なくなった後だし、アッシがいる間はアンタの家族を命がけで護るつもりさ。このナイフに誓うよ」
言いながら真っ黒い手がルビーリーのナイフを叩く。
心強く、有り難い約束に僕は立ち止まった。
かつてガルダは自らが迷宮に落ちた後の事など知らないと言った。
だけど、僕はそれほどに割り切れていない。
ルガムやステア、アルやサミ、メリア。
他人に護って貰うほど弱くはないがシグとギーとパラゴ。
離れがたく、捨てがたい沢山の人々。
それでも僕は進むためにそれらをすべて捨てようとしている。
希望に満ちた楽園に行くためではない。ただ、闘争が延々と続く暗い迷宮へ帰らない旅に出ようとしているのだ。
置いて行かれる家族は決して理解などしてくれないだろうし、許される事もないだろう。
数歩先まで歩いて、サンサネラが振り返った。
「どうしたね、アナンシさん」
夕方特有の風が吹き、僕とサンサネラの間を流れていく。
「サンサネラ、君が僕の仲間で本当によかった。ありがとう」
僕の精一杯の礼に、サンサネラは頭を掻いて背を向ける。
ただ、しっぽが一振りされて彼の気持ちを僕に伝えていた。
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